迷信の効用

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あちこちで大きな地震が続いた。
こういうときに話題になるものに奇怪な雲を見た。地震の前触れだったのでは? という「地震雲」の話である。

古来から人は天地人は何らかの相関関係があると考え、生まれ月に星座を当てはめたり、白虹が太陽を貫くと革命が起きるなどと言い伝えてきた。地震雲も今のところ科学的根拠はないのでそうした類と思われる。
では迷信か、そんなものを信じてるやつは馬鹿かというと、そういう短絡こそが愚であろう。

ベネディクト・カンバーバッチの演じるシャーロック・ホームズのドラマで、酒に薬を入れられたホームズが得意の「人を見ただけでその人が何者で何をしようとしているのか推理する」能力を発揮しようとした際、相手が死のうとしていることが分かり、しかしなぜ自分がそう推理したかは上手く説明できない、という描写が出てくる。先に答えが出て、後からなぜ自分はそう推理したのかを類推するのだ。

推論は論、ロジックを積み上げて重ねていくことで答えに至るが、推理はシャッフルされた断片をジグソーパズルのようにつなげるのだろう。だから先に答えが出てしまうことがある。全部つなげたから何の絵のパズルかわかるのではなく、途中で何の絵か分かって確認作業としてピースをはめている。
たとえば婚約者の男性が電話で母親に「ママ~」と言っていたら、その断片からだけでも結婚生活が失敗に終わることが予期できるのと同じだろう。

人間は色々なことを感じ取っている。しかしそれを明確に言葉に出来ないでいる。あるいはそれにぴったり当てはまる言葉自体がない。しかし何かを見た瞬間にパズルの中核のピースが埋まる瞬間がある。

地震雲もそれで、地震雲が出たから地震が起きるのではなくて、無意識下にいくつかの断片的な天変地異の前触れを感知していて胸騒ぎ、予感があり、雲を見たことでそれが言語化される、という「卦」として機能している可能性はある。

少なくとも雲を見て地震雲だと思うことは「今自分にとって地震が大きな不安としてある」という心理分析、ロールシャッハテスト的な意味はあり、それは馬鹿に出来ない。その意味ではまさしく天地人は対照しているのである。(運動前の静的ストレッチには怪我を防ぐ効果はないといった説も一見「科学的」に見えるが、こうした内観から自分の違和感を読み取ったり注意を喚起するという効能は考慮されていない。運動の研究者は運動のことしか見ていないから)

人間は完全な客観を持ちえない。我々が知覚しているのは現象ではなく現象に反響した自我だろう。
たとえばFXを始めたいとぼんやり考えている人の家の庭で白蛇が現れて消えたとする。その人は白蛇が現れた! 瑞兆だ! FXのはじめ時だ! と捉える。一方、漠然と暴落の不安を感じている人は白蛇が去っていったと捉え、不吉、やめ時だと考える。

ちょっと話はズレるが、これをつきつめて考えていくと、人間は理由があって行動するのではなく行動する理由を探している。自由意志なんてない、とも言える。禅・老荘の思想から最新の脳の研究までそうなっている。

それを悲観すると、真の自我に目覚め自由意志をもとうと考え、自分を苦しめる苦行をはじめる人もいる。
あえて焼けた火箸を握るとか、デメリットしかないことをすれば自由意志があることを証明できる、という寸法だ。仏典の自ら焚火に飛び込んで己を食わせた兎の話や、自分を十字架にかけた相手を許したキリストが称賛されているのも同じだろう。
そうなると「人間、自由意思を追求すると悲壮で辛いことしかないのでは?」ということになり、それは嫌なのでアッパッパーな方が幸せなのだと思いたくなる。

私は人間には自由意志はないと言われたら「まあ、自由意志すらないなんて、なんて自由な存在なのかしら。とっても素敵ね、踊りましょう」くらいにしか思わないが、苦行はいやだがアッパッパーのまま生きるんじゃ昆虫と一緒だ、プログラムの奴隷だ、という人には特定の人やもの、ジャンルを嫌うのをやめてみることを勧める。

それを嫌いな理由は後付け、偏見ではないか? それらの良い所全部を知った上で批判しているのか? 誰かの意見に流されているのではないか? 単なる食わず嫌いではないか? 別の評価軸で見なければいけないものを違う物差しで測ったから価値が理解できなかっただけではないか? また逆に、自分が正しいと思う思想信条も疑ってみる必要があるのではないか?

こうした思索は苦手なものに触れるという点では火箸を握る苦行に似ているが、後者はやけどが残るだけだが前者はやったぶんだけ知見が広がり、嫌いなものが減るので生きやすくなり楽になっていく。
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