2007

11.24

« 武術の倫理学 »

どうして人を殺してはいけないの?

とかいう類いの話が一時、ブームになってましたね。
まあ、これは設問がちょっとおかしいので、あんまり答える意味のないものですが、強いて答えるなら、「世の中にはむしろ、刺し違えてでも殺さなきゃいけない人間もいるんだぜ。ボウズ!」というところでしょう。ブラックエンジェルス的にな!

死刑制度や警官の拳銃携帯、正当防衛の解釈などを見ても、「人を殺してはいけない」なんて話はなく、場合によっては殺しても良い、むしろ殺すべき場合もある訳です。
物騒な話なので、「マア!野蛮!私、そんな事考えたくありませんわ!」とか思し召すマダムなどもいらっしゃるでしょうが、殺す事、生きる事というのは生活の根源であり、それに向き合わずに、毛皮をまとい、肉を食べ、自然を破壊したりと、甘い汁だけ吸って無自覚な加害者でありつづけるような感受性の鈍さ、自己中心的傲慢こそが野蛮なのは今さら言うまでもないでしょう。C.Wニコルの胸毛でも煎じて飲んでろ!
もっとも、そういうマダム系の人はそもそも、こんな文章は読んでねえか。そうか。

で、武術を修練するという事ですが、これは潜在的に加害者になりうる事を肯定するという事です。
襲われても、無抵抗で死のうと思っている人には武術は必要ないわけで、武術を学ぶという選択は、殺されるくらいなら、殺す側に立ちますよ、という表明です。
まあ、もう少し理解と技術が深まっていけば、「たとえ、相手が自分を殺そうとしていても、自分は相手を殺さずにすませたい。そうできるだけの強さが欲しい」という考えに行き着くでしょうが、週ニ、三回、数時間の道場稽古をしているだけでは、その理想を体現できる強さは多分、一生身に付かないと思って良いです。私も、軽く切羽詰まったら目くらいは突きます。多分。
だから、常に自分が学んでいる技術が人を殺傷する技術である事を忘れないほうが良いでしょう。

どういう訳か現代の法では、殺意が無いのに殺したり、心神が喪失した状態で殺したりしているほうが罪が軽くなったりしており、「気がついたら殺していた」とか、「首を絞めてナイフを刺しただけ。死ぬとは思ってなかった」とか、ふざけた言い分がまかり通っています。
しかし、人倫の道から言えば、「悩みに悩んで熟慮したが、殺す以外に選択肢がなく、やむなく殺した」というほうが、圧倒的に正しいし、まっとうに罪を背負っているのは確かです。だけれど、これだと「犯行は計画的で、殺意も判断能力もあった」から刑罰は重くなるようです。
しかし、ドラネコ十訓にもあるように、もし、やむを得ず、武術を使わざるを得ない時が訪れたとしたら、無我夢中でつい殺してしまった、とかではなく、きちんと己の意志で行動していただきたい。
武術においての倫理とは、殺人の否定ではなく、それに対する思考の停止の否定です。

正直、こんな事はわざわざ書くまでもないレベルの話なのですが、現在のこの国は、暴力や死が満ちあふれている割に、隠蔽され、考えることを放棄するように操作されている観があり、書きました。
それが、マスメディアや教育の傾向にとどまらず、もっとも根源的に人の生や死を取り扱う武術の世界ですら、その問題から目を背け、カルチャースクール的なものや、スピリチュアルだ、ヒーリングだ、骨格の歪みを直す整体だ気功だ、スポーツの動きの質を変える身体操作だと、枝葉の部分ばかりを強調し本質をぼかしたようなものばかりが流行、消費され、何も後に残らないような状況に危機感があります。

カルチャースクール?
お稽古事感覚で人を殺傷する技を習いに行ってるんじゃねえ!お前は快楽殺人者か!
スピリチュアル?
生きるか死ぬかのところで突き詰めてやってない人間が魂がどうこう言えんのか!
ヒーリング?
本当の痛みを知らずに癒しもへったくれもあるか!お前に必要なのは戦いだ!
骨格の歪み?
歪んでいるのは、無自覚に人を傷つける技を学んでいるような精神だろ!
身体操作?
武術が何なのか、基本も知らない最初から、別の事に応用することだけ考えてんじゃねえ!

