ほぼ完全に宗教じゃねえかって話 

武術は矛盾の塊です。あるいは武術には矛盾という概念がありません。それは相対性を超えたものだからです。

実用の技術であることとと芸術であることが両立するし、最大効率を追求することと目的意識、価値観を放棄することが同義になります。
昔の人が残した道歌で、「きりむすぶ太刀の下こそ地獄なれふみこんでみよあとは極楽」というのがありますが、これはある瞬間、自分の命を手放す行動をしなければ助からない局面もあるということを示しています。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とも言います。
生きるための武術であるなら相手の太刀から遠ざかったほうが生存率が上がりそうなものですが、剣や銃に対してはなまじ距離をとるほうが危険になる場合が多々ある訳です。
この、自分を捨てる、命を手放す、ということを求められることにおいて剣と禅は一如です。捨てることが拾う事であり手放すことが得ることでもあるからです。禅もやはり相対性を超えた世界です。

この観念は日本人であれば、昔話の「良いおじいさん」と「悪いおじいさん」の対比で直感的に理解できるでしょう。
花咲かじいさんでも舌切り雀でもおむすびころりんでもわらしべ長者でも、手放すことを恐れない「良いおじいさん」は得て、そのセオリーだけを盗もうとした「悪いおじいさん」サイドは似たようなプロセスを踏んでいてもひどい目にあいます。
理に従うこととセオリーに従うことは非なるものだし、最初から利潤を求めている人間は最大効率にたどり着けないということです。最適解は常に今の自分の知識の延長ではなく飛躍した発想の中にあり、飛躍は効率を度外視しないと出来ないからです。科学技術でも、今その場で役に立つ研究だけをしていたら、その国の技術進歩は中世、近代レベルで止まるでしょう。

自分の発想や習性の枠の中で同じような行動をして、死の影におびえて暮らすというのはみじめなことです。しかし大体の人はそうして生きています。
本人は自覚がなく、単に自分はお金や名声が欲しいだけだ、楽しく騒ぎたいだけだ、もてたいだけだ、と思っていても、ではそれらの行動原理は何から発しているかというと、死が迫ってくるからでしょう。人間が不死であるなら承認欲求もないしお金や贅沢やセックスに目を向けません。
これらは食べ放題のバイキングで時間制限が近いからできるだけ金目のものを腹に詰め込もうとするような行為やバーゲンセールだから、といらないものを買いあさってしまう行為の類で、リミットがあるから、そうしないと損だと思ってやっている訳です。つまり行為の主体は自分にあるのではなく、バイキングやバーゲンの側、すなわち寿命、死にある。死に振り回され、奴隷化しているということです。
それは本当に欲しいもの、やるべきことを見えにくくしているし、最悪の場合、そうしたリミットが提示してくる「お得な選択肢」を選び続けているだけで時間切れになり、本当の本当に自分がやりたかったこと、やるべきだったことはなんだったのか、ということを考える間もなく寿命を迎えます。

では死の奴隷にならないようにするのはどうすべきか。

といっても死はただそこにあるだけで人間側が勝手にそれを恐れてやっているだけのことです。死は積極的に何かしてくる訳ではありません。自分の習慣を牢獄にして、死を看守にしているのは我々自身です。バイキングで勝手に食いすぎて苦しくなって、もうバイキングなんて沢山だ、と言ったり、バーゲンで買ったものが後で見たらいらなかったからといって捨てるのが愚かなのと同じです。つまり何もかもこちらの一人相撲、気の持ちよう、自分次第ということです。
冒頭の太刀の話にも通じますが、死はだんだん近づいてきますが、それに背を向ければ「死に追いかけられる」恰好になります。しかし、こちらがそれに向き合っていたなら「死を追い詰める」「死にたどり着く」といった前向きな見方になります。充実した生はそこからはじまるのではないでしょうか?

