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ほぼ完全に宗教じゃねえかって話

武術は矛盾の塊です。あるいは武術には矛盾という概念がありません。それは相対性を超えたものだからです。

実用の技術であることとと芸術であることが両立するし、最大効率を追求することと目的意識、価値観を放棄することが同義になります。
昔の人が残した道歌で、「きりむすぶ太刀の下こそ地獄なれふみこんでみよあとは極楽」というのがありますが、これはある瞬間、自分の命を手放す行動をしなければ助からない局面もあるということを示しています。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とも言います。
生きるための武術であるなら相手の太刀から遠ざかったほうが生存率が上がりそうなものですが、剣や銃に対してはなまじ距離をとるほうが危険になる場合が多々ある訳です。
この、自分を捨てる、命を手放す、ということを求められることにおいて剣と禅は一如です。捨てることが拾う事であり手放すことが得ることでもあるからです。禅もやはり相対性を超えた世界です。

この観念は日本人であれば、昔話の「良いおじいさん」と「悪いおじいさん」の対比で直感的に理解できるでしょう。
花咲かじいさんでも舌切り雀でもおむすびころりんでもわらしべ長者でも、手放すことを恐れない「良いおじいさん」は得て、そのセオリーだけを盗もうとした「悪いおじいさん」サイドは似たようなプロセスを踏んでいてもひどい目にあいます。
理に従うこととセオリーに従うことは非なるものだし、最初から利潤を求めている人間は最大効率にたどり着けないということです。最適解は常に今の自分の知識の延長ではなく飛躍した発想の中にあり、飛躍は効率を度外視しないと出来ないからです。科学技術でも、今その場で役に立つ研究だけをしていたら、その国の技術進歩は中世、近代レベルで止まるでしょう。

自分の発想や習性の枠の中で同じような行動をして、死の影におびえて暮らすというのはみじめなことです。しかし大体の人はそうして生きています。
本人は自覚がなく、単に自分はお金や名声が欲しいだけだ、楽しく騒ぎたいだけだ、もてたいだけだ、と思っていても、ではそれらの行動原理は何から発しているかというと、死が迫ってくるからでしょう。人間が不死であるなら承認欲求もないしお金や贅沢やセックスに目を向けません。
これらは食べ放題のバイキングで時間制限が近いからできるだけ金目のものを腹に詰め込もうとするような行為やバーゲンセールだから、といらないものを買いあさってしまう行為の類で、リミットがあるから、そうしないと損だと思ってやっている訳です。つまり行為の主体は自分にあるのではなく、バイキングやバーゲンの側、すなわち寿命、死にある。死に振り回され、奴隷化しているということです。
それは本当に欲しいもの、やるべきことを見えにくくしているし、最悪の場合、そうしたリミットが提示してくる「お得な選択肢」を選び続けているだけで時間切れになり、本当の本当に自分がやりたかったこと、やるべきだったことはなんだったのか、ということを考える間もなく寿命を迎えます。

では死の奴隷にならないようにするのはどうすべきか。

といっても死はただそこにあるだけで人間側が勝手にそれを恐れてやっているだけのことです。死は積極的に何かしてくる訳ではありません。自分の習慣を牢獄にして、死を看守にしているのは我々自身です。バイキングで勝手に食いすぎて苦しくなって、もうバイキングなんて沢山だ、と言ったり、バーゲンで買ったものが後で見たらいらなかったからといって捨てるのが愚かなのと同じです。つまり何もかもこちらの一人相撲、気の持ちよう、自分次第ということです。
冒頭の太刀の話にも通じますが、死はだんだん近づいてきますが、それに背を向ければ「死に追いかけられる」恰好になります。しかし、こちらがそれに向き合っていたなら「死を追い詰める」「死にたどり着く」といった前向きな見方になります。充実した生はそこからはじまるのではないでしょうか?

武術は、死を恐れ、効率を求め、個人主義をつきつめてきました。
その結果が生を手放し、損得を考えず、自分から自由になることであるというのは、非常に逆説的で面白いところです。

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