2008

07.31

« 大嘘八百八町 »

このドリンクはレモン100個分のビタミンCが入っています。
だから、値段はレモン100個分。重量もレモンの100倍です。

もし、こう言っている人がいたらどうだろう。
アホなの? 死ぬの? と思うだろう。

では、

足の筋力は手の三倍。ゆえに回し蹴りは突きの三倍の威力!

これはどうか。
うん。当然、大嘘だ。

足は、屈伸運動などには強いが、膝を支点にしての曲げたり伸ばしたりは、そこまで得意ではない。
しかも、筋量=威力ではなく、上手な人ほど、足の筋肉ではなく、腰のキレや遠心力で蹴っている。大体、普通に想像してみて、思いっきり一発蹴られるのと、思いっきり三回殴られるのと、どっちが嫌かといえば、普通、殴られるほうだろう。俺は二回でも嫌だ。

そう、「威力」という話をする時、人は筋力やらフォームやら打ち方やらばかりを気にする。しかし、シュレーティンガーの猫の状態が観察者によって変化するように、打たれる対象の状態によって、「威力」も変化する。

つまり、「威力」というのは、絶対評価ではなく、相対評価だ、という事だ。

例えば、ぼうっと寝そべってテレビを見ている時に、腹に三歳児が飛び乗ってきたら、悶絶するが、来ると分かっていればボクサーのボディブローでも耐えられる。
これは、すごく当たり前の話なのだが、意外と見落としている人が多い。
例えば、あちこちでインチキ臭い武術を批判している割に、自分が一番、いんちき臭い某ライター兼武術家がこんな事を書いている。

 私は“潜在能力”と表現する時は、「本来もっていて出せる能力」という意味であって、超常能力のことではないんですよ。例えば、1tの重さのパンチなんて空手やボクシングを何年修行しても普通のやり方ではとても出せないですよね? でも、重心移動によって生じるエネルギーを乗せれば誰でも力学的にこれくらいは出せるようになる。

 発勁が“押す力”になりやすいとしても、普通、50〜80kgくらいある人間をポーンと数mも跳ね飛ばすというのは、軽く車がぶち当たったくらいの衝撃力は必要な筈ですよね。計算上、1tくらい誰でも出せるというのは、これを見ても解ります。


まとめると、こう言っている訳だ。


80キロの人間を数メートルふっ飛ばすのには、車でぶつかるくらいの衝撃力が必要である。
その衝撃は1トン以上なのである。ゆえに、私が80キロの人間を数メートルふっ飛ばせたなら、私の発勁は1トン以上なのである
、と。

さて、レモン、回し蹴りの先の二例から分かるように、この人の言っていることも頓珍漢なのがお分かりだろうか。

彼は、人が飛ぶ距離を、衝撃力の数値の大きさに比例すると思っている。
しかし、車高が低く、鼻先の長い外車などで人を轢いたら、前に人は飛ばず、ボンネットに乗り上げてフロントガラスに突っ込むかもしれない。これは飛距離で言えばマイナス1メートルくらいだから、衝撃もマイナスだろうか?

んな訳はない。
ゴルフなどのスポーツでは常識だが、球の中心より下を打つとバックスピンがかかり、上を打つと転がる球になる。当然、同じ衝撃力で打っても、飛距離は異なる。
人間は球体ではないが、同じように、その重心点の上を押すか、下を押すか、前足に重心がかかっているか、後ろ足か、接地面積、摩擦などで、押された時の飛距離が変わる。
人間をふっ飛ばすのに求められるのは、力の質とベクトルだ。
それによっては1トン以上の衝撃だろうが、車に跳ねられようが、前方向には飛ばない。
逆に、力の質とベクトルによっては、軽く押しても人は動く。

そして、人間は静物ではない。動物だ。
先にも書いたが、威力は受け手の状態によって変化する。
この際、「50〜80kg」という設定は、なんの意味も持たない。
崩れている80キロの男性を飛ばすのは、安定している40キロの女性を飛ばすより容易い。
もともと、足の裏の面積だけで接地して、二足歩行しているというだけで、自然界から見ると人間は曲芸のような事をしている訳で、押されれば飛ぶのは何キロでもあまり変わらない。水を80リットル入れたドラム缶だったら、車ならふっ飛ばせても、人間が打ってもほとんど動かないだろう。
合気挙げなどで、上から80キロの重さの人に抑えてもらって、それを挙げられたら、ウエイトトレーニングで80キロのバーベルが挙がるだろうか。
逆にウエイトトレーニングで80キロのバーベルが挙がる人は、80キロの重さの人を挙げられるだろうか。
少しでもやった事がある人なら、これがイコールではないことは良く知っているだろう。
車で人を飛ばす衝撃力が発勁と同質だというのは、それに類する妄語だ。

