2008

01.23

« ドラネ・クロニクル4 黎明編 »

その後、私は様々な人と交流する機会を持つように心掛けました。
レスリング、ブラジリアン柔術、伝統空手、フルコン、テコンドー、柔道、拳法、総合格闘技…。オフ会や道場見学などにも積極的に参加し出します。

自分の技術の特徴である、骨格の仕組みや生理的反射や重力を使った技は、相手の体格によって技をかけるポイントがズレます。
また、同じ感触を与えても、人によって違う反応を起こす場合があります。
その誤差の統計を取るために、できるだけ多くのタイプの人間に技をかけることが必要だと思ったのです。

また、これは、出来た技を流れの中に組み込むための試行でもありました。
技というのは単独で機能するものではなく、有機的に他の技術と連係していなくてはいけません。
柔術的な、引き込む、押さえつけるといった「内側に取り込む技術」と、太極拳の弾き出す、叩き付けるといった、「外側に拒絶する技術」を、相互補助的に連携させること、それによって、どう反応されても、常に次の一手に繋げられる戦い方の模索です。
この時期は、あえて書籍や映像などの情報は制限し、自分の感覚を頼りにしました。

やがて、それは、一種類の流儀だけをやってきた人などからは随分と奇異な技術に見えたらしく、しばしば興味を持たれるようになりました。

私は、「相手を弱くする」という思想が軸であった為、誰が相手でも、さほど大きく戦い方を変える必要が無かったのですが、彼等の技術は自分の流儀の中で洗練、特化しすぎていた為、汎用性が低くなっているようでした。
もっとも、逆に、完全に洗練、特化しきって、極端な一点を極めたタイプの人は、それもまた汎用性を持つという事も教えられました。
逆もまた真です。強さが相対的なものであるなら、相手を弱くして差をつけるか、自分が突出して強くなるかのどちらかだという事でしょう。

こうした切っ掛けで、武術を通して、殺されかけたり、ちょっぴり殺しかけたりと、人の輪が多少出来てきました。
そして、その中の交流から、一つの結論を得ました。
それは、武術は自分の流派だけでは意味がない。武術の発展には、別の思想の武術。切磋琢磨するための高次の仮想敵が必要だという結論です。

世の中には、自分の流派が最高で、他は学ぶ価値がないと謳っている団体が多くあります。
もし、それが本当であれば、全ての修行者はそれを習うでしょう。
すると、全員が同門の仲間になるので、争う必然はなくなります。そして、争う必然の無い環境で技術は発達しません。

佐々木小次郎は師匠、富田勢源の小太刀の術の完成の為、長い刀で相手を勤めたと言います。ジョジョ風に言うなら、『北風がバイキングを作った』のです。
常に技術開発競争がなければ、武術はなれ合いになります。
無論、基になるコンセプトを確立することが第一ですが、それが実際に通用するものかは、同門の相手では試しても意味がないのです。

しかし、ここにきて、私は現代においての武術の衰退ぶり、形骸化、閉鎖的状況に気が付きます。
いやまあ、元より気はついていたのですが、私は個人主義的に、自身の武術だけを完成させれば良いと思っていたので関係ない気がしていたのです。
しかし、実際には私個人が武術を完成させるためにも、武術界全体が隆盛している必要がある事が分かってしまったのです。

この、「万人に幸福が訪れない限り個人の幸福はあり得ない」という、原始共産主義的、菩薩的思考の末、私は、同様の考えの人間たちの集まる場所の必要を感じました。
互いに技術を試し、意見を交換し、課題を持ってかえって自流の中で昇華し、再びそれを試すためのサロン。誰もが対等であり、馴れ合わず、自分のやり方を押し付けあわない共同開発の場。
そういった流派の垣根を超えたネットワークがあれば、武術の活性化と技術の発展があるのではないか?

この考えが、ドラネコ商会のそもそもの始まりでした。

(つづく)

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    2008

01.10

« ドラネ・クロニクル3 打倒神竜!青雲学園編 »

当時、皿洗いのバイトをしていた私は、ある日、仕事帰りにフラリとあてもなく公園にやってきました。夜の11時過ぎくらいです。

街灯の下で、誰かが武術の型を練っているのが見えました。
流麗で、力強く、興味深い動きでした。
こういう時、私は遠慮せずに食い入るように見る人間なので、しまいまできっちり見てから、頃合いを見計らって声をかけました。

