2007

12.29

« ドラネ・クロニクル 2 カラテ地獄変編 »

少林寺拳法を続けるうちに私は、武術そのものの構造や、人体の不思議さに魅せられていきました。
この時期、専門誌や技術解説本など、あらゆる情報を摂取しています。
時代も、古武術や中国拳法などの神秘的な伝統武術の再評価と、シューティング、パンクラス、グレイシー柔術などの総合格闘技ブームが同時に発生しており、手に入る情報などが爆発的に増えたころでした。

そうして知識が増えていくにつれ、少林寺拳法に幾つかの不満を持つようになります。
一つは、剛柔相済と言っても、当て身を入れて崩して、投げを決めるというような、剛と柔が独立した技術への疑念です。これでは、当身が入らなければそこでおしまいです。私は、より剛柔が渾然一体となったような技術が必要なのではないかと思ったのです。
剛と柔を二本立てで習得したなら、剛だけのスペシャリスト、柔だけのスペシャリストに対しては、技術の洗練において劣ります。あらゆる局面で対応できるには、剛と柔の境界がなく、どちらも同じ原理で上達できるシステムが必要だと感じたのです。

すでに思想性、方向性から言って私の目指しているものは、少林寺の教えからは遠いものでしたし、この時期すでに「進路」を武術家ときめていた私は、演武会や昇級審査のための練習が多くなるにつれ、実際の強さを求める気持ちとのズレを感じていました。
私は、先生に恩を仇で返すような形で、道場から離れました。
これに関しては、今でも申し訳ない気持ちです。

高校入学後、私は空手部に入部します。
ここは、連盟にも加入しておらず、決まった基本もなく、顧問も不在の、屋上のほったて小屋でひたすらフルコンタクトで殴り合うのみのワンダーランド。治外法権でした。
部の人々は、隠れて煙草を吸ったりはするものの、不良というわけではなく、ひたすら自分の動き(極真、剛柔流、キック、骨法)などを追求する、さながら梁山泊といった趣でした。

ここで、怪我して親に退部させられたり、無理矢理再入部したり、なぜか主将に収まったりしながら、私は自分のスタイルを構築します。
当時55キロしかなかった私は、体格差を補うために、前蹴りでのストッピングや、歩み足でのスイッチ、全弾へのカウンターを狙う戦法など、今の基礎に連なる動きを見いだしていきます。
また、散漫なダメージの与え合いではなく、絶対的な決定打を決め、かつ相手に打たせないような間や、ポジショニング、重心の崩しといった、目に見えにくい部分での戦いの重要さへ関心が移っていきます。

やがて、自分の代になってからは、組手での投げ、寝技、金的の解禁。
推手、合気上げなどの鍛錬や武器術の研究などを行いました。
このころの組手で偶然できた技を検証、洗練したりしたもので、今でも残っているものも少なくはありません。

同じスペースを共有していた剣道部のコーチの方にもかわいがられ、無手対竹刀、トウファー対竹刀などで稽古をつけてもらったり、電気を消して夜行う闇稽古(バケツを投げて反響を探るのがセオリー)や、デート中を想定しての要人警護訓練、バトルロイヤル戦、女子高との合同稽古などを企画していきました。最後のは実現しませんでしたが。


しかし、独学の限界を感じ始め、次の指針となる師を求めはじめたのもこの頃でした。

(つづく)

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    2007

12.27

« ドラネ・クロニクル 1 武術との遭遇編 »

年末特別企画、ドラネコ商会の武術が出来るまでの歴史だよ。ドラネコのはじめてを見にいってみよう!
クルクルバビンチョパペッピポ ヒヤヒヤドキッチョのモ〜グタン!
なんだ、この光は! 力が勝手に…ギャース!


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という訳で、時代は私の幼少期に戻ります。
焼け野原に立った闇市、進駐軍のジープ。ラジオに流れる美空ひばり。
無論そんなものは出てきません。
テレビがガチャガチャからリモコンに変わりはじめ、自動改札はまだ無かった程度の昔です。

そのころ、私はすでに小さな大人でした。
「将来、何になりたいか」といった良くある質問に、同級生たちがスポーツ選手や、お花屋さんなどを挙げる中、『私が真に私自身であり続けることさえ出来れば、乞食になろうと大臣になろうと変わりはない』と思いつつ、それを悟られぬように子供らしく振舞える位に大人でした。そんな八歳児。

外で遊ぶより本を読んでいるのが好きで、親の本棚の本なども、ルビを頼りに相当難しいものまで手を出していました。
閉じられた空間で、限られた物を深く掘り下げていく事を愛しており、この性質が武術の研究の下地になっていたのだと思います。

