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試合と演武 

哺乳類で同種の雄を死ぬまで攻撃する種はほとんどありません。
そんなことをするのは人間くらいという説もあります。
当たり前ですが、同種を死に至るまで攻撃していたらその種は存続できないからです。

以前、高尾山の猿山の飼育員が話していましたが、そこの猿山のボスは禿げてて年老いておりケンカが強いわけではない。しかし、自分と血のつながりのない小猿が電流の流れる柵の向こうの木に登ってしまい降りれなくなった時、危険を顧みずに助けに行ったといいます。そうした資質があってボスと認められたということです。

人間でも己と比べて恥じ入るばかりの滅多に出来ない利他行動ですが、こうした仁義礼智信の五つの徳は自然界、ことに哺乳類にとっては本能的に無視できないプロトコルです。それを形に表したものを礼とするなら、猿がマウンティングでお尻を差し出すのも人間にとっての土下座のようなものでしょう。

それをしたら手打ちにする、という協定は誰かに教わるものではありません。
自然にブレーキがかからず、なぜやめないといけないかを習わないと理解できない、教わっていないから分らない、というのはサイコパス的な本能の欠落で、そうなると「人でなし」「外道」として人の社会の中では生きていけなくなります。性善説はメルヘンではなく自然観察から導き出されたものです。

今から演武と試合という二つの武術の表現形式について書きますが、大方の人はほとんど直感的に「これは演武です」「これは試合です」と言われればやっていいこと、わるいこと、などは、上の例の様に本能レベルで知っていることなので、あえて読む必要もないことです。太極拳はタオイズムですが、道教でも五つの徳について語らなければならないのは道が失われたからで、そんな当たり前にあることがテキスト化しないと分らなくなってしまうことが本来おかしいのだ、と言われています。

しかし文明が発達して暴力が隠蔽され観念的になった結果、そのプロトコルが分らない人もいるので書くまでもないことを書きます。そういう対象を意識して書くので、くどくなると思いますがご容赦ください。




試合と演武を武術の「表現形式」と書きました。では何を表現するかというと、当然、武術です。
なので、武術でないものを表現するのは意味がありません。

たとえば、素手で剣に対処する技は武術ですが無手の人間を剣で切り殺す技は武術ではありません。自分が優勢、有利な条件で相手を倒すのであれば術にもならないし訓練の必要がないからです。
それこそドローンで毒ガスをまくとか、寝ている間に家に火をつけるとか、食べ物に毒を入れるとか、ベランダから植木鉢を落とすとか、自分を有利な前提で行動してよいのであれば武は不要です。武は自由と自在を得るものと書いてきましたが、武はそうした奸智に対して生を拾う側です。

たとえば試合で非力な者と屈強な者が打ち合ったとして、屈強な者が防御をしなかったとします。自分は打たれ強いのだから効かない攻撃など無視してよい、と。
これは多くの流派では減点、あるいは打った側への得点としてカウントするでしょう。ことに格闘技ではなく武術であるなら、打たれ強さはなんら美徳ではありません。なぜなら、それは武術の表現ではないからです。
もしそこに打たれても効かないような衝撃の殺し方や、急所を非急所化するような「術」があるのなら、それは武術的な実力の一部ですが、単に相手が攻撃・コールしてきた時に何もレスポンスしないというのはコミュニケーションの放棄ですから認められません。なぜなら武術はコミュニケーション、肉体言語の問答の技術で、試合はその技術がどこまで身に付いているかを試し合っているからです。

そして冒頭の自分を有利な前提の側に置かないという原則からもこれは外れてしまいます。
もし、相手が自分より屈強で剛力であるなら通用しないことをやって、これが武です、というのは成立しません。
将棋の戦法、棒銀なり中飛車なり石田流なりは、決定的な弱点がないから戦法と呼ばれています。もしそんな弱点があったら、あとは相手がその弱点を知っているのか知らないのかの運任せでしかないので、術と呼べるメカニズム、方法論には至っていないということです。相手が強かろうと弱かろうと成立しないのであれば自由でも自在でもないので武でもありません。