ゴルフボールを飛ばすにはゴルフのスイングが、バーベルを上げるには、ウエイトのテクニックが最適だろう。
そして、人間をふっ飛ばすには、武術が最適なのは元々、その為の技術なのだから当然だ。
車にはねられたぐらい人間が飛ばせるから、車なみに衝撃力があるのかといえば、そんな事はない。正確に測定したなら力積は、空手家やボクサーの当身とそこまでの差はないだろう。違うのは、力の質とベクトルであって衝撃力ではない。
むしろ、ほんの100キロくらいの衝撃なのに、車に跳ねられたぐらい飛ばされるから、凄いと考えるべきだろう。

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    2008

07.23

« 古今独歩 »

「 イグアナ歩き」というトレーニングがある。詳しくは検索してほしい。

これが広まったのは、どうやら山本 KID徳郁氏の、
『“KID”BODYトレーニングブック―強くてカッコイイ体に変身! 』
という本によるらしい。

ショックで目の前が暗くなった。
それ、俺も独自に考案してやってたよ。でも、

強くてカッコイイ体に変身!…だと?

ものすごく奇異の目で見られて、いたたまれなくなってやめたんだよ。俺は。
変身したのは爬虫類男ですよ。一周して仮面ライダーアマゾンみたいで、強くてカッコイイみたいな?

もともとは、カポエイラを見ていて、向こうの黒人の人はすごい体しているなあ。なんで蹴りしか使わないのに、あんなに上半身が発達してるんだろう。あれなら普通にぶん殴るだけで強そうだなあ。そうか、逆立ちとか四つん這いで稽古しているからあんな体になるのか、と思ったのがはじまりだった。

四つん這いで這い回ったり、そのまま、お互いに足首やバックを取り合うという稽古を、古参商会員は、かすかな記憶の中に持っているだろう。
これが有益な鍛錬であることは、五分もやれば、全身、まんべんなく筋肉痛になることでも分かる。しかし、公共のスポーツセンターで稽古するには、あまりに変態的な運動で、周囲の「あの人たちは何をやっているのかしら。狂人?」という視線が痛すぎたのだ。たぶん、家の近所などをこれで一往復すれば、世間との関わり方が一変するだろう。

それが今、強くてカッコイイ体に変身とか言って、市民権を得ている訳ですか。
私がやると気持ち悪くても、KIDがやればかっこいいと。ふーん。

俺の方がもっとイグアナっぽいし、あたかも下級な動物霊に憑依されたかのように爬虫類そっくりなのに気持ち悪いってか!

まあ、そうか。それはそうだな。うん。

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    2008

07.20

« ベネズエラの戦慄 »

先だっての木曜の稽古、zavitangさんが、ボクシング経験者の人(ノンケ)をホイホイと連れてきた。稽古には相応の関心を持ってもらった様子。何よりである。
だが、最後に勝ち残りで、当身で技有り以上、もしくは投げで勝ちというルールで組手をしていたところ、三連荘目で、その人に投げられて連勝を止められた。

え? なになに? よく聞こえなかったって?

ボ ク サ ー に 投 げ ら れ て 
一 本 取 ら れ ま し た ☆


ほらよ。これでいいのかい? スチュワーデス物語的に言うなら、ドジでのろまな亀です。
相撲に負けて勝負に負けて、年収でも負けて彼女を寝取られたって感じ?

ここに範馬勇次郎がいたら、

「しかしよくもまァあんな・・・日本人ならハラキリだぜ。 同じ負けにしたってもう少し負け方ってもんが・・・ いやはや国民性の違いというか・・・・・もし俺ならとてもとても」

とか言われて、私がハイキックでつっかかってもう一回、負けるところです。うはっ!
まるで、落ちぶれて、おでん屋のおっさんにボロ負けした矢吹丈ですよ。

しかし、世界は広い。レフィリーに投げられたボクサーというのもいるのです。

http://www.compfused.com/directlink/3677/

これ、なんだろう。合気道の呼吸投げにも見えますね。無造作すぎる。かっけえ。

まあ、失敗を乗り越えて人は成長していくということで、今後は、打倒レフィリーと、打倒おでん屋を目指して、生態系の頂点に立つ所存です。



さて、ここからちょっと、真面目な話。

だいぶ、ドラネコの支持層が変わってきた。
もともと、気の合う友人とのサークル感覚の延長みたいな空気があったけど、今は、本当に武術自体に興味がある人の方が多い。
それは、非常にうれしい一面、人の集まりの場として、一つの時代が終わったのかもしれないと思うと、さびしい面もある。
その温度差みたいなものは、多分、これから少しずつ表面化していくと思うし、場合によっては、会の在り方として、運営方針を変えていく事になるかもしれない。

