2008

09.09

« 徒然草 »

健康。健康。
うん、健康は大事だよね。ホント。もう、健康命! 健康の為なら死んでもいいね。

まあ、それは冗談ですが、最近、本当に食事とか生活習慣とか、色々気を配らないと体調が維持できなくなってきています。
ここ半年くらいでかかった病気といえば、尺骨神経痛、食道裂孔ヘルニア、帯状疱疹と、若さのかけらもないものばかり。どれも地味につらかったので、健康の大事さを噛み締めております。暴飲暴食、無頼の月日、今はただ悔ゆるのみ。

で、武術と健康についてですが、基本的には無関係なスタンスでやってきました。
39度の熱が出ていても稽古に行って、「熱があるからって敵がいれば戦うしかないんだぜ。真の武術は体調にパフォーマンスが左右されないんだぜ。ヒャッハー!」とか言って、翌日、三途の川のほとりに佇んでいたりした訳です。
確かに、どんな状態でも戦える技術は必要です。しかし、長いスタンスでみれば、常に万全の備えをしておくのも武人のたしなみとしては必要なんじゃねえの? と考えが日和ってきました。

なので、武術的に見て健康というのは、快眠、快食、快便といった一般的な健康から一歩踏み込んで、快戦、戦えるコンディションであると定義したいと思います。
野生生物にとって、爪や牙、羽など、戦闘に必要な機能を失うことは死を意味するのです。

すると、どうでしょう。この「戦える」という要件を足すと、結構、世間の人の多くが「不健康」に分類されるようになってしまいます。じゃあ俺と世間とどっちが間違っているかと言えば、客観的に見て世間が間違っている。
だって、健康の為にジョギングとかしてて、通り魔に刺されたら死んじゃうじゃない。同じ時間、稽古してれば生き延びるかもしれないじゃない。

教訓》 白桃会に入ろう。入れ。


……あ、終わっちゃった。いや、今回はそういう勧誘とかじゃないんですよ。
まあ、そういう点、太極拳とかよく出来ているな、というのは、護身として考えた時に、外敵だけでなく、内敵、体の中の敵にも意味があることですね。

太極拳を毎晩やっていた頃は、真冬に半袖でも体が熱かったという話を以前、クロニクルに書きましたが、本当に、汗をかくにしても、疲れるにしても、その質が違う。心地よい汗と疲れなんですね。温泉に入ったみたいな。多分、脳内麻薬とかも出てるんでしょう。

一般的な鍛錬は、同じ箇所に同じ間隔で負荷をかけます。
筋肉がつく仕組みの超回復というのも、一回壊して再構築させている訳ですが、やはり一回壊しているということは、あまり体に良くない訳で、鍛え過ぎた人は短命な傾向にあります。
しかし、感覚的な感想で言うと、太極拳は常に力のかかっている部位が移動していく為に、筋肉の量は変わらないけど、質が変換されていく。
しかも、その時、普段なら慣性や惰性で流してしまうような動作をあえて意識的にゆっくり行うことで、神経のシナプスが新規にどんどん生成されている感じがする。多分、これを指して、勁道と呼んだりしているのではないでしょうか。
そのせいか、すごく時間の感覚が引き延ばされた感じになったりします。
これによって、相手の攻撃がコマ落としに見えたり、動きと動きの間の隙が見えるようになったりもします。ずっとやっていれば、感覚的には不老不死になるかもしれません。

不老不死は冗談にせよ、こうしたトレーニングは、単純な筋肉疲労や、免疫、抵抗力の低下などがありません。むしろ、意識を向けていなかった部位を動かすことで、全身の活性化、基本性能の底上げがされます。むしろやればやるほど力がみなぎるぜ! という感じです。
そして、それだけに武技としても、鍛錬が苦痛にならず長時間行えるので、結果的には強くなるにも近道だと思います。一日2時間、三か月くらい稽古すれば、けっこう劇的に見た目から変化しますよ。お試しあれ。

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    2008

08.20

« 必殺と不殺 »

