2007
« 武術の倫理学 »
どうして人を殺してはいけないの?
とかいう類いの話が一時、ブームになってましたね。
まあ、これは設問がちょっとおかしいので、あんまり答える意味のないものですが、強いて答えるなら、「世の中にはむしろ、刺し違えてでも殺さなきゃいけない人間もいるんだぜ。ボウズ!」というところでしょう。ブラックエンジェルス的にな!
死刑制度や警官の拳銃携帯、正当防衛の解釈などを見ても、「人を殺してはいけない」なんて話はなく、場合によっては殺しても良い、むしろ殺すべき場合もある訳です。
物騒な話なので、「マア!野蛮!私、そんな事考えたくありませんわ!」とか思し召すマダムなどもいらっしゃるでしょうが、殺す事、生きる事というのは生活の根源であり、それに向き合わずに、毛皮をまとい、肉を食べ、自然を破壊したりと、甘い汁だけ吸って無自覚な加害者でありつづけるような感受性の鈍さ、自己中心的傲慢こそが野蛮なのは今さら言うまでもないでしょう。C.Wニコルの胸毛でも煎じて飲んでろ!
もっとも、そういうマダム系の人はそもそも、こんな文章は読んでねえか。そうか。
で、武術を修練するという事ですが、これは潜在的に加害者になりうる事を肯定するという事です。
襲われても、無抵抗で死のうと思っている人には武術は必要ないわけで、武術を学ぶという選択は、殺されるくらいなら、殺す側に立ちますよ、という表明です。
まあ、もう少し理解と技術が深まっていけば、「たとえ、相手が自分を殺そうとしていても、自分は相手を殺さずにすませたい。そうできるだけの強さが欲しい」という考えに行き着くでしょうが、週ニ、三回、数時間の道場稽古をしているだけでは、その理想を体現できる強さは多分、一生身に付かないと思って良いです。私も、軽く切羽詰まったら目くらいは突きます。多分。
だから、常に自分が学んでいる技術が人を殺傷する技術である事を忘れないほうが良いでしょう。
どういう訳か現代の法では、殺意が無いのに殺したり、心神が喪失した状態で殺したりしているほうが罪が軽くなったりしており、「気がついたら殺していた」とか、「首を絞めてナイフを刺しただけ。死ぬとは思ってなかった」とか、ふざけた言い分がまかり通っています。
しかし、人倫の道から言えば、「悩みに悩んで熟慮したが、殺す以外に選択肢がなく、やむなく殺した」というほうが、圧倒的に正しいし、まっとうに罪を背負っているのは確かです。だけれど、これだと「犯行は計画的で、殺意も判断能力もあった」から刑罰は重くなるようです。
しかし、ドラネコ十訓にもあるように、もし、やむを得ず、武術を使わざるを得ない時が訪れたとしたら、無我夢中でつい殺してしまった、とかではなく、きちんと己の意志で行動していただきたい。
武術においての倫理とは、殺人の否定ではなく、それに対する思考の停止の否定です。
正直、こんな事はわざわざ書くまでもないレベルの話なのですが、現在のこの国は、暴力や死が満ちあふれている割に、隠蔽され、考えることを放棄するように操作されている観があり、書きました。
それが、マスメディアや教育の傾向にとどまらず、もっとも根源的に人の生や死を取り扱う武術の世界ですら、その問題から目を背け、カルチャースクール的なものや、スピリチュアルだ、ヒーリングだ、骨格の歪みを直す整体だ気功だ、スポーツの動きの質を変える身体操作だと、枝葉の部分ばかりを強調し本質をぼかしたようなものばかりが流行、消費され、何も後に残らないような状況に危機感があります。
カルチャースクール?
お稽古事感覚で人を殺傷する技を習いに行ってるんじゃねえ!お前は快楽殺人者か!
スピリチュアル?
生きるか死ぬかのところで突き詰めてやってない人間が魂がどうこう言えんのか!
ヒーリング?
本当の痛みを知らずに癒しもへったくれもあるか!お前に必要なのは戦いだ!
骨格の歪み?
歪んでいるのは、無自覚に人を傷つける技を学んでいるような精神だろ!
身体操作?
武術が何なのか、基本も知らない最初から、別の事に応用することだけ考えてんじゃねえ!
