ドラネコ商会員心得
一つ・私闘以外を禁ず。
武術は実用品なので使うなとは言いません。
しかし、それは個人の責任と判断で使って下さい。言い換えるなら、組織、上官、組長、尊師、大義名分、思想、規則などの、「何かに命じられて使う」ということは絶対にやめてください。自分で暴力を管理できない人間には武術は教えられません。
一つ・お金の貸し借りはきちんと清算しよう。
そのまんまです。
一つ・エンジョイ&エキサイティング
「エ・・・エンジョイ&エキサイティング!」
あと七個もないので、適当に継ぎ足しといてください。
ノビ氏、Artificial anus氏、にしおぎ子さんを引率して、私は南千住を徘徊していた。ドラネコ商会の合宿である。
小雨けぶる昼の南千住はゴーストタウンと化しており、昭和の趣を残した商店の多くはシャッターを閉ざしていた。
首切り地蔵、ドヤ街など、うらぶれた薄暗い路地をさまよう。荒川スポーツセンターを目指すが、一向にたどり着く気配はない。
通りがかった老人に道を聞くも、「さあ、知らないねえ、ヒッヒッヒ。」としか答えてくれなかった。
そこでにしおぎ子さんが地図を持っていたことが分かり、どうやら駅から降りて一歩目からもう、逆方向に向かっていたことが判明。
ようやくスポーツセンターに到着すると、武道場はなぜか無人で貸切り状態。
ヤッホー、ヤッホーと、商会員たちが無邪気に転げ回る。
しかし、数分後には阿鼻叫喚の地獄絵図に変わっていた。
暑い。
暑い。暑すぎる。十万石まんじゅう。
あついぜあついぜあつくてしぬぜ!
どう見てもサウナです。本当にありがとうございました。
開始30分を待たずして、「もう堪忍してけろ」「やめてくんろ」を連発する商会員たち。ペットボトルが飛ぶように消費されていく。
ビジネスチャンスと見た私は、秘書にサントリーの株を買い占めるように電話した。するとみるみる株価が上昇。日本経済復興ののろしがあがった、という白昼夢を見ながら壁に頭を打ち付けていたのを商会員に止められる。
暑さで幻覚を見ていたようだ。
夕方、駅前の居酒屋で食事。思わず散財。ほろ酔いのまま、モノレールに乗って「大江戸温泉物語」へ移動。
温泉につくと浴衣を渡されるが、うっかりMで貰ったら、丈が短くてまるで私だけバカボンのように。
館内は疑似的に江戸の町並みのようなものが再現されていて、湯上がりの若い女性たちも浴衣で歩いていた。まるでボーナスステージだ。
そんな中、一人だけバカボンの私。
そう考えると無性にいたたまれなくなって来たが、精神を統一して、「自分はバカボンなのだ。だからこれでいのだ」と念じ続けた。気にならなくなった。
いろいろな風呂を楽しんだ後、全員でプチ庭園的なところにある足湯へ移動。足湯では、みな裾をからげて湯の中を移動しているので、女性はなかなか色っぽい事になる。しかし私はバカボンなので、そのまま入ってもほとんど裾が濡れない。先見の明である。
ほくそ笑んでいると急激な痛みに襲われた。敵か!?