私の武術の出発点は、「強くなりたい」というような甘い願望ではなく、「強くならなければ生きられない」という、強迫観念から始まっている。

それだけに、今でも、自分が生きるための殺人、という行為は、否定できない。殺さなければ殺される状況であれば、加害者になることを選ぶ。
しかし、その思想を肯定するという事は、相手も同じ事を考えていたとしたら、それも又、認めることになる。してみると、殺す覚悟は、殺される覚悟とセットなのである。

ここが多分、全ての武術の出発点であり、同時に最大の矛盾なのだが、本来、生き延びる手段である武術を学ぶこと、それによって殺人を肯定することは、同時に自分を殺そうとする人間の存在も認めることになり、自己矛盾が起きる。殺す者は殺されるのだ。

武の道が、「礼に始まり、礼に終わる」というのは、ここに端を発しているのだろう。この言葉の意味が大きく分けて二つあると思う。

一つには、お互い、まだ生きたいが、どちらかが死ななければならないなら、恨みっこ無しでやろう、と、相手を自分と対等の存在であると認める事。これが礼の持つ意味の一面だろう。試合の前の礼などの意味はこちらが近い。

そして、もう一つには、常に臨戦態勢で隙を見せないが、そちらが襲ってこないなら、こちらは何もしませんよ、という日常における礼法である。共存共栄の努力とも言える。
これは、その時点ですでに身を守る為の実用的な護身術であり、型そのものであると言っていい。
ちょっと考えれば分かるが、無駄に歩く度に人にぶつかったり、飲み屋で知らない人間の頭にビールをこぼすようなトラブルメーカーでは、護身として、技以前の問題だ。
そうした社交術が、究極的には最大の護身術でもある所から、「礼に始まり、礼に終わる」とも言える。
(まあ、この二つはリンクしており、言い方を変えるなら、礼の本質は、相手の存在を全霊でもって認め、いつ死んでも悔いのない関わり方をする事、とも言える。)

そう考えていくと、おのずと、「生き延びる為の武術」という発想は、次第に不殺という方向に進んでいく。これは、理想論ではなく、現実的な問題である。
たとえ相手を殺しても、その周りの人間全てを殺しきることは出来ない。ならば、必ず、誰か関係のあった人間に復讐される。どんなに達人であっても、夜中に家ごと燃やされれば死ぬしかないのだ。
剣術という技術の終着が無刀の技であったり、無手の技術が追求されてきたのも、殺さない事が、最終的には自分の身を守るからでもある。

同じような意味で、養神館合気道の塩田剛三は、「合気道の真髄は、自分を殺しにきた相手と友達になることだ」と言っている。

これは、技法的にも解釈できるし、心の問題とも取れるが、よく考えると、すさまじい自負と、境地を指しての言葉だ。
剣術における無刀取りが、不可能に近いことからも分かるように、実際に殺意を持った相手が刃物などで襲ってきた際に、その相手の身を気遣いながら倒すというのは、隔絶したレベルの強さが前提になった言葉だからだ。
しかし、武術に実用性を求めるならば、最終的には、そのレベルでの強さを目指さなくてはならない。

だが、この言葉は一人歩きというか、後半の「友達になること」がクローズアップされすぎ、みんな仲良くしましょうとか、争ってはいけません、というような感じで伝えられている。
私が「武道」ではなく、「武術」にこだわるのは、こうした言葉が単なるお題目でなく、実現化するための方法論、技術があるからだ。
「武道」は精神性を重んじる結果、技術へのこだわりを軽視してきた。
しかし、本来、不殺の境地、というのは徹底した現実的な殺人術を学び尽くした先にのみ、存在すると私は思っている。


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    2008

08.18

« アリとキリギリス »

昔、あるところに働き者のアリと、キリギリスの武術家がいました。

アリは、「プッ! 武術とか今時ありえないし。そんな事やってる暇があったらせっせとお金を稼ぎますから! 何かあったら警察を呼ぶだけですから!」と言って、キリギリスを馬鹿にして、仕事をし続けていました。