これくらいの事を誰かが言っても良いと思うんですよ。今こそね。
武術家は、宗教者とか、医師とかと同じで、人間の一番根源である、生と死についての専門家だから、師だの先生だのと呼ばれているんで、その分野に関しては、倫理、思想などにおいても、宗教者、医師なみに高い水準が求められるはずですから。
とかいう類いの話が一時、ブームになってましたね。
まあ、これは設問がちょっとおかしいので、あんまり答える意味のないものですが、強いて答えるなら、「世の中にはむしろ、刺し違えてでも殺さなきゃいけない人間もいるんだぜ。ボウズ!」というところでしょう。ブラックエンジェルス的にな!
死刑制度や警官の拳銃携帯、正当防衛の解釈などを見ても、「人を殺してはいけない」なんて話はなく、場合によっては殺しても良い、むしろ殺すべき場合もある訳です。
物騒な話なので、「マア!野蛮!私、そんな事考えたくありませんわ!」とか思し召すマダムなどもいらっしゃるでしょうが、殺す事、生きる事というのは生活の根源であり、それに向き合わずに、毛皮をまとい、肉を食べ、自然を破壊したりと、甘い汁だけ吸って無自覚な加害者でありつづけるような感受性の鈍さ、自己中心的傲慢こそが野蛮なのは今さら言うまでもないでしょう。C.Wニコルの胸毛でも煎じて飲んでろ!
もっとも、そういうマダム系の人はそもそも、こんな文章は読んでねえか。そうか。
で、武術を修練するという事ですが、これは潜在的に加害者になりうる事を肯定するという事です。
襲われても、無抵抗で死のうと思っている人には武術は必要ないわけで、武術を学ぶという選択は、殺されるくらいなら、殺す側に立ちますよ、という表明です。
まあ、もう少し理解と技術が深まっていけば、「たとえ、相手が自分を殺そうとしていても、自分は相手を殺さずにすませたい。そうできるだけの強さが欲しい」という考えに行き着くでしょうが、週ニ、三回、数時間の道場稽古をしているだけでは、その理想を体現できる強さは多分、一生身に付かないと思って良いです。私も、軽く切羽詰まったら目くらいは突きます。多分。
だから、常に自分が学んでいる技術が人を殺傷する技術である事を忘れないほうが良いでしょう。
どういう訳か現代の法では、殺意が無いのに殺したり、心神が喪失した状態で殺したりしているほうが罪が軽くなったりしており、「気がついたら殺していた」とか、「首を絞めてナイフを刺しただけ。死ぬとは思ってなかった」とか、ふざけた言い分がまかり通っています。
しかし、人倫の道から言えば、「悩みに悩んで熟慮したが、殺す以外に選択肢がなく、やむなく殺した」というほうが、圧倒的に正しいし、まっとうに罪を背負っているのは確かです。だけれど、これだと「犯行は計画的で、殺意も判断能力もあった」から刑罰は重くなるようです。
しかし、ドラネコ十訓にもあるように、もし、やむを得ず、武術を使わざるを得ない時が訪れたとしたら、無我夢中でつい殺してしまった、とかではなく、きちんと己の意志で行動していただきたい。
武術においての倫理とは、殺人の否定ではなく、それに対する思考の停止の否定です。
正直、こんな事はわざわざ書くまでもないレベルの話なのですが、現在のこの国は、暴力や死が満ちあふれている割に、隠蔽され、考えることを放棄するように操作されている観があり、書きました。
それが、マスメディアや教育の傾向にとどまらず、もっとも根源的に人の生や死を取り扱う武術の世界ですら、その問題から目を背け、カルチャースクール的なものや、スピリチュアルだ、ヒーリングだ、骨格の歪みを直す整体だ気功だ、スポーツの動きの質を変える身体操作だと、枝葉の部分ばかりを強調し本質をぼかしたようなものばかりが流行、消費され、何も後に残らないような状況に危機感があります。
カルチャースクール?
お稽古事感覚で人を殺傷する技を習いに行ってるんじゃねえ!お前は快楽殺人者か!
スピリチュアル?
生きるか死ぬかのところで突き詰めてやってない人間が魂がどうこう言えんのか!
ヒーリング?
本当の痛みを知らずに癒しもへったくれもあるか!お前に必要なのは戦いだ!
骨格の歪み?
歪んでいるのは、無自覚に人を傷つける技を学んでいるような精神だろ!
身体操作?
武術が何なのか、基本も知らない最初から、別の事に応用することだけ考えてんじゃねえ!
これくらいの事を誰かが言っても良いと思うんですよ。今こそね。
武術家は、宗教者とか、医師とかと同じで、人間の一番根源である、生と死についての専門家だから、師だの先生だのと呼ばれているんで、その分野に関しては、倫理、思想などにおいても、宗教者、医師なみに高い水準が求められるはずですから。

