2008
« 真剣30代愁嘆場 »
今回は、カテゴリが「ゆかいな稽古風景」ですが、特に愉快な話ではないですよ。
昨日のドラネコ商会の方の稽古のこと。散発的に過去二度ほど来たB氏と、たまにビジター的に参加する総合格闘技の人、Rうdyさんというメンツ。
いつも通り、鍛錬法、型、約束稽古、組手ときた後、B氏がゴムナイフを使って対刃訓練的なスパーをしたいと申し出た。B氏がナイフで我々が素手である。
で、私とRうdyさんが相手をしたが、その当て方が強すぎるというので、フルコンタクトでなく、手心を加えてほしいと言われた。が私はそれを断った。
ドラネコ商会で武器術をやる際は、寸止めか、型稽古のどちらかだが、片方が無手で片方が武器の場合は、普段の組手のルールにせざるを得ない。
というのも、無手側が武器側に手加減をするというのは、事実上不可能だからだ。
棒や剣と違い、短刀は目に見えている部分はほとんど刃しかない。柄をつかんで取り上げるという事は出来ない。
と、言うことは、武器を叩き落とすか、腕を極めて離させるか、一撃で行動不能にさせるかしなければいけない事になる。これは、どれも寸止めやライトコンタクトでは不可能な事だ。
そもそも根本的に、刃物を持った相手と対等に戦うには、こちらの攻撃も当たればただでは済まない、というプレッシャーを与えて、気迫的にはむしろ押していないといけない。
当たってもどうと言うことはないと思われたなら、ヤクザ映画のように短刀を腰だめにして、相打ち覚悟で体ごと突っ込んできたらそれまでだ。
例えば、最初の一本目。
開始とほぼ同時に私は相手の武器を持つ手を蹴り飛ばして武器を落とさせたが、これを軽く蹴ったら、武器は落ちない。無手側はそのまま斬られるだけである。
次の一本は、数カ所斬られたが、手首を抑えて、首相撲から膝。投げて馬乗りになり、相手の刃で逆に首を斬りつけた。これも、膝蹴りが弱かったら相手の動きは止まらず、投げも決まらないから刺されていただろう。
逆に、刃物を持っている側も、こちらに捕獲され、武器を持った側の手を掴まれた際、当身を使わなければ脱出できない。これを寸止めでやっていたら、今のは先に俺が触った、いや、本来だったらその前のローキックでお前は動けなくなっていたはずだ、というような水掛け論になってしまう。そうなるともはや実際の戦闘の模擬ではない。
なので、無手と武器でやって無手側が手加減をするのは無理です、とB氏に伝えた。
しかし、彼は、実際にはゴムナイフは当たっても死ぬ訳ではないのだから、そちらも軽くで良いのではないか、実際、そういう稽古をしている団体もあるし、そんな稽古でもしないよりはマシなのではないか、と言った。
まあ、よそはよそ、うちはうちなのだが、これは一理ある。
が、それが本当にしないよりマシなのか、むしろ変な勘違いや油断癖がついて悪影響があるのかは分からない。
例えば、私はシャドートレーニングをほとんどしない。なんとなれば、大体の場合、実際に襲ってくる相手は初見の敵で、どう動くかは全く予想できないからだ。シャドーで華麗なフットワークやコンビネーションをいくら出来ても、実際には使わないのなら意味がない。現実の戦いと乖離した稽古はオナニーでしかない。
そして、正直、「ゴムなんだから当たっても死ぬ訳ではないと思いながら、手加減しながら当てっこをする」という稽古を何百回積み重ねても、実際に刃物を出されたら通用しないだろうと思う。それは技術以前に覚悟の問題だ。
ゴムだろうが竹刀だろうが、「真剣勝負」だと思って、当たったら死ぬという「必死さ」でやるから意味があるのだし、稽古になる。
まあ、そんな話をつらつらとしていたのだが、ほぼ平行線でらちがあかなかった。
じゃあ試しにこちら側がナイフを使うから、そちらはライトコンタクトで防げるかやってみようと言うと、それは出来ないという。
B氏に対して稽古開始時から、なぜか半ギレ気味だったRうdyさんは、「そもそも、何で習いに来ている側が武器側をやるのか? それは結局、自分の上達じゃなくて単に人の実力を試したいだけでないのか」という事を言った。
確かに、毎回思っていたが、B氏にはちょっと勘違いした自信というか、挑戦的な態度があった。
実はB氏は過去にも、功朗法とか、クラブマガとか、その辺りの団体に行ってきたらしく、そこのインストラクターにも自分のナイフ術を試したが、全然避けられなかった、という話をかつて、私に言っていたのだ。