それが、Oさんと太極拳への出会いでした。

Oさんは、60歳を過ぎ、私より背はやや高いものの、細身の方でした。
Oさんは、いきなり最初に私に自分の腹を打つように言いました。私は数発打ち込みましたが、ゴムまりのように弾かれ、威力が伝わりませんでした。Oさんは、太極拳でこの体を作ったのだと言います。
次に、Oさんは私と、相撲を取ろうと言いました。勿論、私も素人ではないので、投げ技の心得はあるつもりでした。
しかし、10秒も続けて立っていることすら出来ませんでした。何度やっても崩され、潰され、倒されます。私は(マゾなので)うれしくなって、その場で教えを請いました。
その夜から数えて約一年間以上、晴れた日のほぼ毎晩。2〜3時間ずつ、マンツーマンでOさんは私に太極拳を教えてくれました。
それも無償で、です。信じられない僥倖でした。現在、ドラネコ商会で基本的に無償で教えているのは、この時に受けた恩義に報いるためが大きいです。

基本の立ち方、打ち方。推手。型。そして相撲。
ほとんど同じ繰り返しでしたが、やる度に発見がありました。
少し出来てくると、より一層、細かい違いが分かっていき、しだいになぜ投げられたのか、今使われたのが、型の中のどの動きに当たるのか、などが理解できるようになっていきました。
私は武術を健康のためにやるとか、そういう意識は無いに等しかったのですが、この頃は真冬でもシャツ一枚で稽古して、帰りは指先まで暖かくなっていたことや、風邪もほとんどひかなかった事を振り返ってみると、確かに太極拳には健康効果もあるようでした。

そして何より、太極拳で実際に投げられたり飛ばされたりしたことで、私の求めていた、当て身と組技の境界の無い包括的な技法が見えてきました。
もっと早く出会っていれば良かったと思いましたが、その価値を理解する為には、これまでの道筋が必要だったとも思います。
太極拳は、私の中のパズルの、埋まらなかったピースにぴったりとはまりました。むしろ、合気道では分からなかった、大東流で言う合気の一端も、太極拳を通して理解できました。(とはいえ、理解したがゆえに、純正の合気は自分には終生身に付くまいという諦念もうまれました。)

この頃に発見したことの幾つかをまとめてみます。

・強弱について
今まで、強さを測る時、全体の総量を比較していたが、人間は動きの中では、体のパーツ一つずつに強弱が発生している。仮に総量において勝る相手に対しても、相手の最弱の一点に、こちらの全部の力を集約して送ったなら、相手は耐え切れない。

・骨について
では、どうすれば全部の力を集約できるかというと、人体を構成するパーツ、骨格をその動作に適した形にロックすることである。体全体を変形する武器と考えた時、その末端に最も重心、威力が集まる形に骨格を組み替える。突きなら全身が槍になり、手刀なら全身が刀身になるように。
また、逆に崩されそうになった時は、パーツの結合部に遊びを作り、そこから先の部位に崩れが及ばないように切り離す。

・崩しについて
さらにそれを進めると、相手に圧をかけながら、その力感のまま骨格を変形させることで、相手の予想外の崩しが発生する。
アルミ缶の上に乗り、体重をかけた状態で横から挟むように力をかけると、小さな力でも一瞬で潰れるが、人間も押し合った状態で別方向から力が発生した場合、簡単に崩れる。
また、強制的に相手の骨格を末端から連結させることで、不安定な形に組んでロックすることが出来る。頭骨が踵より後ろにいけば倒れ、尾てい骨が踵より後ろにいけば尻餅をつく。手首が膝より下にいけば左右に崩れ、膝が伸びきると前に転がる。

・手形について
こうした操作は、完全につかんでしまうと難しい。柔道のように衣服をしっかり掴むと、その一点に、断続的にピンポイントで圧がかかる。
しかし、手刀などをひっかけたり、摩擦や皮フのひきつりを利用した場合、連続的、かつ線状に力が掛かり続ける。瞬間的なピンポイントの力に対して、人は衝突して中和しようとするが、連続的に部位を移動して流れ込んでくる力には逆らいにくい。

などなど。まあ、普段稽古に来ている人たちは耳タコでしょうから省きます。
私は人をどうやって倒すか、という事を考えてきましたが、太極拳で分かったのは、本来、人はどうやったら立っていられるのか、という点を考えるべきだったということです。
むしろ、直立している状態が特殊なのであって、それが成立している条件を崩すということが、単にどこを引っ張ってどうするとか、梃子の原理でどうこうといったものより重要だったのです。

地面との摩擦や重心を考える物理的アプローチ。
骨格の仕組みを考える解剖学的なアプローチ。
脳の錯覚や反射を考える生理学的なアプローチ。

この時期、私の技は急激に変わっていきます。それまでの、実際の組手、実験から出てきた技を編纂するやり方から、こうすれば、こうなるはずだという理論、直観から技を創出するやり方になっていったからです。
そして、単純な背負いや捨身投げ、内股なども、アプローチによって全く別種の技のようになることに気が付きました。

やがてOさんとの稽古で、最初は何をされたのかも分からずに倒されていたのが、何十本に一回かは返せるようになり、そして何本かに一本まで取れるようになった時、私は、「もう教えることはない。あとは自分で深めていきなさい。大学なんかにサークルを作るのも良い」と言われました。
次の日からOさんの姿は公園にはありませんでした。