相手が非力ならガードしなくて良い、という考え方は試合を相手を倒すものという修羅道に落ちている人の思考です。
「試し合う」ということはその人がどれだけ普遍的な方法論を持っているか、ですから、方法論でない部分で倒しても意味がないのです。空手の試合ならどちらが空手の技術をより高い完成度で構築しているか、を比武しています。
そうなると、やっていいこと、悪いことはおのずと明確化されるので、暴れる、感情をむき出しにする、運任せの行動をする、力づくでホールドから逃れようとするというようなこともしなくなるでしょう。それらは方法論のない人の行動だからです。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし、というのはこうした方法論の強度を減点法で採点しているからと考えると分りやすいでしょう。厳密に言うなら武術における試合はどちらが強いか、ではなくどちらが過失、見落としがあるかのコンペティションです。とにかく殴り倒してでも勝ちは勝ちだ、それが実践的なんだ、というのはむしろ平和ボケした発想で、次の曲がり角にわずかに誰かの影が落ちている、というだけで待ち伏せの危険を察知できることを求められる。わずかの見落としが死に直結する、という世界では力が強い、ラフファイターだ、タフであるというようなことは意味を持ちません。

比武の比較検討結果をクリアにしたいのだから計測結果に対してノイズになる行動、純粋性を損なう行動もやってはいけないことが分ります。たとえばケガをさせてもいけないのです。
なぜならケガをした相手と自分を比較したら真に武術が身に付いているのはどちらかは分らなくなってしまうからです。
試合は実際の戦いの模擬ではありません。相手を倒すのを目的化して相手にケガをさせようとするのであれば、それはもう試合の前に下剤を飲ませても、武器で襲っても同じで、もはや試合である必要ですらないので何も表現されていません。
稽古で相手に礼をするのはお互いに武術の共同研究者として自分のレベル判定に協力して下さい、お願いします、ありがとうございます、という礼ですから、そういう相手をケガさせるというのはさせた側がコントロールできてない未熟となります。

フルコンタクトの空手で鎖骨打ちという技術が導入されたことを賞賛している人を見ましたが、強くなるために習いに来た人から金銭をとって、その人達同士を戦わせて骨折という不可逆性のダメージを負わせ合うことを推奨する、怪我した人はその流派を離れていくというのでは何をやっているのか分らなくなります。怪我をさせあうのが良いのであれば、それにお金を払うくらいなら家で自分の鎖骨をトンカチで叩いて折ったほうが同じ結果を安上がりに得られます。

次に演武の話ですがその前に、一部の人は試合と演武と実際の戦いと組手と護身術がごっちゃになっており、それをほどくために最小限、護身術についても簡単に触れます。

先に結論を言うと護身術には試合も演武もありえません。
なぜなら武術における試合は研究者同士のディベート的なものですが、護身術はむしろ不可逆な怪我を負わせ、ラリーや返し技が発生しないようにするのが目的で、むしろ試合として攻防が成立してしまうような体系は護身術として欠陥があります。一問一答で完結することが求められます。
それは必然、技術の秘匿性を呼びます。技を知られてしまったらその返し技を考えられてしまうからです。なので演武してはならないものになります。強いてやるなら非常に抽象的な形でやって短絡的な凶漢には分らないが武に目の聡い人は価値が分る、というようなものにするしかないでしょう。

で、演武の話ですが、試合が個人と個人の比武で武術に対する理解度、方法論の構築度を比較していたのに対し、演武は個人を見るのではなく武術そのものを表現しています。
なので、見ている側に「我々は戦いという現象をこう解釈しています」ということを伝えなければならないので、見えやすい角度や、どこで攻防の区切りがついたのかを知らせる発声や間などの様式が生まれます。もしパートナーが技が出ずに困っていたら助けてあげる必要もあります。