武術は、死を恐れ、効率を求め、個人主義をつきつめてきました。
その結果が生を手放し、損得を考えず、自分から自由になることであるというのは、非常に逆説的で面白いところです。

他力本願 

「自分を信じて」というような言葉が世の中では良いこととして捉えられています。
が、フリーハンドで線を引くよりも、定規を使った方が精度は高くなります。自分とツール、どちらに信頼がおけるかといえばツールです。もっと正確に言うならば、ツールが具現化している原理、法則性に対しての信頼性の方が高い。

太極拳の架式にはこうしたフリーハンドから定規やコンパスへの移行、つまり、身体のツール化、原理化を推進する面があり、そのためちょっとロボットダンスやパントマイムに似ています。
ですがこれは驚くべきことで、ロボットのある時代にロボットダンスを作るのは簡単ですが、ロボットなんてものが影も形もない時代から、人間が自力ではなく他動的に動くとそうしたムーブになる、ということを看破していたわけです。

逆に剣術、柔術などでは武器や相手といった他者、異物を自己の延長としていく作業をしていきます。
つまり武術をやっていくということは、自己が自己であることから自由になり、無機物でもあり有機物でもあるものになっていく。そしてそれらを区別、差別せずフラットに万物に接するような、人格ではなく原理そのものになっていくということです。

自分という存在は、忘れてはいけない約束を忘れ、間違いを起こし、いいかげんなものです。しかし、手で持っている石を放すと下に落ちる、というような自然の理は間違いがありません。



このビデオは自力で歩かず剣を推進力にすることをまとめたものです。「自分」は臆病で、前に出るべき時に怯えて動けなくなるかもしれません。しかし坂道で駆け下りて勢いがついていたなら、臆病であろうがなんであろうが勢いがついているので体は前に進みます。だったら体の中に傾斜を作り、坂道を駆け下りるような勢いを作ってあげればよいのです。

余談ですが、かくいう私も方向音痴で、方向音痴という性質もまた、理ではなく自分を中心とした人間の性質です。
自分を中心として生きていると道順を、あの角を右にまがってコンビニで左、といった「右・左」で覚えます。しかし右・左は自分を中心とした感覚なので後ろを向くとさっきまでの右は左になってしまう。
だから私は同じ池袋駅でも山の手線内回りと外回り、どちらから乗ってきたかで、毎回、出口の方向を混乱します。
電車の進行方向で上野方向が北、新宿方向が南、と考えられれば、新宿方面の先頭側に南口があるのは自明の理なのですが、「この間、降りて左にいくと南口だった」というような、基準にならないことを基準にしているので迷うのです。なかなか愚かですね。

道に迷うものは己を頼りとするが、法を頼りとするものに迷いはない、とか言い換えるとちょっとありがたい事を言っているように聞こえていいかもしれません。

視る、聴く 

「見る」と「視る」、「聞く」と「聴く」、といったように、同じ目と耳を使った行為でもバージョンアップしたものがあります。

たとえば何かに熱中している人に「雨が降ったら洗濯物とりこんでおいて」とか「お風呂の水がいっぱいになったら止めて」と伝えても、おおむね思った結果は得られません。これは「聞いて」はいても「聴いて」はいないからです。この例で、視る、聴くといった能力は視力や聴力の問題ではなく、意識のあり方の問題だというのが分かります。

武術における視る、とは、シャーロックホームズの推理のようなものです。重心の位置、リーチ、構えなどから、何をしようとしているのかを察知する。初見の相手であっても体格や拳ダコ、餃子耳などの情報があれば何をやっていた人なのかはわかります。同じローキック一発でも、受ければ相手が空手家なのかキックボクサーなのかは厳然と違うのが識別できます。また、武器を携帯しているかどうか、伏兵がいないかどうか、なども重要な情報です。虚勢を張っているが内心では恐怖している、とか、笑っているけど怒り出す一歩手前だな、といった感情の機微も分からなければなりません。
型を習うにしても、その型の意味するところは何か、その型を考案した人は何を達成目標とし、どういった身体操作や戦術を理解させようとしているのか、を考えなければただの体操、ダンスでしかありません。

言い換えるとこれは、未来の予知、経歴のリーディング、思考・感情の読み取りというようなことで、やはり魔術、呪術の類に近いことが分かります。「視る」とは、目の前のものを見ているのではなく、その物体が示す情報、サイン(卦)を見ているのです。逆に相手に嘘のサインを送ることでフェイントをかけることもできます。