キリギリスは、「どうしてみんな、自分の命に対して真剣に不安を持たないんだろう」と思いつつ、稽古を続けていました。


ある日、同じ電車にアリとキリギリスが居合わせました。
そして、その日に限って、その電車には凶悪なオオクワガタも乗ってきたのです。

「キャー、誰か助けて! 犯されて殺されるーっ!」

アゲハチョウの娘が、オオクワガタにつかまっていました。

アリは、キリギリスに、「おい、お前は武術家なんだろう! 助けてやれよ!」と言いました。

キリギリスは、「あの娘には以前、最近は物騒だから武術でも習ったらどうかと言った。だが、あの娘は、えぇ〜、痛いのとか恐いしぃ〜、コスメとかドラマとか恋愛とかやること沢山あるから無理だしぃ〜、と言ったのだ。」と言いました。


アゲハチョウは犯されて殺されました。


次に、アリがオオクワガタのハサミにつかまりました。

「おい! 頼むから助けてくれ! 金ならやるから!」

「どうして、他人が自分の為に命を投げ出して戦ってくれるなんて思っているんだ? 自分の事は自分でなんとかするのが当たり前だろう? 金で命が買えるとでも思っているのか」


アリも死にました。


最後に残ったキリギリスにも、オオクワガタは襲ってきましたが、キリギリスはそれを難なく倒し、飄然と立ち去りました。


その年の冬、キリギリスは食べるものが無くて死にました。
キリギリスの伝えていた武術は絶え、アリたちは、時折現れるオオクワガタのニュースに脅えながらも、自分だけはきっと大丈夫だと思いながら、また変わらぬ日常に戻っていきましたとさ。とっぴんぱらりのぷう。


教訓》 白桃会に入ろう。入れ。


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    2008

07.12

« 神骨拳法 »

骨には、神秘の力がある。

ふう。

そんなもん、ねえ。


いや、唐突な切り出し方でしたな。失敬、失敬。
何の話かというとですね、強くなりたいぜ、俺は体を鍛えるぜ、と思っている人は割と、口を開けばマッスル、マッスル、やれ伸筋だ、深層筋だ、オナ禁だと、筋肉にばかり目を向けていますが、あんた達、誰のおかげで地べたに足つけて立ってられるんだい?! 全部、骨格様のおかげだろうが! というお話です。

といっても、骨って鍛えようがないじゃん、牛乳と小魚でも食べるしかないじゃん、と思うでしょう? だったら一生、牛乳と小魚でも食ってろよ! 実際、それしかねえよ!
ええ、骨は鍛えるという事はありません。しかし、もっと有効活用する事が出来るのです。

骨格、というものは、実に偉大な性能を持っています。物を持ち上げる、運ぶというような事に関しては、筋力を主体にするより、姿勢の安定に努めたほうが、楽に出来ます。
インドだか、アフリカだかの女性などが、頭頂部に水瓶などを乗せて移動するのを見たことがあると思いますが、彼女らは首の筋肉がムキムキでしょうか? いいえ、姿勢が安定していれば、背骨が支えるから、そこまでの筋力は必要ないのです。
昔の行商や籠かきなどの人もそうです。現代でも、引っ越しや土木作業の現場などで、小柄なおじいちゃんが、驚くほど重いものをひょいっと動かすのを見て感嘆することがあると思います。これがいわゆる、コツ(骨)を使うってやつです。

この、骨格を有効利用する、という単純な事。
しかし、それを本当に徹底的につきつめているかどうかは、実に大きな差になります。
つまるところ、当身であれ、投げ技であれ、土台になる骨格に歪みや崩れがあれば、曲がった銃身から弾を撃ったり、傾いたクレーン車で物を釣り上げようとしているのと同じだからです。