これくらいの事を誰かが言っても良いと思うんですよ。今こそね。
武術家は、宗教者とか、医師とかと同じで、人間の一番根源である、生と死についての専門家だから、師だの先生だのと呼ばれているんで、その分野に関しては、倫理、思想などにおいても、宗教者、医師なみに高い水準が求められるはずですから。

飲み屋の便所に貼ってある親爺の小言の類いトラックバック(0)  コメント(2) 

    2007

11.19

« 11/22(木)の稽古 »

私用につき、おやすみです。
申し訳ない。

告知トラックバック(0)  コメント(4) 

    2007

11.13

« 神の名は神 »

武術の名は武術。

何の話かというと、昔から「ドラネコ商会の技術はどういうジャンルなんですか?」と良く聞かれる事についてです。
まあ、厳密に答えるなら、「ドラネコ商会の武術はドラネコ商会の武術としか言い様がありません」なのだけれど、それだと感じが悪い人のように思われるので、「拳法と柔術の間のようなものです」と答えてきた訳です。

それで不思議なのは、みんな、そういう答えを聞くと急に安心した風になって、「あ、そうか。拳法と柔術の間のようなものなんですねえ」と頷きはじめる事についてです。
じゃあ、逆にその人に拳法と柔術について、どういうイメージを持っているか、どこまで知っているかを聞いてみると、「やっぱり、アチョーって飛んだり、手からカメハメ波が出たりするんでしょ」とか、「やっぱり相手の力を利用して投げたりするんでしょ」とか、なんか質問する前より、認識がおかしくなってる事のほうが多い気がするのです。
なんとなく、「タウリン1000mg配合」とか、「焙煎直火ロースト」とか言われると、それがどう凄いのかは分からないけど、つい買ってしまう心理に似てますね。

実はこの、何か名前をつけてカテゴライズしないと安心できないっていう考えは、わりとやっかいなもので、あらゆるところで、上達を阻害したりしています。

技というのは一個一個がモデルケースというか、それ以上は分解できない一番分りやすい形で提示されているのですが、人によっては、それを、「つまり、これって○○と同じですね」とか、「要するに●●みたいな感じですか」とか、自分の知っているものに結び付けて理解しようとする。
それが、感覚的な直観であったり、本当に根本的な共通点を見通しているなら、一を聞いて十を知るがごとく、劇的に成長するのですが、残念なことに、この手の発言を連発する人の多くは、性急に結果を求めるあまりに、やみくもに何でも結び付けてしまっている場合が多い。
まあ、説明書をまったく見ずにゲームを始めて、分からないと逆ギレする人や、こちらの説明が終わってないのに、「わかった!わかった!やらせて!」と、すぐにやりたがる人に多い傾向ですね。

一番シンプルな形で提示しているのに、「つまり」とか「ようするに」と、誤変換することで、余計に遠ざかってしまう。そうすると、もう先入観で○○や●●のようにやろう、と思っているから変な癖がついてしまう。最悪、似て非なるものしか出来なくなる。結局、見たものを見たままに理解して、そのままやっている人の方が、上達が早い。

知らないから、出来ないから学ぶのであって、すでに自分が知っているもの、出来るものと結びつけてしまうと、もう発展しなくなってしまうんですね。
なので、武術の要訣などは大概、別の分野の事や、自然現象などに例えられる事が多いです。
なまじ半端に近い分野の言葉で説明して、微妙に別物になるよりは、抽象的フィーリングだけ伝えたほうがましだからですね。

ありがたいお話トラックバック(0)  コメント(5) 

    2007

11.04

« 基本とはなにか »

ドラネコ商会は、いろいろなものに影響を受けつつも、わりと独自の発展をしてきた。
そのため、教習のカリキュラムというのが厳密にはない。

伝統武術の持つ素晴らしさというのは教習体系の組まれ方、上達のシステムが整備されているという事だ。たとえば近年感銘を受けたのは、空手の型の『転掌』などである。
これは、某漫画でも型の最高峰とか言われており、剛柔流では根幹的なものらしいが、私は初見でその凄さがピンとこなかった。
なんとなく詠春拳的だな、という感想を持ち、『受け技の詰め合わせ』的なものと捉えていた。
が、ある程度目が肥えてから再度見直すと、随分と印象が違って見えた。

ここから先は門外漢の当推量なので、実際にどうかは分からないのだが、多分、『転掌』は、それ単体で見ただけなら、受け技の詰め合わせにしか見えないように、わざと組まれている。
しかし、その前段階に習う幾つかの型を体に通している人間にとっては、それを組み合わせることで一つ一つの動作が必殺の技になるのではないか。
それらの型は、音楽の和音や、さまざまな高さのパートの個別練習であり、それだけ聞いても意味は分からないが、主旋律と合わせることで何重にも厚みを増すように計算されているのではないだろうか。
それによって、技術の流出を防いだり、また弟子の人間性を見て、どの段階まで教えて良いかを分けていたのではないだろうか。