思うに、そこのインストラクターも、実際に当てればB氏を倒せたのかもしれない。が、それこそ、手加減をしてくれたから勝てたのを、B氏は所詮そんなものか、と勘違いしたのではないだろうか。
別に、教える側としては実力を納得した上で来ていただきたいので、試されるのは構わないが、人を試すというのには相応のリスクが必要だと思うし、今回はそれが痛みという形で戻ってきたのはしょうがないんじゃないかと思う。
当たった、当たらない、勝った負けたではなく、うちでやっているのは武術で、生きるか死ぬかなのだから、試せばそうなるしかない。
また、うちで、よその団体についてそういう事を言ったということは、もし、私も寸止めやライトコンタクトで相手をしていたなら、B氏は今度、よそに行った時に、「ドラネコ商会の人は自分のナイフをよけられなかった」という話をするだろう。だから、明確な形で決着したというのもある。
だから、そもそもの彼の口振りでは、そうした形式化した稽古をやっていても意味がない、というような事を主張していたはずに思ったのだが、今回は形式的な稽古にしてくれ、かつ自由攻防で自分がナイフ側オンリーで、という方に宗旨が変わっていて、ちょっとうちでは対応しきれなかった。
そういう稽古がしたいなら、そういう会へ行って下さい、としか言えない。まあしょうがない。
これは個人と個人の問題、というより、武術を教える形式、という事についてけっこう重要な問題で、どこに行ってもある程度ついて回る問題だと思う。
空手などの歴史も、こうした葛藤の繰り返しだろう。寸止めでは、威力が分からないかもしれない。フルコンでは顔面攻防が無いだろう、じゃあグローブとヘッドギアをつければどうか、今度は素手の間合いや技術から乖離してしまったし投げが使えない、という風に、より実際の戦いに近い形式を模索していっても、どこかで制約を受けてしまう。
それは、どれが正しい、ということもなく、色んな考え方と方法論がある、という事だろう。だからB氏と私、どちらが正しい、間違っているという事もなく、結局は自分の命を守るのは自分なのだから、自分が信じた道を行くしかない。
しかし、今回がベストの対応だったか、というのは分からない。どうなんだろうな。まあ、元から言っているけれど、万人に勧められるタイプの会ではないので、こういう事もある。
昨日のドラネコ商会の方の稽古のこと。散発的に過去二度ほど来たB氏と、たまにビジター的に参加する総合格闘技の人、Rうdyさんというメンツ。
いつも通り、鍛錬法、型、約束稽古、組手ときた後、B氏がゴムナイフを使って対刃訓練的なスパーをしたいと申し出た。B氏がナイフで我々が素手である。
で、私とRうdyさんが相手をしたが、その当て方が強すぎるというので、フルコンタクトでなく、手心を加えてほしいと言われた。が私はそれを断った。
ドラネコ商会で武器術をやる際は、寸止めか、型稽古のどちらかだが、片方が無手で片方が武器の場合は、普段の組手のルールにせざるを得ない。
というのも、無手側が武器側に手加減をするというのは、事実上不可能だからだ。
棒や剣と違い、短刀は目に見えている部分はほとんど刃しかない。柄をつかんで取り上げるという事は出来ない。
と、言うことは、武器を叩き落とすか、腕を極めて離させるか、一撃で行動不能にさせるかしなければいけない事になる。これは、どれも寸止めやライトコンタクトでは不可能な事だ。
そもそも根本的に、刃物を持った相手と対等に戦うには、こちらの攻撃も当たればただでは済まない、というプレッシャーを与えて、気迫的にはむしろ押していないといけない。
当たってもどうと言うことはないと思われたなら、ヤクザ映画のように短刀を腰だめにして、相打ち覚悟で体ごと突っ込んできたらそれまでだ。
例えば、最初の一本目。
開始とほぼ同時に私は相手の武器を持つ手を蹴り飛ばして武器を落とさせたが、これを軽く蹴ったら、武器は落ちない。無手側はそのまま斬られるだけである。
次の一本は、数カ所斬られたが、手首を抑えて、首相撲から膝。投げて馬乗りになり、相手の刃で逆に首を斬りつけた。これも、膝蹴りが弱かったら相手の動きは止まらず、投げも決まらないから刺されていただろう。
逆に、刃物を持っている側も、こちらに捕獲され、武器を持った側の手を掴まれた際、当身を使わなければ脱出できない。これを寸止めでやっていたら、今のは先に俺が触った、いや、本来だったらその前のローキックでお前は動けなくなっていたはずだ、というような水掛け論になってしまう。そうなるともはや実際の戦闘の模擬ではない。
