2007
年末特別企画、ドラネコ商会の武術が出来るまでの歴史だよ。ドラネコのはじめてを見にいってみよう!
クルクルバビンチョパペッピポ ヒヤヒヤドキッチョのモ〜グタン!
なんだ、この光は! 力が勝手に…ギャース!

という訳で、時代は私の幼少期に戻ります。
焼け野原に立った闇市、進駐軍のジープ。ラジオに流れる美空ひばり。
無論そんなものは出てきません。
テレビがガチャガチャからリモコンに変わりはじめ、自動改札はまだ無かった程度の昔です。
そのころ、私はすでに小さな大人でした。
「将来、何になりたいか」といった良くある質問に、同級生たちがスポーツ選手や、お花屋さんなどを挙げる中、『私が真に私自身であり続けることさえ出来れば、乞食になろうと大臣になろうと変わりはない』と思いつつ、それを悟られぬように子供らしく振舞える位に大人でした。そんな八歳児。
外で遊ぶより本を読んでいるのが好きで、親の本棚の本なども、ルビを頼りに相当難しいものまで手を出していました。
閉じられた空間で、限られた物を深く掘り下げていく事を愛しており、この性質が武術の研究の下地になっていたのだと思います。
また、奇麗な菓子の箱や瓶といったものを集めるのが好きでした。
さらに長じては標本箱や、額縁、鳥籠のようなものも偏愛しています。こうした空っぽのものに、何をしまおうかと想像するのが楽しいのです。
これも、俳句や短歌などの定型や形式、武術の枠組そのものへの興味と関連していると思います。よく虚無的な人間であると指摘されるのも、その一環でしょう。あ、虚無的な人間だからそういうものが好きなのかな? まあいいや。
そして、時代は少々飛んで中学生時代。
そうした虚無的な精神を持った大人が中学校に毎日通った場合、どうなるかというと単に苦痛でしかありません。そして、そういう苦痛は態度に表れます。
まして、そのころの私は美少年で、精神的貴族に位置していたので、ことさら鶏群の一鶴でした。
子供はそうした異物、「子供に混じりこんだ大人」に敏感ですから、迫害され、孤立することになります。
しかし、当時の中学校教育は、いじめや校内暴力は社会問題化はしていたものの、現実問題化はしていないというか、学校の責任があまり問われず、当事者同士の解決に任せるという、自治とも無責任ともとれる一種の無法地帯でしたので、身を守る必要が出てきました。
なので私は、少林寺拳法を見学に行くことにしたのでした。
実はこの時、執拗な敵意を向けていた一人から、私は一週間後の公開処刑宣告を受けており、泥縄式に、即席の強さが必要になっていたのです。
当時、隆慶一郎の『死ぬことと見つけたり』か『かくれさと苦界行』に影響された私は、衆人の前でさらし者になって誇りを汚されるくらいなら、刺し違えてでも殺そうという決意を固めていました。
だから、なんと入門前に三回もの、フルタイム見学をしています。迷惑な熱心さです。本当に命を守るに足るものなのか、見極めるのに必死だったのです。
ここで見た先生の強さが、その後の武術を続ける中で基準値となったのですが、私は運が良かったと思います。この先生は本物でした。たとえ小便中に後ろから鉄パイプで襲っても勝てる気がしない強さでした。
今でも、50を過ぎた指導者で、この先生に伍する強さの人間はほとんど見たことがありません。
後に他の少林寺拳法の道院を見て、全然やっていることが違うことに愕然としたのですが、私が行ったところは相当の武闘派で、形式化した練習や、精神修養などより、現実の護身に重きを置き、乱取りなども盛んなほうだったようです。
このころの、習い始めのころのの集中力、必死さというのは、一時間が現在の数カ月分の稽古にも匹敵するほどの意味を持ちました。学校での時間は、教わったことをノートで図にしたり、応用例を考える事に費やされました。
現在に至るまで根幹にある、『武術は実際に身を守れなくては無意味』『暴力に跪く誇りや理想は無価値』という思想もここで固められました。
入門以前に、私はその、執拗な敵意を向けてきた相手の住所を探し出し、密かに燃やしてしまう算段をしたことがあります。
また、実際に学校に包丁を持ち込んで懐に呑み、刺す事を考えて一日を送っていたこともありました。まあ、少年法の強い時代だったので、やっても実刑は受けなかったでしょうが、やらなくて良かったです。
なぜやらなかったのかというと、それは本当の勝利ではないからです。
そして、そういった発想へ流れるのは、自分が弱いからです。
相手の言い訳の出来ない土俵で、完全に負けを認めさせるという事が出来れば、そこまで陰惨な方法を考えないで済むはずです。これは『弱さが卑怯や残酷を生む。人は気高く生きる為には強くなければならない』という教訓になりました。
さて、気になる結末を先に言うと、公開処刑は行われませんでした。
事態が学校の知るところになり、消滅したのです。
私を敵視していた人は、後に職業安定法違反(有害業務紹介)などの疑いで逮捕されたらしいですが、それはまた別のお話。
しかし、この人がいなければ ドラネコ商会も存在しなかったと思うと、一種の恩人とも言えます。
(つづく)
クルクルバビンチョパペッピポ ヒヤヒヤドキッチョのモ〜グタン!
なんだ、この光は! 力が勝手に…ギャース!

