2008
« 実戦的思想は実戦的技術を生むか? »
意外と「実戦派」を名乗り、過激さを表に出している団体ほど、技術がお粗末で力こそ全てだったり、急所攻撃などのダーティーテクニックを売りにしていたりします。
しかし、「実戦」というものが、仮にあるとして、そういったものは、絶対的な強さとは言えません。
フィジカルな力の強さが強さに直結するなら結局、自分以上にそれに優れた相手には通用しないし、急所攻撃などを主軸にするなら、急所のみをカバーすれば良いという簡単な攻略法で、手詰りにされてしまいます。
そうした、相手によって有効だったり、そうでなかったりという不確定なものは、「実戦的」と言えるでしょうか? いざという時に命を託せるでしょうか? それは、開いたり開かなかったりするパラシュートが「実用的」かという問いのようなものだと思います。
宮本武蔵が一度に複数の相手を倒したり、生涯60回以上の立ち合いで勝ちを得てきたというのは、半ば自己申告なので眉唾ですが、それでもやはり、「勝つべくして勝つ」理の上での事と思います。
以前の記事で、気迫とか、覚悟とか、そういったものの重要性を説いていますが、そういうものだけでは勝てない技術もあります。竹やりではどう頑張っても、B29が落ちないように、メカニズムとして、完全に必勝パターン的なものもあるので、やたら「実戦、実戦」と騒いでも、別段、実用性が高くなる訳ではないのです。
そもそも、わざわざ「実戦」と名乗らずとも、武術とは本来、「実戦」以外には使い道がないものなのだから、それを敢えて広言したがるのは、「うちの料理は食べられます」と喧伝している料理屋のようで、そんな事をわざわざ言わなければならない所は、少々、怪しくある気さえします。
技を使うのは人間ですから、その精神が畏縮していれば、充分な効果は当然、得られません。しかし、互いに充実した気力であるなら、勝敗を分けるのは技術の錬磨度です。
技術の裏付けのない精神論は、単なる思い上がり、勘違いと大差ありません。
関係ないけど、先日、「実戦古文トレーニング」という参考書を熱心に読んでいる女学生を電車の中で見ました。清少納言とか、紀貫之とか、自分の書いたものの枕詞に「実戦」とかつけられてたら驚くだろうな、と思いました。
なんか、「実戦」って言葉は軽いんだよな。安いし。
ああ、同じような引っかかりとしては、よく現代で「文武両道」という形容をされる人って、スポーツと勉強が出来る人が多いですよね。
でも、スポーツと「武」って、隔たり過ぎてる気がします。
もともとは、個人ではなく、政治などに関わる言葉だったのかもしれませんが、これって、思想、信条を持ち、それを貫く発言権を得るためには、握りつぶされないために、それを可能にできる武的な力が必要だ、ということだと思うのです。
球技とかそういったものには、そういった働きは望めないし、道がリンクしないから、「両道」じゃなくて、ただ、バラバラに二本、交わらない道があるだけなんじゃないの、ってね。てね。
しかし、「実戦」というものが、仮にあるとして、そういったものは、絶対的な強さとは言えません。
フィジカルな力の強さが強さに直結するなら結局、自分以上にそれに優れた相手には通用しないし、急所攻撃などを主軸にするなら、急所のみをカバーすれば良いという簡単な攻略法で、手詰りにされてしまいます。
そうした、相手によって有効だったり、そうでなかったりという不確定なものは、「実戦的」と言えるでしょうか? いざという時に命を託せるでしょうか? それは、開いたり開かなかったりするパラシュートが「実用的」かという問いのようなものだと思います。
宮本武蔵が一度に複数の相手を倒したり、生涯60回以上の立ち合いで勝ちを得てきたというのは、半ば自己申告なので眉唾ですが、それでもやはり、「勝つべくして勝つ」理の上での事と思います。
以前の記事で、気迫とか、覚悟とか、そういったものの重要性を説いていますが、そういうものだけでは勝てない技術もあります。竹やりではどう頑張っても、B29が落ちないように、メカニズムとして、完全に必勝パターン的なものもあるので、やたら「実戦、実戦」と騒いでも、別段、実用性が高くなる訳ではないのです。
そもそも、わざわざ「実戦」と名乗らずとも、武術とは本来、「実戦」以外には使い道がないものなのだから、それを敢えて広言したがるのは、「うちの料理は食べられます」と喧伝している料理屋のようで、そんな事をわざわざ言わなければならない所は、少々、怪しくある気さえします。
技を使うのは人間ですから、その精神が畏縮していれば、充分な効果は当然、得られません。しかし、互いに充実した気力であるなら、勝敗を分けるのは技術の錬磨度です。
技術の裏付けのない精神論は、単なる思い上がり、勘違いと大差ありません。
関係ないけど、先日、「実戦古文トレーニング」という参考書を熱心に読んでいる女学生を電車の中で見ました。清少納言とか、紀貫之とか、自分の書いたものの枕詞に「実戦」とかつけられてたら驚くだろうな、と思いました。
なんか、「実戦」って言葉は軽いんだよな。安いし。
ああ、同じような引っかかりとしては、よく現代で「文武両道」という形容をされる人って、スポーツと勉強が出来る人が多いですよね。
でも、スポーツと「武」って、隔たり過ぎてる気がします。
もともとは、個人ではなく、政治などに関わる言葉だったのかもしれませんが、これって、思想、信条を持ち、それを貫く発言権を得るためには、握りつぶされないために、それを可能にできる武的な力が必要だ、ということだと思うのです。
球技とかそういったものには、そういった働きは望めないし、道がリンクしないから、「両道」じゃなくて、ただ、バラバラに二本、交わらない道があるだけなんじゃないの、ってね。てね。