なので、無手と武器でやって無手側が手加減をするのは無理です、とB氏に伝えた。
しかし、彼は、実際にはゴムナイフは当たっても死ぬ訳ではないのだから、そちらも軽くで良いのではないか、実際、そういう稽古をしている団体もあるし、そんな稽古でもしないよりはマシなのではないか、と言った。
まあ、よそはよそ、うちはうちなのだが、これは一理ある。
が、それが本当にしないよりマシなのか、むしろ変な勘違いや油断癖がついて悪影響があるのかは分からない。
例えば、私はシャドートレーニングをほとんどしない。なんとなれば、大体の場合、実際に襲ってくる相手は初見の敵で、どう動くかは全く予想できないからだ。シャドーで華麗なフットワークやコンビネーションをいくら出来ても、実際には使わないのなら意味がない。現実の戦いと乖離した稽古はオナニーでしかない。
そして、正直、「ゴムなんだから当たっても死ぬ訳ではないと思いながら、手加減しながら当てっこをする」という稽古を何百回積み重ねても、実際に刃物を出されたら通用しないだろうと思う。それは技術以前に覚悟の問題だ。
ゴムだろうが竹刀だろうが、「真剣勝負」だと思って、当たったら死ぬという「必死さ」でやるから意味があるのだし、稽古になる。
まあ、そんな話をつらつらとしていたのだが、ほぼ平行線でらちがあかなかった。
じゃあ試しにこちら側がナイフを使うから、そちらはライトコンタクトで防げるかやってみようと言うと、それは出来ないという。
B氏に対して稽古開始時から、なぜか半ギレ気味だったRうdyさんは、「そもそも、何で習いに来ている側が武器側をやるのか? それは結局、自分の上達じゃなくて単に人の実力を試したいだけでないのか」という事を言った。
確かに、毎回思っていたが、B氏にはちょっと勘違いした自信というか、挑戦的な態度があった。
実はB氏は過去にも、功朗法とか、クラブマガとか、その辺りの団体に行ってきたらしく、そこのインストラクターにも自分のナイフ術を試したが、全然避けられなかった、という話をかつて、私に言っていたのだ。
思うに、そこのインストラクターも、実際に当てればB氏を倒せたのかもしれない。が、それこそ、手加減をしてくれたから勝てたのを、B氏は所詮そんなものか、と勘違いしたのではないだろうか。
別に、教える側としては実力を納得した上で来ていただきたいので、試されるのは構わないが、人を試すというのには相応のリスクが必要だと思うし、今回はそれが痛みという形で戻ってきたのはしょうがないんじゃないかと思う。
当たった、当たらない、勝った負けたではなく、うちでやっているのは武術で、生きるか死ぬかなのだから、試せばそうなるしかない。
また、うちで、よその団体についてそういう事を言ったということは、もし、私も寸止めやライトコンタクトで相手をしていたなら、B氏は今度、よそに行った時に、「ドラネコ商会の人は自分のナイフをよけられなかった」という話をするだろう。だから、明確な形で決着したというのもある。
だから、そもそもの彼の口振りでは、そうした形式化した稽古をやっていても意味がない、というような事を主張していたはずに思ったのだが、今回は形式的な稽古にしてくれ、かつ自由攻防で自分がナイフ側オンリーで、という方に宗旨が変わっていて、ちょっとうちでは対応しきれなかった。
そういう稽古がしたいなら、そういう会へ行って下さい、としか言えない。まあしょうがない。
これは個人と個人の問題、というより、武術を教える形式、という事についてけっこう重要な問題で、どこに行ってもある程度ついて回る問題だと思う。
空手などの歴史も、こうした葛藤の繰り返しだろう。寸止めでは、威力が分からないかもしれない。フルコンでは顔面攻防が無いだろう、じゃあグローブとヘッドギアをつければどうか、今度は素手の間合いや技術から乖離してしまったし投げが使えない、という風に、より実際の戦いに近い形式を模索していっても、どこかで制約を受けてしまう。
それは、どれが正しい、ということもなく、色んな考え方と方法論がある、という事だろう。だからB氏と私、どちらが正しい、間違っているという事もなく、結局は自分の命を守るのは自分なのだから、自分が信じた道を行くしかない。
しかし、今回がベストの対応だったか、というのは分からない。どうなんだろうな。まあ、元から言っているけれど、万人に勧められるタイプの会ではないので、こういう事もある。


