2008

09.17

« ドラネコ・ブートキャンプ »

このところの記事二つくらいで、鍛錬法について書きましたが、これに関してもうちょっとだけ掘り下げてみたいと思います。

初めてうちに稽古に来た人とかに、時々、「どうやったらそういう力が出るんですか」とか、「普段、何か特別な鍛錬をしているんですか」とか聞かれる事がありますが、フフフ、ぶっちゃけ何一つしていないんだな、これが。
食って寝るのも稽古でゴワスとうそぶいて、のんべんだらりと怠惰な生活をしているだけです。あ、大麻はやってないですよ。

正確に言うと、太極拳を集中的にやっていた二年間以外は、ほとんど一人稽古はしていません。柔軟運動すらしません。たまに素振りをする程度ですが、これも鍛えるというより、左右の体の力を一つにまとめる感覚を確かめる程度なので、日課とかではないです。だから、近況で書いた二人一組での相対型鍛錬法が全部です。

私は骨格や、見た目ではまるっきり一般人だし、体脂肪率は30パーセント、階段を登ると息切れ、動悸に見舞われ、ダッシュは50メートルも出来ず、ジョギングも300メートルも出来ません。懸垂なんか無理だし、腹筋も十回くらいで限界です。
体力測定的には柔軟性と跳躍力は平均以上でしょうが、あとは平均以下だと思います。それで、結構鍛えている人にも驚かれるのは何故でしょう?
これを気の力ですとか、合気ですとか言うと金儲けが出来るし、実際、この手の力を気だとか合気だとか言ってしまっている団体もあるのですが、そんなに大した物ではありません。正直、戦う事だけに特化した場合、人を倒すのに必要な力はコンビニでレジを打つより低い体力しか使いません。

なんでそんなに一人稽古をしないかというと、やっていて寂しくなるから。
じゃなかった。ああ、まあそれもあるんですが、一体、何が効果があるのか分からないからですね。
昔はうさぎ跳びとかを学校で指導していたり、腹筋の時は足を伸ばしていたりが普通だった訳です。しかし、今ではこれは体によくないとされています。
トレーニングの世界では、有酸素運動だ、いや、高地トレーニングだ、加圧式だ、ヨガだ、チューブだ、深層筋だ、ケトルベルだ、水を飲め、いや、飲むな、食事は何回に分けろ、肩は冷やすな、いや、アイシングしろ、ゆるだ、ゆるむな、と、新しいものが出てくるたびに今までのやり方は間違っていたと言われる訳です。
これが何を意味しているかというと、つまり、今、最新のトレーニングもどうせ十年後には、間違っていると言われていて、誰も見向きもしていないものである、という事です。なんとか健康法、ダイエットの類いと一緒です。

もともと、一人でやる練習というのは、意外と上達を阻む罠のようなものがあります。
例えば、以前より、重いものが持てるようになったとか、回数がこなせるようになったとか、そういう数値化できる鍛錬は、いつのまにか、それが実際の動作の何を補強する鍛錬だったのかを離れ、記録を更新することに意識が移ってしまい、手段が目的になってしまいがちです。
大体、いっぱい鍛えているのに実際に組み合うと弱い、というタイプの人はこうなってしまっている人です。また、体の一部にのみ意識がいった鍛錬をしていると、全身の動きを協調させる妨げになる場合もあります。

次に、記録でなく、感覚的な意識でしか上達を計れない種類の鍛錬ですが、これは、何となく強くなってきた気がする勘違いの元になりやすいです。ある程のレベルになるまでは、常に上の人にチェックをしてもらわないと、変な癖がついたりして、マイナスになってしまう事もあります。
そして、結局のところ、鍛錬の結果が厳密には分からないのが、最大の問題です。
強くなったのが、鍛錬のおかげなのか、他の要素によるものなのかも分からないし、それがたまたま自分の体質にあっていたのか、万人に勧められるものなのか、長年続けた場合、どんな影響が出てくるのか、というのがグレーだからです。
そういう意味では、最新の運動理論ほど、むしろ統計的、臨床例的に効果が確認されていないので怪しいとさえ言えます。