具体的には、全面有料化するか、ドラネコはドラネコで残して、もっとストイックな稽古会を別に立てるか、といった感じになるかと思う。
これはまだ、何が最良の形か分からないし、皆さんの意見を聞くことになると思います。
俺一人の会じゃないしね。でも最終的には俺の会だから俺の好きにやらせてもらうけどね!

これまでのドラネコ商会は、凄いバランスであったな、と思う。
武術的な関心と、皆の興味のバラバラな方向性と、稽古後の酒の交流などの配合によるケミストリーが絶妙だったな、と。
なれあいにならず、稽古は稽古として緊張感を持ちつつ、稽古後は友人としての付き合いがあり、その信頼関係が稽古にも、良い方向に作用していた。
多分、武術系の団体で、ここまで人間関係やら派閥やら、そういうドロドロがなく、屈託なく付き合える集まりは希有だったと思う。
しかし、多分、そういう神話というのは永遠ではない。

友人は大事だけれど、私は、武術家である、というのが自己の存在を規定した場合の第一義だと思う。
だから、ハードコアに武術を渇望している人がいるなら、何を差し置いてもそちらを優先するのが当然の義務だと思っている。それを裏切るなら看板を降ろすべきだろう。
しかし、今いる人全てに、「後進の人には、武の道を歩く先輩としての自覚を持って接してほしい」とかいっても、皆が皆、そうした意識を持てる訳じゃない。
そうした、ゆるめ派と、ハードコア派を同じ場、同じカリキュラムで扱うのは、どちらにとっても息苦しいだろう。



近年、年齢的にも、もし全く新しい体系を摂取して身に付けられるなら、これが最後かもな、という思いや、強さの頭打ち的な伸び止まりを感じて、幾つかの道場を回ってみた。
しかし、そこで改めて分かったのは、私は、今まで愛されていた、という事だ。

かつて教えてくれていた人達は、ぶっきらぼうで言葉が少ないようでも、あるいは言葉が少ないほど、私が理解するのを忍耐強く待ち、見守り、そして最良のものを惜しみなく教えていてくれたのだ。最近、見て回った幾つかの道場は、それがどれほど恵まれた事だったかを再認識させてくれたに過ぎなかった。
正直、世の中には弟子を強くする気もなく、金だけとっている道場が多すぎる。根底に愛がなければ、本当の技は伝わらない。

私は、多分、武術家としては中の中〜中の上くらいまでが良いところだろうが、ポリシーを表明させてもらうなら、「自分の持つ最良のものを惜しみなく伝える」ということと、「弟子に裏切られても、弟子を裏切らない」という二点に関しては、曲げないつもりだ。
それは、この会がどんな形に変わっていっても、皆さんにお約束する。

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    2008

07.12

« 神骨拳法 »

骨には、神秘の力がある。

ふう。

そんなもん、ねえ。


いや、唐突な切り出し方でしたな。失敬、失敬。
何の話かというとですね、強くなりたいぜ、俺は体を鍛えるぜ、と思っている人は割と、口を開けばマッスル、マッスル、やれ伸筋だ、深層筋だ、オナ禁だと、筋肉にばかり目を向けていますが、あんた達、誰のおかげで地べたに足つけて立ってられるんだい?! 全部、骨格様のおかげだろうが! というお話です。

といっても、骨って鍛えようがないじゃん、牛乳と小魚でも食べるしかないじゃん、と思うでしょう? だったら一生、牛乳と小魚でも食ってろよ! 実際、それしかねえよ!
ええ、骨は鍛えるという事はありません。しかし、もっと有効活用する事が出来るのです。

骨格、というものは、実に偉大な性能を持っています。物を持ち上げる、運ぶというような事に関しては、筋力を主体にするより、姿勢の安定に努めたほうが、楽に出来ます。
インドだか、アフリカだかの女性などが、頭頂部に水瓶などを乗せて移動するのを見たことがあると思いますが、彼女らは首の筋肉がムキムキでしょうか? いいえ、姿勢が安定していれば、背骨が支えるから、そこまでの筋力は必要ないのです。
昔の行商や籠かきなどの人もそうです。現代でも、引っ越しや土木作業の現場などで、小柄なおじいちゃんが、驚くほど重いものをひょいっと動かすのを見て感嘆することがあると思います。これがいわゆる、コツ(骨)を使うってやつです。