また、奇麗な菓子の箱や瓶といったものを集めるのが好きでした。
さらに長じては標本箱や、額縁、鳥籠のようなものも偏愛しています。こうした空っぽのものに、何をしまおうかと想像するのが楽しいのです。
これも、俳句や短歌などの定型や形式、武術の枠組そのものへの興味と関連していると思います。よく虚無的な人間であると指摘されるのも、その一環でしょう。あ、虚無的な人間だからそういうものが好きなのかな? まあいいや。

そして、時代は少々飛んで中学生時代。
そうした虚無的な精神を持った大人が中学校に毎日通った場合、どうなるかというと単に苦痛でしかありません。そして、そういう苦痛は態度に表れます。
まして、そのころの私は美少年で、精神的貴族に位置していたので、ことさら鶏群の一鶴でした。
子供はそうした異物、「子供に混じりこんだ大人」に敏感ですから、迫害され、孤立することになります。

しかし、当時の中学校教育は、いじめや校内暴力は社会問題化はしていたものの、現実問題化はしていないというか、学校の責任があまり問われず、当事者同士の解決に任せるという、自治とも無責任ともとれる一種の無法地帯でしたので、身を守る必要が出てきました。
なので私は、少林寺拳法を見学に行くことにしたのでした。

実はこの時、執拗な敵意を向けていた一人から、私は一週間後の公開処刑宣告を受けており、泥縄式に、即席の強さが必要になっていたのです。
当時、隆慶一郎の『死ぬことと見つけたり』か『かくれさと苦界行』に影響された私は、衆人の前でさらし者になって誇りを汚されるくらいなら、刺し違えてでも殺そうという決意を固めていました。
だから、なんと入門前に三回もの、フルタイム見学をしています。迷惑な熱心さです。本当に命を守るに足るものなのか、見極めるのに必死だったのです。

ここで見た先生の強さが、その後の武術を続ける中で基準値となったのですが、私は運が良かったと思います。この先生は本物でした。たとえ小便中に後ろから鉄パイプで襲っても勝てる気がしない強さでした。
今でも、50を過ぎた指導者で、この先生に伍する強さの人間はほとんど見たことがありません。
後に他の少林寺拳法の道院を見て、全然やっていることが違うことに愕然としたのですが、私が行ったところは相当の武闘派で、形式化した練習や、精神修養などより、現実の護身に重きを置き、乱取りなども盛んなほうだったようです。

このころの、習い始めのころのの集中力、必死さというのは、一時間が現在の数カ月分の稽古にも匹敵するほどの意味を持ちました。学校での時間は、教わったことをノートで図にしたり、応用例を考える事に費やされました。
現在に至るまで根幹にある、『武術は実際に身を守れなくては無意味』『暴力に跪く誇りや理想は無価値』という思想もここで固められました。

入門以前に、私はその、執拗な敵意を向けてきた相手の住所を探し出し、密かに燃やしてしまう算段をしたことがあります。
また、実際に学校に包丁を持ち込んで懐に呑み、刺す事を考えて一日を送っていたこともありました。まあ、少年法の強い時代だったので、やっても実刑は受けなかったでしょうが、やらなくて良かったです。
なぜやらなかったのかというと、それは本当の勝利ではないからです。
そして、そういった発想へ流れるのは、自分が弱いからです。
相手の言い訳の出来ない土俵で、完全に負けを認めさせるという事が出来れば、そこまで陰惨な方法を考えないで済むはずです。これは『弱さが卑怯や残酷を生む。人は気高く生きる為には強くなければならない』という教訓になりました。

さて、気になる結末を先に言うと、公開処刑は行われませんでした。
事態が学校の知るところになり、消滅したのです。
私を敵視していた人は、後に職業安定法違反(有害業務紹介)などの疑いで逮捕されたらしいですが、それはまた別のお話。
しかし、この人がいなければ ドラネコ商会も存在しなかったと思うと、一種の恩人とも言えます。

(つづく)

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    2007

12.21

« 年末年始の稽古について »

年内の稽古は終了しました。
年明けは、第二週からの10日から稽古となります。チェキラ。

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    2007

12.17

« 進化論 »

生物の進化論について武術の多様化と絡めて書こうと思ったけれど、難しいので軽く断念しました。
かいつまんで、何が言いたかったのかというと、「世の中にはいろいろなスタイルがある」ということです。

亀のように甲羅で身を守るものもいれば、鳥のように飛ぶものもいる。巻き付いたり丸呑みにするものもいれば、毒があったり、模様で威嚇したりするものもいる。
武術も同じで、全て同じ「身を守り、生き残る」という目的から出発しても、多様な方法論に至ります。

