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視る、聴く

「見る」と「視る」、「聞く」と「聴く」、といったように、同じ目と耳を使った行為でもバージョンアップしたものがあります。

たとえば何かに熱中している人に「雨が降ったら洗濯物とりこんでおいて」とか「お風呂の水がいっぱいになったら止めて」と伝えても、おおむね思った結果は得られません。これは「聞いて」はいても「聴いて」はいないからです。この例で、視る、聴くといった能力は視力や聴力の問題ではなく、意識のあり方の問題だというのが分かります。

武術における視る、とは、シャーロックホームズの推理のようなものです。重心の位置、リーチ、構えなどから、何をしようとしているのかを察知する。初見の相手であっても体格や拳ダコ、餃子耳などの情報があれば何をやっていた人なのかはわかります。同じローキック一発でも、受ければ相手が空手家なのかキックボクサーなのかは厳然と違うのが識別できます。また、武器を携帯しているかどうか、伏兵がいないかどうか、なども重要な情報です。虚勢を張っているが内心では恐怖している、とか、笑っているけど怒り出す一歩手前だな、といった感情の機微も分からなければなりません。
型を習うにしても、その型の意味するところは何か、その型を考案した人は何を達成目標とし、どういった身体操作や戦術を理解させようとしているのか、を考えなければただの体操、ダンスでしかありません。

言い換えるとこれは、未来の予知、経歴のリーディング、思考・感情の読み取りというようなことで、やはり魔術、呪術の類に近いことが分かります。「視る」とは、目の前のものを見ているのではなく、その物体が示す情報、サイン(卦)を見ているのです。逆に相手に嘘のサインを送ることでフェイントをかけることもできます。

こうした能力は人間の生活のあらゆる局面に現れます。
寿司職人ならカウンターでお任せで握りながら、客のネタの好き嫌いや満腹度を読み取り加減していくし、ホテルマンなら自殺しそうな一人客が来たら注意します。刑事は不審者を警戒し、高級宝石店の店員は客の懐具合を一瞬で判断します。
球技なども球そのものを見ていても間に合わず、相手のフォームから、球が来るであろう地点、未来の予知映像を頼りに捕球したり打ち返したりしています。

私の場合、武術をはじめたきっかけが、いじめをしてきた相手と一週間後に決闘をするから、というものでした。
同じことを習っても、「特定の個人を明確に殺傷する気で」「負けたら自分が死ぬかもしれず」「その期限が区切られている状態で習う」というのはまったく質が違います。私はそういう意味では最初から「視」ざるをえなかったし「聴」かなければ死ぬかもしれない、と思ってやっていました。
それはソフィスケートされて殺傷力を制限された技術をみて、その原型や本質である隠されたものを取り出すという事です。柔道の目で見れば内股は足を跳ね上げて投げる技ですが人を殺傷するという一点でその技を見たなら、足を跳ねるのではなく金的を蹴りながら投げる、服の代わりに耳や髪の毛を掴んで投げる、というものが「視えて」きます。

最初にそうやって武術を理解しようとするのがデフォルト化したため、まがりなりにも今、専業武術家でやっていけているのでしょう。宝石を売るノルマのない店の店員には客の懐具合を見抜く能力は備わらず、回転ずしに何年いても、客の好き嫌いや満腹度は計れません。その能力を必要とする環境におかれて初めてその能力は発達します。だから武術は実用から離れてはいけないと思うのです。具象から抽出された抽象は本質ですが、抽象を抽象化したものは、何でもない泡のようなものでしかありません。

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