こうした能力は人間の生活のあらゆる局面に現れます。
寿司職人ならカウンターでお任せで握りながら、客のネタの好き嫌いや満腹度を読み取り加減していくし、ホテルマンなら自殺しそうな一人客が来たら注意します。刑事は不審者を警戒し、高級宝石店の店員は客の懐具合を一瞬で判断します。
球技なども球そのものを見ていても間に合わず、相手のフォームから、球が来るであろう地点、未来の予知映像を頼りに捕球したり打ち返したりしています。

私の場合、武術をはじめたきっかけが、いじめをしてきた相手と一週間後に決闘をするから、というものでした。
同じことを習っても、「特定の個人を明確に殺傷する気で」「負けたら自分が死ぬかもしれず」「その期限が区切られている状態で習う」というのはまったく質が違います。私はそういう意味では最初から「視」ざるをえなかったし「聴」かなければ死ぬかもしれない、と思ってやっていました。
それはソフィスケートされて殺傷力を制限された技術をみて、その原型や本質である隠されたものを取り出すという事です。柔道の目で見れば内股は足を跳ね上げて投げる技ですが人を殺傷するという一点でその技を見たなら、足を跳ねるのではなく金的を蹴りながら投げる、服の代わりに耳や髪の毛を掴んで投げる、というものが「視えて」きます。

最初にそうやって武術を理解しようとするのがデフォルト化したため、まがりなりにも今、専業武術家でやっていけているのでしょう。宝石を売るノルマのない店の店員には客の懐具合を見抜く能力は備わらず、回転ずしに何年いても、客の好き嫌いや満腹度は計れません。その能力を必要とする環境におかれて初めてその能力は発達します。だから武術は実用から離れてはいけないと思うのです。具象から抽出された抽象は本質ですが、抽象を抽象化したものは、何でもない泡のようなものでしかありません。

呪術→忍術→武術 

武術と呪術の間に境界はないが、強いて言うとその中間的なものに忍術がある。

まず向かい合って正座礼し指先の位置に一文字に扇子を置く。そして相手が打ちかかってきたときに、その扇子のラインを超えたら即対応して反撃する、ということを数回繰り返したなら、相手はその扇子を越えることが出来なくなる。
センスのある人なら、実際に打ちかかって反撃を受けなくてもその扇子を越えたら自分が負けることを読み取って動けなくなるだろう(扇子だけに)。そして面白いことに、その刷り込みがあると、扇子だけ残して自分は退室しても相手は扇子を越えられなくなる。パブロフの犬のように扇子を超えると痛い目に合う、という学習性無力感が植え付けられるのだ。これはもはや金縛りの術、影縛りの術の類と言えるだろう。これを心理ではなく物理的にやると撒き菱などの遁甲の術になる。

子犬の時、鎖をつなぐ杭が抜けなかった記憶のある犬が成犬になってもその杭を抜けないと思い込んでしまうように、扇子を越えてはいけないという制約がかかると扇子が呪物になってしまう。これは一種の結界である。
もっと単純な例でいうと、刀を鞘に納めていたとしても、柄に手がかかっているなら、腕と刀を足した半径には人はおいそれとは踏み込んでこない。白桃会の基本の構えが前に腕を伸ばしているのも同様の理由による。指先で常に喉や目に照準を合わせておいたなら、それだけで相手は深く踏み込めなくなる。
こうした呪術的制限、暗示を相手にかけるのが術であり、もっとつきつめていくと催眠術などになっていくだろう。術者はこれらを自由に扱えるようになると同時に、無意識に植え付けられているこうした暗示から自由になる必要がある。自分が縛られていることに無自覚な人間は、そうしたシステムを使うのではなく使われる側だからだ。

「女は女らしく」
「長男の嫁なんだから介護をするのは当然」
「どうせお兄ちゃんにはかなわない」
「私ってB型だからガサツなんですよ」

こうした「常識」と思い込んでいるものは全て、犬の杭や扇子の類であり、そうしたものに縛られず自由になることが術者には求められる。ことに武術においては「弱者がどうがんばったところで強者に勝てるはずがない」「個が集団に、無手が武器に勝てるはずがない」というような類の考えに縛られていたなら出来ないことばかりだろう。