この、骨格を有効利用する、という単純な事。
しかし、それを本当に徹底的につきつめているかどうかは、実に大きな差になります。
つまるところ、当身であれ、投げ技であれ、土台になる骨格に歪みや崩れがあれば、曲がった銃身から弾を撃ったり、傾いたクレーン車で物を釣り上げようとしているのと同じだからです。

そして、逆に言えば、相手の骨格を崩す事で、相手を弱体化できます。
大体、少し組み合ってみると分かるのですが、人間には二通りのタイプがあります。
投げられまい、打たれまいとして、ガチガチに体を突っ張る人と、来る力を柔らかくいなそうとする人です。
前者は、その堅さを逆に利用して、骨格を固定する事で弱体化できます。
たとえば、スキー靴をはいた事のある人は、そのまま歩こうとして非常に不自由を感じた事があると思います。この時、誰かがふざけて押し飛ばしたら、転んでしまうでしょう。
足首一か所の関節が固定されただけで、ここまで不安定になるのです。
後者は、逆に関節を可動させる事で弱体化できます。
関節の結合部へ回転をかける事で、体を支えられない位置まで、重心をずらすのです。
この、固定化と変形の二法を使い分けたり、連係する事で、いろいろな効果を生み出せます。私の技術が、拳法と柔術の両面に跨がっているのは、拳法から、固定化と反発の理を、柔術から、変形と同化の理を取り入れる為でもあります。
そして、筋肉の力は、その筋肉に関連する特定の動作しか強化しませんが、骨の操作法、コツは、あらゆる動作に応用が効くという利点があるのです。

武術の世界は、いろいろなワードが埋もれていて、それをあちこち掘り返しては、みんな分かったような気になったり、すぐ次を知りたがったりしがちですが、広く浅く掘っても、大抵、小さな発見しかありません。
簡単そうなテーマにみえることでも、山芋を折らずに丹念に掘るように、最後まで進んでいくと、意外に大きな根っこにつながっている事もあります。打突でも、押し引きでも、受けでも型でも歩法でも、ベターな骨格と姿勢は何かを考えてみると、一段、違ったものが見えてくるかもしれません。

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    2008

07.04

« 告知と考察 »

来週の木曜日(10日)、稽古お休みです。
変わりに、日曜(13日)の昼くらいから、希望者がいれば稽古します。スポセンで。
あと、券売機のボタン配列が変わっていたので注意してください。


以下、考察。


武術は活殺自在と言われていますが、私は壊す方専門です。
この間、娘の肘脱臼をはめたりしましたが。まあ、それは赤子の手をひねる様なものでした。基本的には、治す方はからっきしです。
しかし、知っている人もいるかと思いますが、私のマミィは鍼灸師です。
そのマミィが面白い事を以前、言っていました。それは、「はり師の手」というものです。
三つ願い事を叶えてくれるとか、蛇を捕まえる時に使うとか、そういうものではありません。何かと言うと、つかまれると、その部分の感覚が消失するような痺れを感じる手の事です。

母は50過ぎのおばちゃんであり、握力も二十数キロしかないのですが、これをやられると、力が入らなくなるような痛みを受けました。
で、当然、そんな便利なものがあるなら悪用、もとい活用させていただこうと思い、どうやって習得したのか聞いたのです。しかし、それは、中島敦の「名人伝」のような話でした。

「治療に使う鍼は、1番、2番などの太さの番号がある。このうち、最も細い0番は、髪の毛よりも細いのである。修行を積むと、これで、杉板を貫通できるようになる。それが出来れば、最終的には鍼を持たずとも、人体の内部を《刺す》事が出来るのだ」

「その感覚は、大型トラックの運転に似ている。自分は最後尾がどうなっているか見えなくても、感覚でハンドルを切って、狭い路地などでぶつけずにすり抜けていくであろう。鍼を頚椎などに3センチも4センチも刺していく時も、わずかな角度の違いでポイントがずれてしまうので、感覚と感触のみを頼りに深奥の一点を貫くのである」

そう言い残すと母は虎の姿に戻って竹藪に消えていきました。
この、自分はトラックの運転などしたことが無いくせに、妙に説得力のある例え話に親子の血を感じます。うーん。うさんくさいけど、面白いなあ。




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