いや、足湯には石が敷きつめてあり、足ツボを刺激するという名目で、罪人を苛む恐ろしい拷問コースなのだった。
半端に進んだため、行くも帰るもままならないブービートラップに取り残される。
やむを得ず、波紋の呼吸を使い、水面を歩く。
そして座ったままの姿勢で驚くべき跳躍。
そんな幻覚をみた。湯でのぼせて。
適当に歓談した後、仮眠室へ移動するも、席が足りない。
Artificial anusさんは新型マッサージ機におさまって寝ていたが、椅子が倒れず、まるでコックピットで死んでいる操縦士のようだった。
誰かが手もとの備えつけテレビを大音量で、よりによってF1中継にしたまま寝ているようで、うるさくてまるで眠れない。
見つけだして殺したい衝動と戦いながら就寝。
翌朝5時。
となりの席で男女がごそごそとうるさくて目覚める。
抗議のため、寝返り、咳払いなどをするが、気付かぬ様子でしゃべり続けている。大方、『バカボン寝相悪いな』くらいにしか思っていないのだろう。畜生め。
やむを得ず、コックピットで戦死していた人を、「最先端技術・ゆさぶり」を使って起こし、朝風呂に移動する。
それをテレパシーで感知してきたノビ氏もどこからか現れる。
「温泉は疲れがとれますなあ」と、憔悴しきった顔で言い合う。
みんな眠れていない。
大広間にマットレスが敷かれており、ゆっくり眠れる大スペースがあったことに気がついたのは、その後だった。
二日目は難なくスポーツセンターに到着。
少し休んでから稽古しよう、と、全員で長机に伏せる。
気がつくと皆、夢の世界へ旅だっており、一瞬で一時間ほどすぎていた。売店のおばちゃんの視線が痛い。
寝ぼけ眼で稽古、そして夢想の内に奥義開眼、と思ったが、寝不足が見せた幻覚のようだった。
稽古後、打上げに浅草へ。仲見世などをうろつく。浅草は雨でもアーケードが多いから歩きやすい。適当に観光した後、縁台が張り出している飲み屋へ。
牛筋にこみ、砂肝にんにく炒め、にごり酒。うまい。楽しい。
話題はなぜかチンコについて、そして宇宙へと広がり、宇宙とチンコではどちらが先かなどを考える。
Artificial anusさんによると、この世界はチンコの宇宙で、生き物の進化も、星の誕生も宇宙の膨張も、すべて精子の拡散であり、もうひとつの子宮宇宙へ辿り着こうとしている。そしてそこで精子と卵子が出会うことで新しい宇宙が生まれるのだ、という説を発表していた。
この人は一滴も酒を飲んでいないのにこういう発想が出来るのが凄い。
その後、なぜか彼はノビ氏と股間をまさぐり合っていた。
あるいは、その辺に宇宙の秘密が隠されていたのかもしれない。
腹がいっぱいになったところで解散しますか、という運びになったが、にしおぎ子さんが「帰りたくない、大人になんかなりたくない、明日仕事行きたくない」を連呼したので、カラオケに二次会へ。各人、好き勝手に振舞う。
最終的に、なんかにしおぎ子さんに4300円くらい借金した気もするが、多分、酒による幻覚だろう。
Artificial anusさんは終電もなくなったので、ノビ家に、もう少し宇宙の秘密を探求しに行った。
私は、帰宅し、家人に旅の思い出などを語ったが、どうにも体がかゆい。掻いたところが湿疹、火脹れのようになっている。
温泉かぶれではないかと言われ、薬を塗ってもらうと、灼熱に熱い。
ほう、なんですかこの薬は、いやに効きますな、と思って電気を明るくして見てみると、「サロメチール。湿疹、かぶれには使用しないでください」と書いてあった。
地獄だった。
完。
汝らのうち誰か、百匹の羊を持たんに、もしもその一匹を失はば、九十九匹を 野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや
(ルカ伝第十五章)
朝、寝ぼけ眼で電話を受け取った。マイミクの五月九太郎氏からである。これから杖術の稽古をつけてくれという。
時計を見る。AM5:30。
狂っていやがる。
笑うしかないので笑った。
そしてサンシャインの裏の公園に向かった。
そこには、奇声をあげながら棒っきれを振り回す、目の血走った半裸の男がいた。
独り稽古のしすぎで、足の裏の皮がヴェロンヴェロンに剥けている。お前は李書文か。