まあ、そんな事を感じた。当たらずとも遠くはなかろうと思う。
もう一つ、こっちは完全に根拠はないが、『転掌』では、左右の手を交互に幾つかの動かし方で使うが、これも実際には右手パートと左手パートは同時に使うものに思えた。その場合、受け技に見える形も、実は攻撃であるという可能性もあるだろう。

こうした、意味を隠しつつ本質を守るというような教伝法も見事だし、剣術のように基本が奥義に円環して、無限に深めることが出来るものもよく出来ている。
実際のところ、一つの流儀を興すというのは、このカリキュラムの作成であると言ってもいい。
ただ、ドラネコ商会の場合、その最初の第一歩である『基本』に該当するものが定めにくいのだ。

というのも、私自身が「これのおかげで上達した」というような分かりやすい人工的な階段的上達ではなく、「あちこちグルグル回ってるうちにいつの間にかちょっと上の方まで来ていた」という登山路的な上達をしてきたので、どこまでが省いて良い脇道か、というのが見えないのだ。
それこそ、上に登る道そのものより、登る途中でふと見た岩陰のキノコの赤い色の印象、といった、ちょっとした小さな発見が、後になって今の自分の方向性を決めていたのかもしれない事も多々ある。
今ある稽古の最初に行う鍛錬法なども、私がそれをやって効果をあげた運動ではなく、教える中で必要を感じた要素を、技術から抽出して抜き出したものだ。それがどこまで有効なのかは今ひとつ分からない。

ただまあ、現在のように満遍なく色々思い付きでやっていくのもあながち間違いではない感じもする。
例えば単に腰を落とすという一点に関してなどでも、それのみを教えた場合、突き蹴りの際は落としていても投げ技の時には出来ていないとか、あるいはその逆であるとか、腰は落ちているがそれが動作の中で有効に作用していない、といった事がある。
だが、万遍なく色々な技をやる中で、何かが違う、出来ないとなった時に、習う側が「腰を落とす」ということの必要性を理解、自得した場合は、それは生きた原理として吸収される。禅の公案(いわゆる禅問答。悟りを得るとは何かを様々な聞き方で問われるが、結果的には答えはどれも一つとなる)のように、ある人は投げ技の稽古中にそれが出来るようになり、ある人は当身の稽古中に気付くというのも、それはそれでありではなかろうかと思う。
つまり、上達するもしないも習う側のセンスと熱心さ次第という事ですよ。いそがば回れ。

ありがたいお話トラックバック(0)  コメント(0) 

    2007

11.02

« 今日の稽古 »

今日は我孫子氏が参加。
二人とも久々の稽古だったので体がなまっており、私は最初にやる鍛錬法で力負けしてしまったり、反射速度の訓練でミスを多発したり。

一方、我孫子氏は体が頭についてこなくなっており、時々フリーズしてしまう。
「こんなはずでは…」「親父にもぶたれたことないのに…」を連呼。
技を「覚えている状態」と、技が「身に付いている状態」の違いが如実に出ていた。しかしまあ、数回参加すれば勘が戻るだろう。

実際、講習会などで何も隠さずに、一見の人にもガンガン技を教えてしまうのは、形だけ知っていてもどうせ使えないからで、鍛錬法や他の技術とセットで順繰りにやっていってコツをつかんだり、ある程度、高いレベルの受け手に技の感触を聞きながら感覚をつかまないと意味がないからだ。
その鍛錬法にしても、ちょっと目を離したら商会員ですら変形してしまっていたりするので、なかなか技術を体に定着させるのは難しい。

後半は組手を五、六本。新たな奥義を開眼する。
すなわち、相手が誤爆で蹴り足を痛める、スリップダウンするなどして、予期せぬダメージを受けた時に、すかさず、したり顔で「秘技・○○!」と叫ぶという奥義である。『狙ってこんな事ができるなんて…!』という心理的警戒を植え付けることが出来て、なんとなく優位に立てる。
普段からいくつか技名を用意しておくと便利であろう。

ゆかいな稽古風景トラックバック(0)  コメント(3) 

    2007

11.02

« 3日土曜日 »

稽古お休みです。
諸事情で。

告知トラックバック(0)  コメント(0) 

 |TOP