じゃあ、全部駄目なのか、無駄なのかというと、それもまたそうではないとも思います。やり方や、やる側の意識によっては、効果はあるとも思います。特に組技の場合は、技の威力と直結した鍛錬も多いです。
たとえば、レスラーがブリッジとスクワットをする。これはもう、明確に動作が技と直結しているから、理解しやすいです。
反面、打撃系の闘技の基礎鍛錬は、抽象的なので、効果を明言できません。
ボクサーのロードワーク、縄跳び、パンチングボールなどは、みんなやっているからには、効果があるんだろうけれど、具体的にはどう役に立っているのかちょっと謎だし、縄跳び下手でロードワーク嫌いで世界チャンピオンになっちゃった人もいます。
空手に至っては、基本稽古や型などを無駄と言い切ってしまう競技者も多いです。

なので、とりあえず、二人一組でやる鍛錬は、相手の生の反応から効果が見てとれるのと、客観的なアドバイスがもらえるので、それを中心にやっています。そう考えると、相撲のぶつかり稽古みたいなものは、やはり良い鍛錬ではないかと思います。あと、大麻を吸ったりとか。

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    2008

09.03

« 立居振舞 »

まさかと思うけど一応、読めるように振仮名を振っておくと、表題は「たちいふるまい」ですな。日本的な動きの機能美、体動の根幹であります。

で、頭に「立」と「居」が来るってのが、なかなか難しいところで、ぼうっと突っ立ってたり座ってたりするだけじゃあ、なかなか武術にならない。
ただそこに居る事自体が、すでに技になっていないといけないっていうのが居合なり、柔術なりな訳です。
よく、時代劇などで、構えて睨み合っていたかと思うと一方が、「参りました。あなたには隙がありません」みたいな事を言って平伏するのがその端的な形です。

なんで、動かない事が大事なのかというと、動くとある程度は何でもごまかせるからですね。
避けるにせよ、攻めるにせよ、動き回っていれば、ある程度、低レベルの相手には通用してしまう。でも、それでよしとしてしまうと、それ以上の段階の相手には通じないのです。

動かないで避けたり、攻めたりするとなると、手足の末端を動かすのではなく、体幹を使えないといけない。そして、体幹が使えるようになってからの足運びや手さばきというのは、ただ手足を動かすのとは、支点、力点の位置も違うし、運動量も全然、違うわけです。
合気挙げが一番、実感できると思いますが、ただ、つかまれた手を筋力で押し上げたとしても、手の位置が変わるだけで相手は崩れるという事はないです。しかし、支点、力点を肘や肩より低く設定すれば、相手を動かせます。
突きなども、相手を下がらせる、貫通力のある突きは、腕の筋力では出せません。

柔術系の稽古は、それ自体が技の練習でもあるけれど、体幹の習熟度のチェックでもあります。同じ手順でやっても、手先でやればかからず、体が使えていればかかる。
投げられるほうも、ただ突っ立って踏んばるこらえ方なら投げられるが、相手の体幹の動きを感知でき、それに対応できる体であれば、投げられなくなる。

体幹が使えない人は、上半身は重いだけの「荷物」になってしまって、それを下半身の筋力で運ぶような動きになってしまっています。だから、押されればぐらつくし、動きは重いし、攻撃は手打ちで軽い。
しかし、体幹を主体に動ける人は、軽く動けて重く効かせることが出来ます。極端に言えば、それが高いレベルに達していれば、細かい技とかなくても、ただ押すだけ、引っ張るだけでも十分な威力を持ってしまうものです。色々な技は、その段階へ至るまでの方便とも言えます。

余談ですが、陸上の砲丸や円盤、槍投げの選手、野球のピッチャー、騎手、モトクロスバイクなどのライダー、土木建築業の人、ダンサー、ゴルファーなどは、その種目の性格上、この体幹の使い方の上手な人が多いです。なので、武術にも向いている気がしますね。

例:室伏、清原、猪木、馬場など。


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    2008

07.31

« 大嘘八百八町 »

このドリンクはレモン100個分のビタミンCが入っています。
だから、値段はレモン100個分。重量もレモンの100倍です。

もし、こう言っている人がいたらどうだろう。
アホなの? 死ぬの? と思うだろう。

では、

足の筋力は手の三倍。ゆえに回し蹴りは突きの三倍の威力!