白桃会では段取りを決めた型を暗記してやる、ということはせずインプロビゼーション(即興)で攻防し、技を技で返し、一方が返せなくなった時点で自然に終わる、という形式を取っています。自由攻防ではありますが、当身は当てる寸前で止める、技はかけるけど極めない、武術を表現したいのだから相手の技を耐えて掛けさせないのではなく、その技の裏をとって技を技で応酬する。
このとき、相手はひとつの作品の共同制作者であり、主も従もなければ対立もありません。敵対もなく、お互いにもっとも危険な最善手を出し合いながらも同時に永遠の神々の遊びでもある、という表現になっていきます。

白桃会において修行は遊行です。つまり良い演武はずっと終わらないで欲しいと願うようなものなので、勝ちたい、倒したいということが起こりえないものです。カポエイラのジョーゴや雄手はその理念をよく表しています。
これをもし実践の模擬として捉えて、演武の相手をダンスパートナーでなく凶漢のロールプレイとでも思っているならその人は武術という豊かな恵みの中にいて人を傷つけ、傷つけられるだけの哀しい、不毛な世界しか目に映っていないということになります。そんな殺伐としたものを見せられて「武術って良いな、自分もあんな自由と自在の中に入っていきたい」と思う人はいません。演武に勝ち負けがあるとしたら見ている人にそうした心を起こさせることが出来るかどうかです。

試合と演武はしだいにひとつのものになっていきます。昔から言われている「試合は演武のように演武は試合のように」というものです。より純度の高い武術の理そのものになる、ということが共通の目的としてある以上、両者は差がなくなっていきます。同一のものの違う表現形式だからです。
そして、術そのものである状態よりも無訓練な本能的な行動を拠り所とし、術の有効性を疑うのであれば、その人は術者ではありません。

 

コンテナとコンテンツ 

白桃会で教えているのは技術ではなく技術に対する考え方です、と、しつこく書いてきました。
デザイナーの人がコンテンツとコンテナ、という言い方をしていて腑に落ちたのですが、中身とそれを包括するものがあるとしたら包括するものを見ることを教えています。コンテナがあればコンテンツはそれに沿っておのずと生まれていくからです。

youtubeで公開している動画などはその一例ですが、多くの人はその動画の中の技、コンテンツにとらわれ、その技自体を学ぼうとします。これは優れた教義の教えがあっても人が現世利益や分かりやすい奇跡の方にしか関心が向かないのに似ています。
仕組みは分らなくてもいいから便利さだけ甘受したい、というのは科学製品なら可能ですが、武術を学ぶというのは単独行動でサバイバルできるようになるのが前提ですから、多かれ少なかれ研究者的姿勢が求められます。

技の手順を覚え道場稽古で限定的な「神技」ができる様になったとしてもそれは意味はありません。そうしたコンテンツを必要に応じてあらゆる状況で生み出せる性能の自己を作ることが目的で、技自体は例、デモンストレーションにすぎないからです。型は手順を覚える振り付けではなく考え方を知るためのものです。

たとえば槍を学んで槍の使い方というコンテンツが主だと思った人は、竹やぶに連れて行かれ武器を作れと言われたら、竹槍を作ってしまうでしょう。しかし、槍を学ぶことで「一本の槍でさえ多種多様な使い方があるのだから万物にそのものの特性を生かすやり方があるのだろう」と知った人なら、投石器、弓、落とし穴、ブービートラップ、垣など、「竹」というコンテナから逆算して武器を作るでしょう。前者は後者に永久に勝てません。

初期の総合格闘技も、離れればキックボクシング、組めばレスリング、柔道という既存の格闘技コンテンツのキメラ的なものでした。しかし、組技がない場合の打撃格闘技の最適フォームや戦術はそのまま移植しても使えません。
たとえば綺麗なジャブは立ち技では有効ですが、攻撃範囲が点なので、左右に身体を振ったり、しゃがんでタックルを合わせ易いので「様子を見るのにとりあえずジャブで距離を測る」というのは出来ません。