というのも、先日、最近ビジター的に稽古に来ている総合格闘技系の人が、一風変わった武術の使い手を紹介してくれたのですが、その技術が全く未知のものだったので、カルチャーショックだったのです。
たとえば、ローキックなどの打撃を受けても、その威力を体内で何らかの操作をして殺すとか、手首の逆を、ほとんど完全に極まっている角度まで曲げられても大丈夫だとか、軽く『バキ』の消力とか、北斗神拳のような術でした。
昔の空手の、三戦立ちで攻撃が効かなくなるとか、ナイファンチの型で架空の重心を作るというのは、こういうものだったのかもしれないと思いました。

私にはそうした発想は無かったので、『もし相手がローをブロックしたら』とか、『逆技を力で返してきたら』といった対処法はあっても、クリーンヒットしているはず、完全に極まっているはずなのに平気な相手というのは、全く想定していませんでした。世の中は広いものです。まだまだ知らない事がいっぱいあります。

そういった様々な選択肢、進化の方向性がある中で、見聞を広め、あらゆる可能性を模索すること。その中から自分に向いたもの、今の環境で必要な能力は何なのかを適切に選ぶことが大事だと思います。
亀が鳥の羽根をうらやむことも、鳥が亀の甲羅をうらやむことも、自分の良さを殺すだけです。しかし、もし戦う時には、亀にも鳥にも対応できなくてはいけないのですから。

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    2007

12.12

« 武術は誰のため? »

よく聞く文句として「武術は本来、弱者が強者を倒すためのものだ」というのがあります。

弱者、強者というのは相対的なものです。ここでの対比は、「無手の琉球武士VS刀を持った薩摩藩士」とか、「少林寺僧侶VS武装した山賊」とかが「本来の」シチュエーションだったわけです。
では、琉球武士や少林寺僧侶を単独で抜き出してみると、彼等は「弱者」でしょうか?いえ、めちゃめちゃ鍛えています。頑健、剽悍な戦士です

しかし、現代でこの言葉を聞いた人間は「老人や女性でも、大の男に勝てる」とか、ひどい場合には、「老人や女性でも可能な程度の鍛錬しかしなくても良い」という風に捉える人が多いようです。
はっきり言って拡大解釈しすぎです。

確かに年老いても強い達人と呼ばれる人はいます。しかし彼等は若い頃から鍛え続けた結果、現在の姿があるのであって、「年を取っていても強くなれるんだ」と65歳から入門しても、達人と並ぶ訳はありません。

また、あえて性差別になるかもしれない事を言うと、女性で武術に向いている人は皆無に近いです。
それは、どんなに熱心な人でも日常と稽古時間が断絶してしまっているからです。
道場で美しい技を使えたり、組手で男性を圧倒することが出来ても、日常の中で本気の殺意を不意に向けられて、武術的対応をすることは難しいでしょう。

武術を危急の際に使う場合、気持ちを切り替えたりしている暇はありません。そのため、命のやり取り、生き死にの戦いと日常は区別なく、同じものとして過ごせなくては意味がありません。
しかし女性は、いつ襲ってくるか分からない相手の為に備え続けるというような、一種、非現実的、非効率的なことのために、生活を制限する事に意味を見いだせないようです。たぶん脳の仕組みとかがそうなっているんだと思います。

まあ、これもまた、実は書くまでもないことなのですが、やってない人がそういう妄説に引っかかるのはまだ知らず、道場経営者、武術に専業している人間までが金の為に「女性でも大男を投げ飛ばせる!護身に最適!」とか、「誰でも簡単に身に付く!」とかを売り文句にしているので、暗澹とします。
道場で約束稽古で投げ飛ばせるのと、護身の役に立つかは別問題だし、簡単に身に付くのと、それが通用するかどうかも別問題です。
大体において、「強くなれる」とかを謳い文句にしているところはその時点で奇異に感じます。どんなに指導者が優れていても、最終的には上達するか、強くなるかは、習う側個人次第だからです。

武術の持つ可能性は無限ですが、そこから人間がどれだけのものを掴めるかは有限です。個人がその限界を極めようとして、はじめて小が大を、寡が多を、弱が強を覆す光明が見えると思います。

と、ずいぶん突き放した書き方をしましたが、逆に言えば、不断の努力と覚悟があれば、女性や老人であっても、武術を実用足り得るものに出来るかもしれないので、むしろ挑戦してほしい、そうなった姿が見たいと思ってもいます。
本当の意味でハンディキャップになるのは、年齢でも性別でもなく、「自分は弱者で良いのだ」と開き直ってしまうような心だと思うので。

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    2007

12.04

« 武術家の条件 »

昔から私は自分を武術家だ、武術家だと言い続けている訳ですが、人はいったい、いつから武術家になるのでしょう?

