2008
« ドラネ・クロニクル4 黎明編 »
その後、私は様々な人と交流する機会を持つように心掛けました。
レスリング、ブラジリアン柔術、伝統空手、フルコン、テコンドー、柔道、拳法、総合格闘技…。オフ会や道場見学などにも積極的に参加し出します。
自分の技術の特徴である、骨格の仕組みや生理的反射や重力を使った技は、相手の体格によって技をかけるポイントがズレます。
また、同じ感触を与えても、人によって違う反応を起こす場合があります。
その誤差の統計を取るために、できるだけ多くのタイプの人間に技をかけることが必要だと思ったのです。
また、これは、出来た技を流れの中に組み込むための試行でもありました。
技というのは単独で機能するものではなく、有機的に他の技術と連係していなくてはいけません。
柔術的な、引き込む、押さえつけるといった「内側に取り込む技術」と、太極拳の弾き出す、叩き付けるといった、「外側に拒絶する技術」を、相互補助的に連携させること、それによって、どう反応されても、常に次の一手に繋げられる戦い方の模索です。
この時期は、あえて書籍や映像などの情報は制限し、自分の感覚を頼りにしました。
やがて、それは、一種類の流儀だけをやってきた人などからは随分と奇異な技術に見えたらしく、しばしば興味を持たれるようになりました。
私は、「相手を弱くする」という思想が軸であった為、誰が相手でも、さほど大きく戦い方を変える必要が無かったのですが、彼等の技術は自分の流儀の中で洗練、特化しすぎていた為、汎用性が低くなっているようでした。
もっとも、逆に、完全に洗練、特化しきって、極端な一点を極めたタイプの人は、それもまた汎用性を持つという事も教えられました。
逆もまた真です。強さが相対的なものであるなら、相手を弱くして差をつけるか、自分が突出して強くなるかのどちらかだという事でしょう。
こうした切っ掛けで、武術を通して、殺されかけたり、ちょっぴり殺しかけたりと、人の輪が多少出来てきました。
そして、その中の交流から、一つの結論を得ました。
それは、武術は自分の流派だけでは意味がない。武術の発展には、別の思想の武術。切磋琢磨するための高次の仮想敵が必要だという結論です。
世の中には、自分の流派が最高で、他は学ぶ価値がないと謳っている団体が多くあります。
もし、それが本当であれば、全ての修行者はそれを習うでしょう。
すると、全員が同門の仲間になるので、争う必然はなくなります。そして、争う必然の無い環境で技術は発達しません。
佐々木小次郎は師匠、富田勢源の小太刀の術の完成の為、長い刀で相手を勤めたと言います。ジョジョ風に言うなら、『北風がバイキングを作った』のです。
常に技術開発競争がなければ、武術はなれ合いになります。
無論、基になるコンセプトを確立することが第一ですが、それが実際に通用するものかは、同門の相手では試しても意味がないのです。
しかし、ここにきて、私は現代においての武術の衰退ぶり、形骸化、閉鎖的状況に気が付きます。
いやまあ、元より気はついていたのですが、私は個人主義的に、自身の武術だけを完成させれば良いと思っていたので関係ない気がしていたのです。
しかし、実際には私個人が武術を完成させるためにも、武術界全体が隆盛している必要がある事が分かってしまったのです。
この、「万人に幸福が訪れない限り個人の幸福はあり得ない」という、原始共産主義的、菩薩的思考の末、私は、同様の考えの人間たちの集まる場所の必要を感じました。
互いに技術を試し、意見を交換し、課題を持ってかえって自流の中で昇華し、再びそれを試すためのサロン。誰もが対等であり、馴れ合わず、自分のやり方を押し付けあわない共同開発の場。
そういった流派の垣根を超えたネットワークがあれば、武術の活性化と技術の発展があるのではないか?
この考えが、ドラネコ商会のそもそもの始まりでした。
(つづく)
レスリング、ブラジリアン柔術、伝統空手、フルコン、テコンドー、柔道、拳法、総合格闘技…。オフ会や道場見学などにも積極的に参加し出します。
自分の技術の特徴である、骨格の仕組みや生理的反射や重力を使った技は、相手の体格によって技をかけるポイントがズレます。
また、同じ感触を与えても、人によって違う反応を起こす場合があります。
その誤差の統計を取るために、できるだけ多くのタイプの人間に技をかけることが必要だと思ったのです。
また、これは、出来た技を流れの中に組み込むための試行でもありました。
技というのは単独で機能するものではなく、有機的に他の技術と連係していなくてはいけません。
柔術的な、引き込む、押さえつけるといった「内側に取り込む技術」と、太極拳の弾き出す、叩き付けるといった、「外側に拒絶する技術」を、相互補助的に連携させること、それによって、どう反応されても、常に次の一手に繋げられる戦い方の模索です。
この時期は、あえて書籍や映像などの情報は制限し、自分の感覚を頼りにしました。
やがて、それは、一種類の流儀だけをやってきた人などからは随分と奇異な技術に見えたらしく、しばしば興味を持たれるようになりました。
私は、「相手を弱くする」という思想が軸であった為、誰が相手でも、さほど大きく戦い方を変える必要が無かったのですが、彼等の技術は自分の流儀の中で洗練、特化しすぎていた為、汎用性が低くなっているようでした。
もっとも、逆に、完全に洗練、特化しきって、極端な一点を極めたタイプの人は、それもまた汎用性を持つという事も教えられました。
逆もまた真です。強さが相対的なものであるなら、相手を弱くして差をつけるか、自分が突出して強くなるかのどちらかだという事でしょう。
こうした切っ掛けで、武術を通して、殺されかけたり、ちょっぴり殺しかけたりと、人の輪が多少出来てきました。
そして、その中の交流から、一つの結論を得ました。
それは、武術は自分の流派だけでは意味がない。武術の発展には、別の思想の武術。切磋琢磨するための高次の仮想敵が必要だという結論です。
世の中には、自分の流派が最高で、他は学ぶ価値がないと謳っている団体が多くあります。
もし、それが本当であれば、全ての修行者はそれを習うでしょう。
すると、全員が同門の仲間になるので、争う必然はなくなります。そして、争う必然の無い環境で技術は発達しません。
佐々木小次郎は師匠、富田勢源の小太刀の術の完成の為、長い刀で相手を勤めたと言います。ジョジョ風に言うなら、『北風がバイキングを作った』のです。
常に技術開発競争がなければ、武術はなれ合いになります。
無論、基になるコンセプトを確立することが第一ですが、それが実際に通用するものかは、同門の相手では試しても意味がないのです。
しかし、ここにきて、私は現代においての武術の衰退ぶり、形骸化、閉鎖的状況に気が付きます。
いやまあ、元より気はついていたのですが、私は個人主義的に、自身の武術だけを完成させれば良いと思っていたので関係ない気がしていたのです。
しかし、実際には私個人が武術を完成させるためにも、武術界全体が隆盛している必要がある事が分かってしまったのです。
この、「万人に幸福が訪れない限り個人の幸福はあり得ない」という、原始共産主義的、菩薩的思考の末、私は、同様の考えの人間たちの集まる場所の必要を感じました。
互いに技術を試し、意見を交換し、課題を持ってかえって自流の中で昇華し、再びそれを試すためのサロン。誰もが対等であり、馴れ合わず、自分のやり方を押し付けあわない共同開発の場。
そういった流派の垣根を超えたネットワークがあれば、武術の活性化と技術の発展があるのではないか?
この考えが、ドラネコ商会のそもそもの始まりでした。
(つづく)