今は大分、総合格闘技における最適解の戦術、というものが生まれつつありますが、まだ「フック」「アッパー」「回し蹴り」「タックル」といった他分野から借りてきたコンテンツを今のルールの中で有効につないだものの延長にあります。
もしそうした既成概念をとっぱらって最初から「総合格闘技」というコンテナから逆算して先頭理論を作るとしたら「手でパンチする」「足でキックする」というようなものではない全く新しい概念の技術、見覚えのないものが出て来るはずでしょう。パウンドとニー・オン・ザ・ベリーはその萌芽を感じさせます。

似たような話としては、ガンダムなどのアニメで、ロボット同士で戦闘するとしたら一番強い形は何か、と考えたら人型である必要はないんじゃないか、そもそも有人でなくて無線で良いのでは、とか、魔法のある世界観のファンタジーで重装歩兵が隊列を組んでのろのろ行進するだろうか、というのもあります。
結局、自分の見知っているものの延長で考えているか、合目的性から逆算してフルスクラッチで組むかですが、前者のやり方は通信の歴史で言うと飛脚→伝書鳩→バイク便くらいまではいけてもファックス、メールには到達できないでしょう。

最近のつぶやきから 

《勝負に捉われずに勝負を追求するということ》

推手は攻防の理合を学ぶものでもあり、体をほぐすものでもあり、感覚の訓練でもあり、純粋な永久運動のモデルでもあり、対話でもある。そしてそのどれでもない。
しかし、なまじ「武術」であるから、二人で一つの運動を作る、同化するという理想から外れて、勝ち負けを競う競技的なものになりやすい。
そこで推手から攻防要素を取り除き「純粋運動」に昇華しようとした運動があった。
それはディアローゴ、エラスタルトといった名前で呼ばれたが、今それをやる人はいない。攻防に拘るのは過ちだが攻防がなくても成立するものではなかったのだ。

これはあらゆる武術の抱える問題で、勝ち負け、強弱に拘れば本質に至らず、そこを切り捨てて抽象化すると土台を見失う。
生き死にの真剣勝負でありながら永遠の神々の遊びでもある、ということを両立する必要がある。囲碁将棋などもこれに似ている。
実用の素朴な器にこそ用の美が宿る、という民藝運動も、やがては民芸「風」の作られた素朴さで、非実用のオブジェを作り高値で売るというしょうもないものになって廃れていった。これは他山の石ではない。


《上達と熟練》

時代が進むほど動作が洗練される、というのは嘘で、あきらかに道が舗装されず靴が発明される以前の人々の方が歩くことへの注意深さはあっただろう。
野性動物を狩り、また野性動物に襲われていたならなおさら、雑、がさつな事をしていたら生きていけない。

安全で何度でもやり直せることは熟練も生むが麻痺と鈍感にもつながる。
無限に出来ることを常に初めてのように、そして最後の一回のように出来るなら、熟練ではなく上達になる。熟練は熟練で大事だが、熟練は技術を固定させる作業なので、低レベルで固定すると、むしろそこから出られなくなる。
新しい発見があったとき、それ以前の思考に逆戻りしないようにベンチマークを置くだけで、熟練自体を目的化すると単に可塑性がなくなるだけになる。


《捨己従人は我慢することではなく万物を自己とすること》

認知症老人でも楽器をもつとしゃっきりするとか、運動オンチなのび太が射撃だけは異常な天才性を発揮するとかの事例がある。
今まで道具(他者)を身体の延長化する、という認識があったが、上の事例は元の身体能力を超えているので、延長ではない。むしろ道具は外付けの拡張された脳なのではないか?
自我があって自分が道具を使っていると感じてしまうが、人間と言う存在自体が万物のコネクタ、翻訳機であって主体はないのかもしれない。あるいはそもそも「主体」という概念自体が文法の便宜上のもので、そもそも存在しないのかもしれない。