世の中には、多くの武術を学んでいる人がいますが、そのほとんどは自分の為に武術を役立てようとしている人です。
強くなりたい、健康になりたい、お金や名誉が欲しい、などなど。

まあ、それ自体は悪いことではないのですが、ある程度、武術のおかげで利益を得たなら、武術に対して利益を還元しようという気持ちが芽生えてきても良いと思います。
この、「武術を利用する人間から武術に奉仕する人間へ」という心境の変化が、単なる修行者から武術家への、精神的境界と言えるのではないでしょうか。

それは、伝統を継承するとか、認知度を高める、底辺人口を増やす、といった事かもしれないし、新たな技術や思想を武術の歴史の中に残すということなどかもしれません。
いずれにせよ、根底にあるのは、武術は私物ではなく人類の知的、身体的共通財産であり、我々はそれを借りているのだという認識です。
かぎりなく我流に近いドラネコ商会ですら、その土台となる部分には、先人達が積み上げてきた歴史があります。
そのため、私は教える側に立つ人間は、文化を預かる人間としての責任と義務があると思っています。だから、私は武術をスポーツや介護に生かすとか、健康体操的なものとして伝える人間を好きになれないのです。
たまたま預かっているだけのものを勝手に変質させたり、本道を曲げる権利は誰にもないからです。

学ぶ側が武術をどう使うかは個人の自由ですが、教える側は時代やニーズに合わせて教える内容を変える必要はありません。それをすれば、商売にはなるでしょうが、武術が商品化することで消費されてしまうからです。
普遍的なものは時代を超えて受け継がれますが、ニーズに合わせて変化するものは、一過性の流行にしかなりません。それは、十年先、百年先を見据えた場合、武術という文化に何か貢献したことにはならないでしょう。そういう商売をしている人は、私の感性では武術家とは呼べません。

もうひとつ、技術面での条件というのもあります。
いかに理想が高くても、腕がからっきしでは当然、武術家とはいえません。
しかし、これに関してもただ強ければ良いというものではないと思います。
「〜家」と名の付くもの、建築家、音楽家、書家、思想家など、何にせよ、一家を構えるという事に当たっては、家だけに大黒柱が必要です。
それは、大きく言えば、世界観、宇宙観であり、小さくいうなら芸風です。

たとえば、あらゆる攻撃手段がある中で、当身を中心にして技術体系、宇宙を構築しようとしたのが空手で、当身の中でも特に蹴り技を中心に構築しようとしたのが、テコンドーです。
もし、テコンドーの選手が、空手着を着て空手の大会に出ても、戦い方がテコンドーなら、それは空手ではありません。何を大黒柱、根幹としているかが、その武術家のアイゼンティティとなります。

一つの「家」として新たに門を構えるということは、その家が、他の家とは違うことを証す必要があります。まったく同じものがすでにあるなら、その門下に入れば良く、新たに家を起てる必要がないからです。
そこで、武術家として新たに一家の看板を上げるには、自分の根幹とするものを示す必要があります。もし、どんなに強くても、その技術の後ろに自分の世界、根幹となるものを持ち得なかったなら、その人は、ただ武術をやっている人であって、武術家とは呼べないでしょう。

最後に、家は家だけあっても、ただの建物、容れ物でしかありません。「家族」に当たる人間がいて、初めて家は家として機能します。武術で言えば、同じ門の下で生きる仲間、「門下生」です。
孤独に生き、孤独に死んでいく武術家というのも居ても良いのですが、その場合でさえも、最初から最後まで、ひっそり山の中で生きて、誰にも知られずに死んだ、という場合、武術家とは言い難いかもしれません。
もし、書物などに自分の考えなどを書き残していたなら、時代を超えて賛同者が現れ、認知されるかもしれませんが、まったく知られずに死んでしまった人は、どんなに卓越した技を持っていても、歴史的には居なかったことになってしまうからです。

整理すると、

1・武術に何かしら貢献していること
2・自分の武術観が確立していること
3・それを支持する人がいること

でしょうか。そこまで的外れな定義ではないと思います。
まあ、武術家になりたいという珍しい人は、サッカー選手とかアイドルとか銀行員とかに比べて競争率自体は低い、というか定員がないので無競争ですから、ひとつ参考にしてみてください。

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