私は、再び試行の日々に戻ります。

(つづく)

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    2008

01.04

« ドラネ・クロニクル3 イビルハート〜燃える男(やつ)ら編 »

大学に進んだ私は、武術系のサークルの中で、合気道を選びました。
当時、塩田剛三や佐川幸義といった人々のエピソードに心引かれていたのと、当身と組技の融和の一つの形として、「合気」というものが浮かび上がってきていたからです。
最小の接触点、最短の距離で動作した場合、当身と投げ技の境界はなくなっていきます。たとえば、足払いや突き飛ばしは、当身とも見れますが、相手を転がすことも出来ます。

私は、相手を転がすということに、空手部時代の経験から、高い価値を見いだしていました。
今で言う、パウンドやマウントパンチ、四点ポジションからの膝蹴りなどもそうですが、転倒している相手とは、身長差や体格差が無くなります。そして、地面に固定された相手は、試し割りのように、威力が逃げずに大きなダメージを受けます。これによって、自分が体格的に劣っていても、相手を弱体化、無力化することで、その差を無くすことができる訳です。
これは、自分の強さのみの追求に限界を感じていたところへの転換。相対的な強さの追求という発想でした。この、「相手を弱くする」という考え方は、ドラネコ商会の根幹ですが、裏返して、「相手を弱くする方法」は、自分がそういう状況にならないようにすることで、「強くなる方法」にも通じます。

合気道では、技術的なことではあまり感銘は受けませんでしたが、体や技の質的変化をもたらす鍛錬法には得るものが大きかったと思います。
そうした鍛錬などに関しては、ある先輩から多くのことを学びました。
この先輩は、独自にいろいろな研究をされていて、大東流佐川派の技の掛け方なども見せてもらったり、夜中の二時、三時まで公園などで稽古をつけていただきました。
先生も強い方でしたが、技術が高いというより、鍛錬によるポテンシャルの高さによる強さであって、必ずしも合気道でなくても良い気がしました。
極端に言えば、ただ出鱈目に殴り合ったとしても勝ててしまうだろうし、むしろ遠心力で相手を回して、崩して…といった手続きをしていることが足かせになっているように感じました。

やがて先生は、原点回帰として合気道の源流に近い大東流を筆頭にする柔術も学び、それを教えるようになりました。あるいは私が感じていたようなことを御本人も感じておられたのではないかと思います。
周りでは、合気道に比べて柔術は固くて力技のようだ、合気道だけのほうが良かったという声が聞こえましたが、私は逆に柔術の技は非常に面白かったです。どこがというと、固くて力技のようなところがです。

ある程度、登ってみないと見えない景色というものがあります。
立体迷路は、地上にいれば何処にいて、何をしているのかは分かりませんが、上から俯瞰すれば仕組みが分かります。

私は、それまでの経験から、なぜ柔術の型が固くて力技のように見えるかというと、それは一つの公案、方便であることを感じていました。
もし本当に力技であるなら、相手のほうが力で勝るなら、技は成立しません。そうした力比べのような状況下で型を成立させる事、無理を可能にすることが「術」なのではないか? そう考えた私は、その型を残した人間が、何を伝えたかったのか、どうしてこの手順、このやり方を選んだのかを、パズルを解くように推理していきました。
そうした発想は、振武館の黒田鉄山師範の著作の影響だと思いますが、基本的に無言伝授で行われる柔術の型の中に、流派全ての思想、技術が含まれていること、そこからどれだけの理を得て、高い要求を自分に課すかによって、外形上、同じ事をしているようでも稽古の質はまるで変わることに私は気付きました。
現在、ドラネコ商会では、よく使う投げ技だけで50種類以上はありますが、どれもほとんど即興的に生まれたものです。型をただ技の手順として外形だけをなぞれば、それはその一つさえ理解しえませんが、優れた理はその一つから無限の技を生み出します。

その他、芦原、円心の両流で指導員になった空手家の先輩と組手して、睾丸を蹴られて入院したり、失恋で失意のどん底に落ちたりしながら、やがて私の心は合気道から距離をとりはじめます。部分、部分では役にたったものの、これもまた、私の指針を示すということはありませんでした。

少林寺が、空手が、合気道が良い、悪いということでなく、私の中には自分でも全容は分からぬものの、何か水面下に武術の理想形のようなものがあって、私は自分の中のそれを引き上げたかったのだと思います。
たとえ、それが意外と小さな魚で、味も前に捨ててしまった魚より不味かったとしても、私は「それ」が立てる飛沫や波、時々浮かぶ影を無視できなかったのです。

そして、私はある日、「それ」を見える形で提示してくれる人に巡り会ったのです。

(つづく)

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