これはどうか。
うん。当然、大嘘だ。

足は、屈伸運動などには強いが、膝を支点にしての曲げたり伸ばしたりは、そこまで得意ではない。
しかも、筋量=威力ではなく、上手な人ほど、足の筋肉ではなく、腰のキレや遠心力で蹴っている。大体、普通に想像してみて、思いっきり一発蹴られるのと、思いっきり三回殴られるのと、どっちが嫌かといえば、普通、殴られるほうだろう。俺は二回でも嫌だ。

そう、「威力」という話をする時、人は筋力やらフォームやら打ち方やらばかりを気にする。しかし、シュレーティンガーの猫の状態が観察者によって変化するように、打たれる対象の状態によって、「威力」も変化する。

つまり、「威力」というのは、絶対評価ではなく、相対評価だ、という事だ。

例えば、ぼうっと寝そべってテレビを見ている時に、腹に三歳児が飛び乗ってきたら、悶絶するが、来ると分かっていればボクサーのボディブローでも耐えられる。
これは、すごく当たり前の話なのだが、意外と見落としている人が多い。
例えば、あちこちでインチキ臭い武術を批判している割に、自分が一番、いんちき臭い某ライター兼武術家がこんな事を書いている。

 私は“潜在能力”と表現する時は、「本来もっていて出せる能力」という意味であって、超常能力のことではないんですよ。例えば、1tの重さのパンチなんて空手やボクシングを何年修行しても普通のやり方ではとても出せないですよね? でも、重心移動によって生じるエネルギーを乗せれば誰でも力学的にこれくらいは出せるようになる。

 発勁が“押す力”になりやすいとしても、普通、50〜80kgくらいある人間をポーンと数mも跳ね飛ばすというのは、軽く車がぶち当たったくらいの衝撃力は必要な筈ですよね。計算上、1tくらい誰でも出せるというのは、これを見ても解ります。


まとめると、こう言っている訳だ。


80キロの人間を数メートルふっ飛ばすのには、車でぶつかるくらいの衝撃力が必要である。
その衝撃は1トン以上なのである。ゆえに、私が80キロの人間を数メートルふっ飛ばせたなら、私の発勁は1トン以上なのである
、と。

さて、レモン、回し蹴りの先の二例から分かるように、この人の言っていることも頓珍漢なのがお分かりだろうか。

彼は、人が飛ぶ距離を、衝撃力の数値の大きさに比例すると思っている。
しかし、車高が低く、鼻先の長い外車などで人を轢いたら、前に人は飛ばず、ボンネットに乗り上げてフロントガラスに突っ込むかもしれない。これは飛距離で言えばマイナス1メートルくらいだから、衝撃もマイナスだろうか?

んな訳はない。
ゴルフなどのスポーツでは常識だが、球の中心より下を打つとバックスピンがかかり、上を打つと転がる球になる。当然、同じ衝撃力で打っても、飛距離は異なる。
人間は球体ではないが、同じように、その重心点の上を押すか、下を押すか、前足に重心がかかっているか、後ろ足か、接地面積、摩擦などで、押された時の飛距離が変わる。
人間をふっ飛ばすのに求められるのは、力の質とベクトルだ。
それによっては1トン以上の衝撃だろうが、車に跳ねられようが、前方向には飛ばない。
逆に、力の質とベクトルによっては、軽く押しても人は動く。

そして、人間は静物ではない。動物だ。
先にも書いたが、威力は受け手の状態によって変化する。
この際、「50〜80kg」という設定は、なんの意味も持たない。
崩れている80キロの男性を飛ばすのは、安定している40キロの女性を飛ばすより容易い。
もともと、足の裏の面積だけで接地して、二足歩行しているというだけで、自然界から見ると人間は曲芸のような事をしている訳で、押されれば飛ぶのは何キロでもあまり変わらない。水を80リットル入れたドラム缶だったら、車ならふっ飛ばせても、人間が打ってもほとんど動かないだろう。
合気挙げなどで、上から80キロの重さの人に抑えてもらって、それを挙げられたら、ウエイトトレーニングで80キロのバーベルが挙がるだろうか。
逆にウエイトトレーニングで80キロのバーベルが挙がる人は、80キロの重さの人を挙げられるだろうか。
少しでもやった事がある人なら、これがイコールではないことは良く知っているだろう。
車で人を飛ばす衝撃力が発勁と同質だというのは、それに類する妄語だ。

ゴルフボールを飛ばすにはゴルフのスイングが、バーベルを上げるには、ウエイトのテクニックが最適だろう。
そして、人間をふっ飛ばすには、武術が最適なのは元々、その為の技術なのだから当然だ。
車にはねられたぐらい人間が飛ばせるから、車なみに衝撃力があるのかといえば、そんな事はない。正確に測定したなら力積は、空手家やボクサーの当身とそこまでの差はないだろう。違うのは、力の質とベクトルであって衝撃力ではない。
むしろ、ほんの100キロくらいの衝撃なのに、車に跳ねられたぐらい飛ばされるから、凄いと考えるべきだろう。

