逆もまた真なり、というが、一つの技術には二面的な意味がある、という事に気がついた。
まあ、あんまり大した発見ではない、というか、同じことを逆に言っているだけだが、2×3=6と6÷3=2が同じ事だ、ということ。
例えば、「倒れない立ち方」の稽古は、裏を返せば「どうすれば倒せるのか」の稽古になるし、「大きな力の出し方」の稽古は「相手に力を出させない方法」を学んでいるのと同じになる。
要は、自分が守るべき注意点を、相手に守らせない、破らせることで弱体化できるという事だ。
ごく当たり前の事だけれど、何故、「合気上げ」などが重要と言われているのかも、これがヒントになるのではないだろうか。
基本的に現代の教育に物申す、とか、日本武道かくあるべし、みたいな話はしたくないし、する人を信用もしない。
が、先だって学校教育の正課として武道が取り入れられるという事に関してどう思うか聞かれたので、ちらりと書いておく。
まあ、私の中学、高校でも体育に柔道はすでにあったので、今さら始まった話でもないのだが。
武術、武道が意味を持つのは、本人の意志でそれを選択した時だけだ。
そこらへんの不良を連れてきて、無理矢理、武道をやらせれば礼儀や人間性が身に付くかといえば、結局、そこで身に付いた礼儀というのは、道場内で自分より強い力を持った人間にへつらう処世術でしかない。
逆に自分より下の人間が入ってきた時には、礼儀という制度を逆に使い、大手を振って下の者に威張り散らす存在にしかならない。
何しろ、体育教師の多くさえ、そうなっている。
生徒になめられないように威圧的な態度を取る。
こういった考え方がどれだけ「武」の精神とかけ離れている事だろうか。
武における礼とは、相手を命のやり取りをする、対等の存在として認めることから始まる。
たとえ、師範とその日入門した者の間の関係でも、向かい合って礼をするのはそういう事だ。
全身全霊を懸けて向かい合うという事だ。
殺しても殺されても悔いはないという覚悟の表われが、礼になる。
だが、生徒全てを「さん」付けで、敬語で指導している体育教師が何人いるだろうか。本当に一人の人間として対等に生徒を見ている教師が。
彼等に武の精神が無いなら、教わる側にそれが芽生える事もない。ただ、より高圧的に支配するための道具として武道が使われるだけだろう。
そして、生徒は武道を嫌いになっていくだろう。
だからどうしろという事もなく、ただそうなるだろうな、という予想。それだけ。
巷には「胴体力」「呼吸力」「無足」「脱力」「身体意識」「なんば歩き」「インナーマッスル」など、なんだか、それさえやっていれば達人になれるようなキーワードが溢れている。
それらは、ある部分の説明にはなるかもしれないいし、ある面では有効かもしれない。
が、どんな鍛錬法でも、それで全てが説明できるとか、それさえやっていれば良いというようなものは、無い。
むしろ、そういった情報を取捨選択し、何には何が有効なのかを判断できず、盲目的にそれ一辺倒になるなら、そうした鍛錬法などは害にしかならない。
確かに真理、奥義というようなものは極めてシンプルなものだ。
しかし、それを説明する理論もシンプルかというと、それは逆だ。
シンプルすぎて、それ以上、分解できないもの程、説明は困難なのだ。言葉を重ねるほど、それは真実の持つシンプルさから遠ざかってしまう。
特に武術の場合は、極めて体感的なものが本質なので、「ガーッといってサクッて感じだよ」などの長嶋的アドバイスや、昔ながらの無言伝授というやり方でしか、本質を伝えられない。昔の人は理論が無いのではなく、理論化した途端に本質から離れるのを知っていたのだろう。
そういった意味で、「武術の本質を解き明かした理論」などのキャッチフレーズで世に出たものは、大抵、眉に唾をつけて聞くべきものだろう。
ドラネコ商会の技術には、オカルト的要素はない。
しかし、技術以前の問題で、「位、格」といったものが見えざる力で戦いを支配している事を否むことは出来ない。場を支配する存在感、存在力とでも言おうか。
麻雀でいう所の天運、地運のようなものだが、格、位が相手より勝っている場合、どんな単純な技でも掛かるし、当たる。
逆に技術で勝っていても、自信がない、掛かる気がしないという状態では、何をやっても裏目に出る。
そしてパニックを起こし、自滅する。
単純に強さ、といった場合、この存在力のことだと言っても良いくらい、重要な要素だろう。
動物のボスを決めたり、犬同士が格付けしあうように、同じ場に立った時、存在力で負けてしまうと、人間は戦う前から自分自身に負けの言い訳を考えはじめてしまう。これでは、百回やっても勝てない。
立つ、歩くといった事が中国武術では基礎とされてきたが、日本武術ではその一歩手前に、ただ「居る」という事の重要性がある。
そこに物のように置かれているのではなく、「居る」という状態をしっかりと作る事が、構えや、佇まいなどにも反映されるようでありたい。
気配を消したり、虚をつく事も、「実」が無ければ、意味がない。
今度は、型稽古の意味を考えてみる。
よく言われている事としては、技の崩れを修正したり、技の原理を学ぶモデルケースとしての稽古だ。
これはこれで間違いではないだろう。
また、反復することで、咄嗟の事態に無意識に対応できるような、その流儀の動き方を体に染込ませる意味もあるだろう。
だが、自由攻防で型そのものの動きが再現されることは稀である。
もちろん、原理として端々に生かされていたりはするし、時にはまさに型通りの展開になることもある。
しかし、無限に近い攻防の可能性の中で、型通りの対処を100%することは不可能に近い。
「型なんて役に立たない」と言う人の論拠というのは、大体、このことに関しての発言だと思う。この事に関する私の見解を書く。
狭い屋内、路地、歩道などで、実際に何かしらの悪意に襲われた場合。
こういった限定条件での対応というのは、攻防が続くというより、一瞬で決着する場合がほとんどである。
近年、有名な総合格闘家が、路上で素人に襲われ、顔面骨折した事件があった。
当然、その素人と格闘家が、リングの上でゴングを鳴らして戦えば、格闘家が圧倒的に勝つだろう。
しかし、その路上での一瞬、ワンシーンだけを切り抜いた場面では、実力を発揮しきることなく終わってしまった。これは、そういった状況での戦いを想定していない競技のもろさを象徴する事件だったと思う。
型稽古とは、こういった一瞬での対応を学ぶもの、というのが第一の意見だ。
組手の技術を剣術とするなら、型で学ぶのは居合いに当たるものではないだろうか。
もっとも、これも、ただ型を稽古中だけ外形のみを学んでいたのでは意味はない。
日常の中で、『もし、この人が襲ってきたら…』『もしこの場所で襲われたら…』と、自分で自分に問題を出し、それに型で学んだ公式を当てはめて解くという事を習慣として、はじめて意味を成すだろう。
次に、自由攻防中に型通りに動けないのは、相手に合わせてそれをしようとするからだという見解である。
悪い言葉だが、ボコボコにやっつけることを文字通り、「カタにはめる」という言い回しがある。
自分が型通りに動くのではなく、詰め将棋のように、必勝パターンへ相手を型にはめることが出来ないから、型通りにならないと思うのである。
そのためには、その場の空間、間合い、相手の心理までを含めて把握、支配する能力が必要だろう。
これらは、組手のみ、型のみで身に付けるのは難しい。
してみると、自由組手も、型稽古も、互いに独立したものではなく、二つで一つと言えるのではないか。
剣術と居合いが二つ合わせて刀法であるように。