どう考えても関わりあいにならない方が良い人間だったので、素通りしようと思ったが、それが五月氏だったので仕方がない。
奇異の目にさらされながら、二時間ほど稽古をする。
そして次の日。
夜、寝ぼけ眼で電話を受け取った。マイミクの五月九太郎氏からである。これから杖術の稽古をつけてくれという。
時計を見る。AM1:45。
狂っていやがる。
笑うしかないので笑った。
そして池袋西口公園に向かった。
そこには、真っ赤なハチマキを締め、傘をガムテープでぐるぐる巻きにした物体を二本持った男がいた。何のコスプレだ。
どう考えても関わりあいにならない方が良い人間だったので、素通りしようと思ったが、それが五月氏だったので仕方がない。
短棒術の稽古をしていると、謎の関西人営業2人組が話しかけてきた。「それ、太極拳でっか?」
急遽、謎の2人組にも稽古をつけることになる。
初対面の営業マンを何度も石畳に叩き付ける。そんな午前2時。
俺は何をやってるのか。
午前4時、営業マンたちを解放し、「若大将」で五月氏と語らう。
五月氏は「今の時代には骨太なムーヴメントが無い」を連呼していた。
しかし、こういう非常識な時間の呼び出しをする人も、今では五月氏とYUKI君くらいになってしまった。
昔はみんなもっと破天荒だったのに。
どいつもこいつも、明日仕事があるだの、家庭があるだので、こんな無法な遊びをしようとはしない。さびしいことだ。
と思ったが、昔からこの二人しかそんな非常識なことはしてなかった気もしてきた。そうか。何も変わってないのか。
逆もまた真なり、というが、一つの技術には二面的な意味がある、という事に気がついた。
まあ、あんまり大した発見ではない、というか、同じことを逆に言っているだけだが、2×3=6と6÷3=2が同じ事だ、ということ。
例えば、「倒れない立ち方」の稽古は、裏を返せば「どうすれば倒せるのか」の稽古になるし、「大きな力の出し方」の稽古は「相手に力を出させない方法」を学んでいるのと同じになる。
要は、自分が守るべき注意点を、相手に守らせない、破らせることで弱体化できるという事だ。
ごく当たり前の事だけれど、何故、「合気上げ」などが重要と言われているのかも、これがヒントになるのではないだろうか。
Q ドラネコ商会とはなんですか。
A 私のサイトの名前でしたが、転じて私の主催する武術の稽古会を指したり、そこで行われている武術の流儀を指すようになってきています。定期的に参加している人を冗談で、商会員などと呼ぶこともあります。しかし、別に商業活動をしている訳ではありません。
Q ドラネコ商会の武術はどういうものですか?
A 思想的なことは、「旦那102芸」をごらんください。
技術的に言うと、柔術と拳法の中間的なものですが、ずばりそのものを表す言葉は無いので、直接、見て判断しないと分かりにくいと思います。
Q 稽古会は、どういう趣旨の集まりですか?
A 基本的には未経験者が多かった為、私が指導していますが、上下ではなく、横のつながりです。
武術界全体の危機に対して、流派の垣根を越えた交流を計るためのサロン的役割も担えれば良いかとも思っています。
そのため、現在、会費や入会金といったものは存在しませんが、逆にいえば、会員は「生徒」でも「お客さん」でもありません。
教わることにただ受身の人や、社会常識に欠けた人は、稽古への参加をお断りする場合があります。
Q 受け入れ制限はありますか?
A 18歳未満の方は面談し、入会動機の切実さ、人間性などを考慮させていただきます。
「習い事」ではなく、自分の意思を持って参加できるようならば、年齢は問いません。
高齢の方は、医師に激しい運動を止められていなければ問題ありません。
そのほか、外国籍の方、障害を持つ方などもご相談ください。
Q 稽古の安全性はどうなっていますか?
A 留意してはいますが、基本的には自己責任でお願いします。
会費を取らないということは、スポーツ保険への団体加入などもしていないという事ですので。
大きな事故としては、組手中に肋骨を折った人、腕の靭帯を痛めた人がいます。
タンコブ、打撲、あざ、筋肉痛などは良くありますが、みんな社会人なので無理はしません。
Q 介護や他のスポーツに応用できますか?