という訳で、時代は私の幼少期に戻ります。
焼け野原に立った闇市、進駐軍のジープ。ラジオに流れる美空ひばり。
無論そんなものは出てきません。
テレビがガチャガチャからリモコンに変わりはじめ、自動改札はまだ無かった程度の昔です。
そのころ、私はすでに小さな大人でした。
「将来、何になりたいか」といった良くある質問に、同級生たちがスポーツ選手や、お花屋さんなどを挙げる中、『私が真に私自身であり続けることさえ出来れば、乞食になろうと大臣になろうと変わりはない』と思いつつ、それを悟られぬように子供らしく振舞える位に大人でした。そんな八歳児。
外で遊ぶより本を読んでいるのが好きで、親の本棚の本なども、ルビを頼りに相当難しいものまで手を出していました。
閉じられた空間で、限られた物を深く掘り下げていく事を愛しており、この性質が武術の研究の下地になっていたのだと思います。
また、奇麗な菓子の箱や瓶といったものを集めるのが好きでした。
さらに長じては標本箱や、額縁、鳥籠のようなものも偏愛しています。こうした空っぽのものに、何をしまおうかと想像するのが楽しいのです。
これも、俳句や短歌などの定型や形式、武術の枠組そのものへの興味と関連していると思います。よく虚無的な人間であると指摘されるのも、その一環でしょう。あ、虚無的な人間だからそういうものが好きなのかな? まあいいや。
そして、時代は少々飛んで中学生時代。
そうした虚無的な精神を持った大人が中学校に毎日通った場合、どうなるかというと単に苦痛でしかありません。そして、そういう苦痛は態度に表れます。
まして、そのころの私は美少年で、精神的貴族に位置していたので、ことさら鶏群の一鶴でした。
子供はそうした異物、「子供に混じりこんだ大人」に敏感ですから、迫害され、孤立することになります。
しかし、当時の中学校教育は、いじめや校内暴力は社会問題化はしていたものの、現実問題化はしていないというか、学校の責任があまり問われず、当事者同士の解決に任せるという、自治とも無責任ともとれる一種の無法地帯でしたので、身を守る必要が出てきました。
なので私は、少林寺拳法を見学に行くことにしたのでした。
実はこの時、執拗な敵意を向けていた一人から、私は一週間後の公開処刑宣告を受けており、泥縄式に、即席の強さが必要になっていたのです。
当時、隆慶一郎の『死ぬことと見つけたり』か『かくれさと苦界行』に影響された私は、衆人の前でさらし者になって誇りを汚されるくらいなら、刺し違えてでも殺そうという決意を固めていました。
だから、なんと入門前に三回もの、フルタイム見学をしています。迷惑な熱心さです。本当に命を守るに足るものなのか、見極めるのに必死だったのです。
ここで見た先生の強さが、その後の武術を続ける中で基準値となったのですが、私は運が良かったと思います。この先生は本物でした。たとえ小便中に後ろから鉄パイプで襲っても勝てる気がしない強さでした。
今でも、50を過ぎた指導者で、この先生に伍する強さの人間はほとんど見たことがありません。
後に他の少林寺拳法の道院を見て、全然やっていることが違うことに愕然としたのですが、私が行ったところは相当の武闘派で、形式化した練習や、精神修養などより、現実の護身に重きを置き、乱取りなども盛んなほうだったようです。
このころの、習い始めのころのの集中力、必死さというのは、一時間が現在の数カ月分の稽古にも匹敵するほどの意味を持ちました。学校での時間は、教わったことをノートで図にしたり、応用例を考える事に費やされました。
現在に至るまで根幹にある、『武術は実際に身を守れなくては無意味』『暴力に跪く誇りや理想は無価値』という思想もここで固められました。
入門以前に、私はその、執拗な敵意を向けてきた相手の住所を探し出し、密かに燃やしてしまう算段をしたことがあります。
また、実際に学校に包丁を持ち込んで懐に呑み、刺す事を考えて一日を送っていたこともありました。まあ、少年法の強い時代だったので、やっても実刑は受けなかったでしょうが、やらなくて良かったです。
なぜやらなかったのかというと、それは本当の勝利ではないからです。
そして、そういった発想へ流れるのは、自分が弱いからです。
相手の言い訳の出来ない土俵で、完全に負けを認めさせるという事が出来れば、そこまで陰惨な方法を考えないで済むはずです。これは『弱さが卑怯や残酷を生む。人は気高く生きる為には強くなければならない』という教訓になりました。
さて、気になる結末を先に言うと、公開処刑は行われませんでした。
事態が学校の知るところになり、消滅したのです。
私を敵視していた人は、後に職業安定法違反(有害業務紹介)などの疑いで逮捕されたらしいですが、それはまた別のお話。
しかし、この人がいなければ ドラネコ商会も存在しなかったと思うと、一種の恩人とも言えます。
(つづく)


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