以前にも書いたが修行がときとしてアホみたいなこと、無意味にみえるものであることも、「馬鹿なことはしてはいけない」「物事には意味がなくてはいけない」というような制約、呪縛から外れるためである。場合によっては真面目に千本素振りをするより、無一文になるまで出鱈目な豪遊をしたりするほうが修行になることもあるだろう。

こうした呪的制約、場の支配に関しては、先に対談したぼっけもん・豪先生に見事な逸話がある。
知人のトラブルに巻き込まれて仲介に入った豪先生は、日本刀をもった集団に囲まれた。なんだおまえは怪我したくなかったら引っ込んでいろ、と相手がなめた態度をとったそのとき、豪先生は完全にスイッチが入り、「誰か一人でも柄に手をかけたなら、全員ぶっころしてやろう」と思ったのだそうである。
「常識」があれば素手の一人が武装した集団をぶっ殺すなんてことは思わないが、豪先生は心の底から迷いなくそう思った。そしてそれが相手に伝わったことで、逆にその場は豪先生が支配してしまったのである。相手は動いたら殺されると思い地蔵になってしまった。それにしても千葉県はマッドマックスのような恐ろしいところである。

場を支配する、制約をかけるというのは芸能の世界でも重要なことで、単に面白いことを思いつけるだけでは投稿職人や放送作家にはなれてもコメディアンにはなれない。求められているのは面白い空気を作る、ということが出来るかどうかだし、スター性、カリスマ、華とよばれるものもそうした場を掴む技能だろう。
今これを言えば受ける、今、客が飽きているから別の話に変えなければいけない、といった感覚は、今打てば当たる、今は当たらない、を見分ける能力と同根でもあろう。芸能もまた呪術、魔術の類だ。

余談だが、弟子が遅刻が多いので、この間、「10分早く稽古に来るように」と、誰もいないところで名を呼び、言挙げした。するとはたして彼女は「なんとなく」10分前にやってきた。
この現象自体をエスパーだ、オカルトだ、というようなことは意味がない。「そんなことはありえない」とか「聞こえないところで人に呼び掛けても無駄だ」というような常識の杭、扇子をなくすことに意味がある。出来る出来ないにかかわらず、なんでもチャレンジすることで類似の副産物が生まれることもあるからだ。水の上を歩こう、と考えていろいろやっていたら立ち泳ぎが出来るようになった、とか。

夏休み特別企画・剣術師範ぼっけもん豪先生との対談 後編  



 ※前半はこちら



●6 武術をどう普及するか

佐 結局、武術で食えるシステムを誰かが作らないといけないと思うんですよ。

豪 いやまあ一部ではあるし、成立させつつある団体もあるんじゃないですか?

佐 ただ、そこから株分けして支部を作っていって、安定して食っていける人を増やすのは難しいじゃないですか。たとえば野球だとリトルリーグがあって軟球やって硬球やって、トップの人はプロになればいい。そうでない人も、野球が学校の推薦や就職の手助けになっていて何かしらのセーフティネットがある。そういうものと競合して比較してみたときに武術って、私自身が食えているか食えていないかでいうと、ギリギリ食えてなくもないというレベル。

豪 生きてはいるけど (笑)

佐 生かさず殺さず (笑) という現状を考えると子供たちに胸を張って勧められないですよね。これに一生を懸けなさいと。

豪 それはやっぱり責任感あれば言えないですよね。そう簡単には。

佐 まあ、おまえはこっち側の人間なんだからこっちで生きていくしかないんだよ、という人には普通に言いますけど。

豪 そういう人はいますね。確かに。

佐 ただ、そういうこっちで生きていくしかない人じゃなくて…

豪 いろんな可能性があるのに…

佐 そうです。いろんな可能性がある中で選んでくれるような文化にならないと意味がない。

豪 確かにそうですね。

佐 これまたマクロとミクロどっちが先かみたいな話になっていきますけれど。地道にやっていくのがいいのか、それとも社会にまず武術って凄い、良いものだよ、というのを浸透させないといけないのか。

豪 でもやっぱりブランドイメージだけが広がってしまって一時的にブームとか仮に招来できたとしても、まあそれは数年で過ぎ去ってしまって後に残るのは徒労感と空虚だけじゃないですか。