主体が自分の自分の外にあるという考え方だと「コップを持つ」のではなく「コップはどう取られたがっているかに沿う」になるが、その場合、食器をこぼしたり割ったりはしなくなるだろう。
服を着こなそう」とする人より「この服は自分に何を要求しているか」を読み取ろうとする人の方がお洒落であり「箸を使おう」とする人より「箸は自分の機能をどう使おうとしてるか」に沿うほうがエレガントになる。

万物が主体に出来るなら全てが自己であり尊重の対象になる。捨己従人は、消極的戦法ではなく、万物を自己とする戦法とも考えられる。


《過ぎたるは及ばざるがごとし・雑とはなにか》

自己を主体とする場合は身体を無機物化して操作する人とされる人を一人二役でやる訳だが、これが完全に同期したときは目を凝らしていても動きが見えないし抑えていても止まらない。
視覚的に速く感じるものは何か一部分が突出して速いからそう見えるのであって、逆に言えばそれ以外の部分が遅れているから「遅い」とも言える。地球が凄い速度で回っていると同時に体感的には不動であるように、全てが速いものは速さを感じさせない。コマやハンドスピナーが高速に達したとき、むしろ緩やかに見えることや、並走する電車は止まって見えることもこれに類するだろう。
その逆の「雑」「下手」はどういう現象かというと、ワインの栓を抜くときにコルク(操作される側)が抜けていく速度を上回る勢いで引っこ抜く事で周りを酒浸しにするようなことをしている。そうした人はそれで失敗したときに「パワーが足りなくて技がかからなかった」と思うのでさらに雑になる。相手が崩れる速度を追い越して力を籠めれば力を集中するべきポイントを通り越してしまって技はかからない。
合気道の手首を取ってきた相手を遠心力で振り回すような動きもそうで、強すぎる力は振り回しすぎて結合部がちぎれるので技として成立しなくなる。
正論であっても言い方がきつすぎると耳に入らない、とかもこれに似ている。

カンフーパンダ考 

3Dアニメーション映画『カンフーパンダ』シリーズは東洋思想、武術の本質をわかりやすく描いている。

以前、東洋思想の入り口としてはユングが良いかもしれない、と書いた。
それは西洋人が西洋人向けに書いたもの、つまりゼロから学んだ外部の人間がそれを同じく予備知識のない人に伝えるために書かれたものだから、そして今の日本人の伝統文化に対する感覚はむしろ西洋人のそれに近いからだ。
その意味ではカンフーパンダも同じ構造をもっていて、さらに子供向きである、という点で、わかりやすさに関しては群を抜いている。

話の大筋としてはひょんなことからカンフーのグランドマスターである「龍の戦士」の後継者に選ばれたカンフーおたくのパンダのポーが一人前の武術家になっていくというありふれた物語だが、師匠であるレッサーパンダのシーフー老師もまた弟子によって育てられる、師は弟子によって師になっていくという部分が描かれている。

実はシーフー老師は過去に弟子の育成を失敗している。
老師は寺の前に捨てられていた赤子(ユキヒョウ)に武術を仕込んでいた。作中では幼少時にカンフーの才能の片鱗を認めたから教えた、と言っているが「龍の戦士」の巻物を守るカンフーの総本山で、その子に大龍(タイラン)と名付けて育てたということは、最初からその赤子をゆくゆくは龍の戦士に、という気持ちがあったのではないかと思う。
タイランは龍の戦士になるべく育てられた。しかしグランドマスターである亀からは認められなかった。その結果、タイランは荒れ狂い、獄につながれた。

では、なぜ努力して才能にあふれたタイランが選ばれず、才能のない偶然選ばれたポーが「龍の戦士」なのか?