A そういうのがやりたい人はそういう所へ行ってください。
習った人間がそれを何に生かすかはその人次第ですが、最初から別のことに応用することだけを考えている人は感心しません。あくまで武術そのものに興味がある人を対象としています。
基本的に現代の教育に物申す、とか、日本武道かくあるべし、みたいな話はしたくないし、する人を信用もしない。
が、先だって学校教育の正課として武道が取り入れられるという事に関してどう思うか聞かれたので、ちらりと書いておく。
まあ、私の中学、高校でも体育に柔道はすでにあったので、今さら始まった話でもないのだが。
武術、武道が意味を持つのは、本人の意志でそれを選択した時だけだ。
そこらへんの不良を連れてきて、無理矢理、武道をやらせれば礼儀や人間性が身に付くかといえば、結局、そこで身に付いた礼儀というのは、道場内で自分より強い力を持った人間にへつらう処世術でしかない。
逆に自分より下の人間が入ってきた時には、礼儀という制度を逆に使い、大手を振って下の者に威張り散らす存在にしかならない。
何しろ、体育教師の多くさえ、そうなっている。
生徒になめられないように威圧的な態度を取る。
こういった考え方がどれだけ「武」の精神とかけ離れている事だろうか。
武における礼とは、相手を命のやり取りをする、対等の存在として認めることから始まる。
たとえ、師範とその日入門した者の間の関係でも、向かい合って礼をするのはそういう事だ。
全身全霊を懸けて向かい合うという事だ。
殺しても殺されても悔いはないという覚悟の表われが、礼になる。
だが、生徒全てを「さん」付けで、敬語で指導している体育教師が何人いるだろうか。本当に一人の人間として対等に生徒を見ている教師が。
彼等に武の精神が無いなら、教わる側にそれが芽生える事もない。ただ、より高圧的に支配するための道具として武道が使われるだけだろう。
そして、生徒は武道を嫌いになっていくだろう。
だからどうしろという事もなく、ただそうなるだろうな、という予想。それだけ。
さる23日、都内某所において、ドラネコ商会の『ドキッ!男だらけの武術講習会300分スペシャル!』がひっそりと、しめやかに行われた。
体育館に入ると40人を超える超盛況。
全員整列して最敬礼にて迎えられる、ということはなく、大半は我々とは無関係な人々だ。空手とカポエイラの人が多かった。
この日は、新規参加の人、ノビ氏、Rうdy氏、穴姦氏、nomad氏(到着順)が参加した。
穴姦氏は終始、カポエイラの指導をしているアニメ声の女性に釘付けになっており、気もそぞろな様子であった。
この日は、投げ技、当身の返し、掴みの返し、座り技、寝技、防具をつけての打ち込み、指名制の乱取り、質問タイムといった流れ。その後、聖書の勉強会、体も環境もきれいになる奇跡の水の販売など。
nomad氏は途中から虚ろな目でブツブツと呟き出し、二時間目くらいで「俺は釈迦の生れ変わりだァーっ!」と叫んで飛び出し、そのまま失踪した。まあ、参加費は徴収したので問題なし。
最後は恒例の「ドラネコジャ〜ンプ!」のかけ声で、全員最高の笑顔で跳躍。そのまま止め絵でカメラが引いていって主題歌挿入。シティハンター的な演出で終了。
その後はわたみん家の商店街から離れた方、(通称・悪いわたみん家)で歓談。久々に行ったら横柄だった店長が入れ替わっており、良いわたみん家になっていた。
ここで、珍しく武術の話を長々と。新規参加の人を中心に、武術をやる動機、武術は本当に人格形成に有効か、など。
その後、終電のなくなった人二名を連れ、帰宅。
翌日はみんなですき焼きなどした。
Rうdyさん、御馳走さまでした。
巷には「胴体力」「呼吸力」「無足」「脱力」「身体意識」「なんば歩き」「インナーマッスル」など、なんだか、それさえやっていれば達人になれるようなキーワードが溢れている。
それらは、ある部分の説明にはなるかもしれないいし、ある面では有効かもしれない。