そして、逆に言えば、相手の骨格を崩す事で、相手を弱体化できます。
大体、少し組み合ってみると分かるのですが、人間には二通りのタイプがあります。
投げられまい、打たれまいとして、ガチガチに体を突っ張る人と、来る力を柔らかくいなそうとする人です。
前者は、その堅さを逆に利用して、骨格を固定する事で弱体化できます。
たとえば、スキー靴をはいた事のある人は、そのまま歩こうとして非常に不自由を感じた事があると思います。この時、誰かがふざけて押し飛ばしたら、転んでしまうでしょう。
足首一か所の関節が固定されただけで、ここまで不安定になるのです。
後者は、逆に関節を可動させる事で弱体化できます。
関節の結合部へ回転をかける事で、体を支えられない位置まで、重心をずらすのです。
この、固定化と変形の二法を使い分けたり、連係する事で、いろいろな効果を生み出せます。私の技術が、拳法と柔術の両面に跨がっているのは、拳法から、固定化と反発の理を、柔術から、変形と同化の理を取り入れる為でもあります。
そして、筋肉の力は、その筋肉に関連する特定の動作しか強化しませんが、骨の操作法、コツは、あらゆる動作に応用が効くという利点があるのです。

武術の世界は、いろいろなワードが埋もれていて、それをあちこち掘り返しては、みんな分かったような気になったり、すぐ次を知りたがったりしがちですが、広く浅く掘っても、大抵、小さな発見しかありません。
簡単そうなテーマにみえることでも、山芋を折らずに丹念に掘るように、最後まで進んでいくと、意外に大きな根っこにつながっている事もあります。打突でも、押し引きでも、受けでも型でも歩法でも、ベターな骨格と姿勢は何かを考えてみると、一段、違ったものが見えてくるかもしれません。

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    2008

06.12

« 秘伝、奥義、極意 »

まあ、当たり前の事だけれど、たとえば力士には突っ張りや押し出しが得意なタイプと、まわしを取って投げるのが得意なタイプがいる。
ボクサーには、ファイター型と、アウトボクシングをするテクニシャン型がいる。
もし、こうした人達が、元々、不得手な戦法を無理に使おうとしたらどうだろう?
恐らく、以前より結果は思わしくなくなるだろう。

ここまでは、多分、みんな、ふんふんと頷きながら聞いている事と思う。
しかし、いわゆる武術マニア的な人はこう言うのだ。
「なるほど、なるほど。ところで合気とか発勁とかってどうやれば良いんですか?」、と。

お、ま、え、の、こ、と、だーっ!

いや、今のドラネコ商会には、そういうタイプの人はいないから良いんですけどね。
まあ、彦麻呂君とか、そういうタイプの人ですね。

キリンはキリンなりに理由があって首が長くなり、象は象の事情があって鼻が長くなる。
必然。そう、必然性が大事なんである。

たとえば、私は反射神経が良くないし、体も大きくない。
なので、当身を一々、見てから避けるのは無理だ。
それに、完全に組み付かれてしまっても、力負けしてしまう。
では、間合いを保つために、両手を最初から前に出して構えていたほうが良かろう。
そうなると、腕を伸ばしたまま、使える当身や投げ技が必要だろう。
じゃあ、寸勁のような技法も必要だ。
と、一貫性のある思考の流れの中で、必要だったら、それを習得すれば良いのであって、なんでも取ってつけた呪いのように、奥義だ、秘伝だ、というようなものを単独で習得しようとしても、それを流れの中で実際に生かす事は出来ない。
最高級の豆と米で作っても、コーヒー茶漬けが美味しくならないのと同じ事である。

と、書いておいてアレだけれど、最近、一番、身につけたいと願っている技。
それは畳返しである。
必然性? ねえよ。いいんだよ。
ロマンなんだよ。
あれ、どうやるのかなあ。昔の畳は今より一回り大きいらしいけれど。
どうも、はじっこを叩いて浮かすのかと思ったら、縁から足の親指を入れて返すという説もあるようです。
そうすると、「畳の縁を踏むな」っていう作法も、うっかり畳返しが誤発動しないようにする意味もあったんだろうか。てっきり、毒を塗った刃が仕込んであるからだと思っていたけれど。
もう一つ、時代と共に失われた技術として、「床几術」というものがあったと、安部譲二氏の書いたもので読んだ。
床几というのは、小振りなベンチのような、椅子であり、昔は町中でよくあるものだったようだ。これを、足で掻き寄せて立てたり、振り回したり、足を掬ったり、足の甲に落としたりするのだという。椅子で戦うというと、プロレスやジャッキー・チェンを彷佛とさせるが、なんとも奥深そうな気がする。

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