このブログの読者であれば、考えるまでもなくホイホイ答えは出るだろう。
が、このテーマを西洋人、ことにチャレンジとフロンティアスピリッツでサクセスするのがアメリカンドリームだという思想、プロテスタンティズム的、アスラ神族的な世界観の人にはどうしても納得のいかない部分があるだろう。
同じ武術であっても大会で優勝するのを目指せ、昇級審査で黒帯を目指せ、というようなタイプの流派に身を置いてきた人にも通じにくい話ではある。

私の弟子にしたところで「目的意識を持つのが悪いっていうんでしょ。わかってますよそれくらい」と鼻の穴を膨らませるが、ちょっと壁にぶつかるとすぐに「私より強くて才能のある瀬尾さんを弟子にすればいいじゃないですか」とか言い出す。

そのたびに私は「なぜあなたは誰を弟子にすべきかの判定が出来、その権限があると思うのか? 私にすらないのに」という話と「武術は自己を最も身近な他者として扱う。弱くて才能のない人間は資格がない、という言葉は自分を指したものであっても差別主義を含んでいる」という話を百万遍もしてきた。根っこのところではタイランを良しとする思考が抜け切っていないのである。

なので弟子にこれを公案として考えてもらった。「達磨はなぜ西から来たのか」ならぬ「タイランはなぜ選ばれなかったのか」である。それがこれである

上手くはまとまっているが、これは作品の中の言葉で作品を解説した域を出ていない。
前述したような自身のもつ劣等感や差別意識にまで踏み込み、「自分の中のタイラン的なもの」との決着をつけなければ公案としての意味は薄いだろう。ポーとタイランと自分を重ねて我が事として見なければ、モニターの向こうで面白いお話をやっているなあ、いやはや勉強になりました、としかならない。この話は全然他人事ではないのだ。

なぜタイランは選ばれなかったのか? あるいはポーが選ばれたのか?

それはこの記事の冒頭部分でもうっすら答えが出てしまっている。ユングが、カンフーパンダが東洋思想から遠い西洋人が作ったものだからこそ最良のテキストとなりうる、という逆説。
これは隆慶一郎の『風の呪殺陣』で努力家の昇運が信長への復讐に囚われ、お調子者だった好運が阿闍梨への道を進むのと相似だろう。釈迦がアナンダを選び、キリストがパウロを選んだのも同じ理由だ。

私も190cm100kgくらいの体格があったら武術をやろうなどとは思わなかっただろう。自己に頼っても何とかなってしまうからだ。才能がないのに後継者なんて、ではない。才能がないから絶対他力に委ねられる。純度100%の武術そのものになれる可能性がある。
シーフー老師の一番弟子、マスタータイガーはポーのへっぽこぶりを見て、「あなたはカンフーを侮辱している」と言う。
長年修行してきた自分たちを差し置いてぽっと出の能無しが後継者なんて…という気持ちから出た言葉だ。
しかし侮辱してるのはタイガーの方なのだ。
なぜならカンフーはあらゆる人(パンダ)を導ける、あらゆる人は強くなれる、という前提があるから。
それを否定して一部のエリートのみが変われるものとするなら、それはカンフーを卑小化し、個人より下位に置いている。

ではタイランはどうか? 生まれた時からカンフー漬けでカンフーの申し子だった。だったら純度100%のカンフーそのものではないのか? それは残念ながら違って、彼は空っぽだった。

東大に入ることを目的に勉強してしまった人はそのあと、研究者として大成しないという。一番進んだ研究が出来るから東大を選ぶ人が研究者になる。東大に入りたい、と学問がしたい、は全然別の話だからだ。
タイランはマスタードラゴンになりたい、師父に認められたいと思っていたが、カンフーをしたいと思ったことはなかった。彼はカンフー自体に意義を見出して始めた訳でもカンフーに敬意を持っていた訳でもなかった。そういう人にとってのマスタードラゴンの称号は空虚なトロフィ、単なる呼称でしかない。