が、どんな鍛錬法でも、それで全てが説明できるとか、それさえやっていれば良いというようなものは、無い。
むしろ、そういった情報を取捨選択し、何には何が有効なのかを判断できず、盲目的にそれ一辺倒になるなら、そうした鍛錬法などは害にしかならない。
確かに真理、奥義というようなものは極めてシンプルなものだ。
しかし、それを説明する理論もシンプルかというと、それは逆だ。
シンプルすぎて、それ以上、分解できないもの程、説明は困難なのだ。言葉を重ねるほど、それは真実の持つシンプルさから遠ざかってしまう。
特に武術の場合は、極めて体感的なものが本質なので、「ガーッといってサクッて感じだよ」などの長嶋的アドバイスや、昔ながらの無言伝授というやり方でしか、本質を伝えられない。昔の人は理論が無いのではなく、理論化した途端に本質から離れるのを知っていたのだろう。
そういった意味で、「武術の本質を解き明かした理論」などのキャッチフレーズで世に出たものは、大抵、眉に唾をつけて聞くべきものだろう。
ドラネコ商会の技術には、オカルト的要素はない。
しかし、技術以前の問題で、「位、格」といったものが見えざる力で戦いを支配している事を否むことは出来ない。場を支配する存在感、存在力とでも言おうか。
麻雀でいう所の天運、地運のようなものだが、格、位が相手より勝っている場合、どんな単純な技でも掛かるし、当たる。
逆に技術で勝っていても、自信がない、掛かる気がしないという状態では、何をやっても裏目に出る。
そしてパニックを起こし、自滅する。
単純に強さ、といった場合、この存在力のことだと言っても良いくらい、重要な要素だろう。
動物のボスを決めたり、犬同士が格付けしあうように、同じ場に立った時、存在力で負けてしまうと、人間は戦う前から自分自身に負けの言い訳を考えはじめてしまう。これでは、百回やっても勝てない。
立つ、歩くといった事が中国武術では基礎とされてきたが、日本武術ではその一歩手前に、ただ「居る」という事の重要性がある。
そこに物のように置かれているのではなく、「居る」という状態をしっかりと作る事が、構えや、佇まいなどにも反映されるようでありたい。
気配を消したり、虚をつく事も、「実」が無ければ、意味がない。
今度は、型稽古の意味を考えてみる。
よく言われている事としては、技の崩れを修正したり、技の原理を学ぶモデルケースとしての稽古だ。
これはこれで間違いではないだろう。
また、反復することで、咄嗟の事態に無意識に対応できるような、その流儀の動き方を体に染込ませる意味もあるだろう。
だが、自由攻防で型そのものの動きが再現されることは稀である。
もちろん、原理として端々に生かされていたりはするし、時にはまさに型通りの展開になることもある。
しかし、無限に近い攻防の可能性の中で、型通りの対処を100%することは不可能に近い。
「型なんて役に立たない」と言う人の論拠というのは、大体、このことに関しての発言だと思う。この事に関する私の見解を書く。
狭い屋内、路地、歩道などで、実際に何かしらの悪意に襲われた場合。
こういった限定条件での対応というのは、攻防が続くというより、一瞬で決着する場合がほとんどである。
近年、有名な総合格闘家が、路上で素人に襲われ、顔面骨折した事件があった。
当然、その素人と格闘家が、リングの上でゴングを鳴らして戦えば、格闘家が圧倒的に勝つだろう。
しかし、その路上での一瞬、ワンシーンだけを切り抜いた場面では、実力を発揮しきることなく終わってしまった。これは、そういった状況での戦いを想定していない競技のもろさを象徴する事件だったと思う。
型稽古とは、こういった一瞬での対応を学ぶもの、というのが第一の意見だ。
組手の技術を剣術とするなら、型で学ぶのは居合いに当たるものではないだろうか。
もっとも、これも、ただ型を稽古中だけ外形のみを学んでいたのでは意味はない。
日常の中で、『もし、この人が襲ってきたら…』『もしこの場所で襲われたら…』と、自分で自分に問題を出し、それに型で学んだ公式を当てはめて解くという事を習慣として、はじめて意味を成すだろう。