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    2008

06.22

« フラダンスの犬 »

今日は縁あって、妻の友人の結婚式に出席してきたのだが、その時に新婦の通っていたフラダンス教室の人たちによる演舞があった。
露出の高いお姉さんによる踊りはなかなか、可愛らしいものであった。いわゆる一般的なイメージの中のフラダンスである。柔らかく、のどかな感じだ。

だが、その後で出てきた先生。
ぽっちゃりとした、マトリューシカのようなおばちゃん。
この人の踊りが凄かった。足さばきが目で追えない。そして、足運びと体移動に、全くタイムラグがない。動作と動作のつなぎ目がない。私の見たことのない異質な動きであった。

かつて、「旦那102芸」に、靴の文化は踵に、サンダルの文化は親指の付け根に重心を置き、裸足の文化はすり足が多いと書いたが、これは、どれにも当てはまらない。
強いていえば、土踏まずに重心があるように見えた。
それでいて、足を地に擦る事もなければ、足を上げて浮かす事もないホバー的なステップである。しかも、重心の高さが完全に一定で、頭は上下しない。

その歩み自体は、太極拳の「雲手」などにも通じるのだが、より、回転運動やうねりを加えた縦横無尽さがあった。
しかも、バレエなどの中心軸は、凄い回転力を持ってはいるが、誰かが突き飛ばせば、確実に転ぶのは目に見えている。気をぬくと、維持できなくなる中心軸だと思うが、この人のは、突き飛ばしても、出足を払っても、仕掛けた方が崩されると思うような安定感がある。まるで小型の竜巻だ。

全く驚かされた。世界は広いなあ。

本部御殿手に似ている気がする


男のフラは八極拳っぽい








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    2008

05.21

« 逃げるという難しさ »

よく、ネットで、「なにか良い護身術はないですか?」 という質問がされた時に、「戦わないのが一番。逃げるのが最高の護身術です」などと、したり顔で言う人間がいる。
まあ、モニター越しなんで、したり顔かどうかは確認できないのだが、多分、「俺、良いこと言った」とか思っているのだろう。

しかし、「逃げる」という事は、場合によっては戦うことより遥かに難しい。いざとなったら逃げれば良いと考えるのは、あまり想像力のない人間だと言っていいだろう。

まず、アキレスと亀ではないが、「逃げれば良い」というのは、絶対に追い付かれないのが前提になっている。
しかし、襲われて逃げなければいけないという事は、相手は自分より強大な相手なのだから、当然、脚力においても自分より上であると考えた方が良い。場合によっては、こちらが徒歩で、相手はバイクなどという場合さえある。
成人した後、全力疾走する機会というのは普通はあまり無いだろうが、思った以上に、人間は走れなくなっている。私などは50メートルも息が続かない。

そして、繁華街の真ん中や、見知った自分のテリトリーで襲撃されることもないのだから、土地勘もなく、どう逃げれば良いのかも分からない場所で襲われる可能性が高い。そうなったら、でたらめに逃げるのは危険である。

次に、追い掛けられるということは、パニックを引き起こしやすい。襲撃者が見えないからだ。
そうしたプレッシャーはたとえ、ジョギングなどで普段から走る習慣がある人でも、予想以上の疲労を招く。
そして追い付かれ、結局戦わざるを得ないとしたら、走った後は消耗しているので勝率は下がっている。また、逃げている間に、相手が携帯電話などで仲間を呼ぶ可能性がある。

最後に、女性の場合、スカートやヒールなどの服装的制限で、ろくに走れない場合がある。当然、男でも女性を連れている場合があり、その時、自分だけ逃げるわけにはいかない。
こうした事を考えると、必ずしも逃げるというのが最良の方法ではないことが浮かんでくる。
勿論、戦局によっては逃げたほうが良い場面もあるし、自分に都合の良い場所まで逃げてから戦うといった選択肢もある。
いずれにせよ、進むも退くも相応のリスクがあり、その選択を誤れば死を招くこともあることもあるのだ。安易にとにかく逃げれば良いという人は、少し考えた方が良いだろう。

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