弟子のレポートで「師は入門者がものにならないかどうかがわかる」と書いているが、唯一無二の条件はそれしかないのだ。自分の学ぶものに対して敬意があるかどうか。ポーにはそれがあった。

タイラン(大龍)と同じ「ドラゴン」の名をもつ松本大洋の漫画『ピンポン』の風間は常勝を義務づけられ、努力で「反応速度を人間の限界まで反射に近づけ」てきた。一方、ペコが「卓球そのものであろう」とした。
カンフーパンダでポーが資質を見出されるのは、鈍臭いはずなのに戸棚にお菓子があると聞いたら「気がついたら高い所の菓子を食べ終わっていて本人もどうやって登ったのか覚えていない」というシーンで、これも反応ではなく菓子・即・食という境地にいるからだ。それは努力では達せない。
なぜなら努力を要するということはなりたい対象と自分の間に距離があるということを認めることだからだ。
たとえば恋人に「私は一生懸命あなたに対する嫌悪感を克服するために努力している」と言われたなら、それはそもそも無理だろうとわかる。

修行は一見努力に似るが、何かを獲得するために色々するのではなく、真我に至るために今まで獲得したものを捨てている。積み重ねるのではなく削ぎ落とすものだ。その逆説があるからシーフー老師もまたポーに与えることによって救われた。

多くの人はタイロンの、風間の、昇運の道、努力と目的意識の修羅道を歩む価値観を疑わない。
が、自己努力が自意識を肥大させるほど、自分の存在より大きなものへの目を曇らせる。
武術を自分より大きなもの、海として捉えれば、その中に入ることができ、恩恵がある。しかし自分が武術を使役するという見誤りは、海を飲み干そうとすることに似る。心身に異常をきたすし、自分では限界まで強くなった、何かを得たと思っても、それはその人の腹がパンパンになったというだけで、海を飲み干した訳ではない。

カンフーパンダ3でポーは戦士から指導者になり、かつての師であったシーフー老師が逆にポーを師として礼を執る。これもまた個人として競争原理で生きてきたなら「屈辱的」と感じることだが、シーフー老師はそれを喜びとして迎えている。同じ海にいるのならそこに彼我の差はないからだ。そしてこのシリーズで一番成長したのはポーではなくシーフー老師なのだ。

ポーが祭りで偶然選ばれたように、縁、運命ということで言うならタイランも実際に運命に選ばれていた可能性がある。
しかし、シーフー老師はタイランを真我に導くのではなく、作為をくわえた「自分の思う龍の戦士像」に育ててしまった。作為が介入した運命は運命ではなくなってしまう。これは指導者や占い師にとっては怖い話でもある。この話はどこの誰を切り取っても、他人事ではないのだ。

才能ある人間が武術の可能性を広げるのはとても良い事だ。しかし、それが全てではないし本筋でもない。なぜなら極論、人はいつか死に、地球は氷河期に入り、太陽は爆発するからだ。
それを前提に踏まえるなら、意味は常に今この瞬間にこそあるし他者との比較は意味を持たない。

視覚障害者のための護身術のおしらせ 

7月16日月曜日(海の日)の17:30から視覚障害者のための護身術講習会を行います。

場所:西池袋第二区民集会室 会議室
料金:3000円

また、7月から小金井市総合体育館で、毎週金曜日16時から17時に、視覚障害者のための護身術を定期教室で教えることになりました。こちらの詳細は042-386ー2120へ直接お問い合わせください。

実際的な危機に対する技術はもちろんのこと、武術という文化の妙味を楽しんでいただけるかと思います。
もし、身近に視覚障害の方がおられましたら、こんな教室があるとお伝えください。よろしくお願いします。

※誤った時間を表記していたので訂正しました。すみません。