次に、自由攻防中に型通りに動けないのは、相手に合わせてそれをしようとするからだという見解である。
悪い言葉だが、ボコボコにやっつけることを文字通り、「カタにはめる」という言い回しがある。
自分が型通りに動くのではなく、詰め将棋のように、必勝パターンへ相手を型にはめることが出来ないから、型通りにならないと思うのである。
そのためには、その場の空間、間合い、相手の心理までを含めて把握、支配する能力が必要だろう。
これらは、組手のみ、型のみで身に付けるのは難しい。
してみると、自由組手も、型稽古も、互いに独立したものではなく、二つで一つと言えるのではないか。
剣術と居合いが二つ合わせて刀法であるように。
自由組手、乱取りの意義は色々あると思う。
個々の技の使い方は反復練習でも掘り下げられるが、どのタイミングでどの技を使うかの、戦略、戦術の研鑽は組手の方が効率が良いし、相手との思考の読みあいや駆け引きも、自由攻防でしか得られない面があると思う。
しかし、最近思うのは、もっとさかのぼって、純粋に痛みや恐怖に直面した時、自分はどう対応するのかという事を見つめることではないかと思った。
怒る、怯える、冷静になる、パニックを起こす、被害者になる、加害者になる、生きる、死ぬ、殺す、許す…。
自分はどの立場に立つのか、何者なのか、何を覚悟して、何を選ぶのか?
痛みに立ち向かうというのは、そういう己の存在そのものへの問いに答えるという事だと思う。
人は、という一般論ではなく、少なくとも私は、いろいろな事を曖昧にしてきたし、自分で自分に色々言い訳をしてきた。しかし、この一点に関しては、明確に立場を決めておきたい。
それは腐っても武術家の看板を立てている者の努めだと思う。
最近、稽古が太極拳よりに傾いてきている。
太極拳では、推してふっ飛ばす、という行為をよく使うが、最近、そのありがたみが分かってきた。
こちらの当身に対して、亀のようにブロック一辺倒になった相手を崩す際。
逆に出鱈目な乱打戦をしかけてくる相手への効果は前から気付いていたが、最近気付いたのは、壁面を第二の地面として使うということだ。
投げる、という行為はそれ自体に必殺性を持たせることもあるが、主に動きを封じる、固定するという意味合いが強い。
しかし、立っている人間を無理矢理寝かすというのは、お互いに修練を積んだ人間同士だとなかなか難しい。
だが、壁に叩き付けるというのは、ある意味、簡易版の投げ技であり、その選択肢があると考えるだけで、かなり組手も三次元的、立体的になる。
日本武術は本来、居合い、柔術など、室内戦やコーナーワークを重視した技術がふんだんにあった。
だが、広い競技場での試合が主となると、場外への警告だけは残ったが、角に追いつめてどうするか、追いつめられた時どうするかの技術は、おざなりになっている気がする。
オクタゴンでの試合や、アルティメット大会で重要とされたのも、コーナーや金網の使い方だった事から考えても、壁や隅を利用した戦い方は、今後、課題となりそうだ。
ここは
ドラネコ商会の ブログだよ!
でも それも もう おしまい。 おまえさんたちも はやく おにげ!
ええと、以前借りていた掲示板にグーグルアドなんとかの魔手が伸びて、無関係な武術団体の広告が入り出したので、反逆の狼煙として、このブログを立ちあげました。
なので最初は、過去ログの保存場所として使うつもりです。これがホントの「武ログ」。なーんてな。ははは。死ねよ。
まあ、そのうち硬軟とりまぜて、武術にまつわるエトセトラを書いたりしていくと思います。興味のある方は「お気に入り」に入れておいてくださいね。
あと、html等について無知で、勘のみでテンプレートをいじったせいで、画面がおかしくなっている可能性があります。そういった場合は報告してください。もしくは目を細めて見たり、何か楽しい事を考えるなどして、紛らわして下さい。