佐 逆に敷居が高くなることさえありますからね。「武術? ああ数年前に流行ったやつでしょ? もう今さらいいわ」みたいになっちゃって。

豪 ああ、そうですね。古臭い、ダサい、となる可能性もある。

●7 大乗と小乗

豪 佐山先生は献身的ですよね。業界に対して。

佐 いやそれも結局、自分の事ですよ。自分が食っていくという最小限の事にしても、原始共産主義じゃないですけど、万民が飢えている中で自分だけ飢えないという状況は作れないという。

豪 でもそれを考えるときに割と大きな枠から考えていくじゃないですか。社会制度とか構造とかから。そしてその現状に対してどうアプローチするかという。

佐 たぶんそれは武術自体がそういう思考のシステムだから、それに沿っていくとそうなるんじゃないですかね。

豪 たとえばもっとプラグマティックにいけば武術業界や今の社会事情をまったく考えなくても、いろいろある文化、習い事の中で自分だけ上手く宣伝を打ち出して自分のところに生徒が来れば生活は確保できる訳じゃないですか。

佐 自分の生活を確保するだけだったらコンビニでレジ打ったって出来るんでね。(笑)

豪 いやいや、武術で、そこを中心にするってことで言うとですよ。

佐 武術で、というなら武術というもの自体がウイルスとワクチンの開発競争みたいなものにさらされていないと質が下がってしまう訳ですから、良き競争相手がいて、業界全体が活気づいていて、その中で切磋琢磨していないのならば、ただただ濁って腐っていくだけなので。

豪 それは確かに正論なんですけど、その考える比重というか重心とか優先順位を大の方から行くか自分の目の前のことからいくか、人によって違うと思いますよ。他の先生もたぶん武術業界のことを勿論考えているとは思うんですけれど、それ以上にまず自分の団体を確立して盛況にして、ということを。

佐 うーん、なるほど。一つわかりました。そういう意味で言うと、うちは実家が浄土宗のお寺なんですよ。大乗なんです。

豪 大乗すぎ。(笑) いやだから佐山先生は社会運動家というか運動家であって、利己的ではないんですよね。すごく。それが献身的って意味なんですよ。

佐 いやでも小乗も間違っていないですよ。一人のリーダーが出来てそれが業界のモデルケースになって、武術をやるとこうなれるんだと示してくれるから後に続けるというのも勿論あるので。

豪 そうですね。僕は否定しているとは思わないんですけど、佐山先生はあきらかにマクロからいくタイプだなと。ある意味、自分の生活を後回しにしても。

佐 もうひとつは私のところはけっこう、ニートであったり障害を持っていたり健康に不安があったりとか、割と弱い人たちが来る場なんで、エリート主義にするのは難しいんですね。私自身、能力やフィジカルが秀でてる人間ではないので…そういう人間でも変われる、という部分に価値があるのだとしたならば武術に効率を持ち込んだらいけないのではないか。

豪 まさに浄土教じゃないですか。いわんや悪人をや。(笑) その思想に反する訳ですね、そもそも。それ面白いですよね。

佐 でも、武術自体は効率厨みたいな部分がある訳で。

豪 ええ、そこにまた矛盾があるのが面白いですね。

●8 弟子の育成について

佐 わからないんですよ、結局。釈迦の弟子もアナンダが継いでいるし、キリストも迫害していたパウロが継いでいる。武術自体、人間が変われる存在であることの証明みたいなものなので、今どんなクズであっても、あるいは才能がないようにみえても、後にどういう羽ばたき方をするか。
最近、私はもうそういう見方で見ていないんですけれど、「こいつはモノになりそうだな、ならなそうだな」って…

豪 あまり関係ないですよね。

佐 予想通りに全然なっていないですよね。

豪 ならないです。長期視点でいうと、最初のうちの筋が良いとかやる気がありそうとかは全然あてにならないですね。武術の修得すべき知の体系が大きいので、初期のちょっとした伸びの良さとかはほとんど関係がない。ちゃんと真面目に続けるかどうかだけですね。

佐 なので弟子に対しては、こちらが労力をかけても何者にもなれなかったとしても特に何も。明日、世界が終るとしても種を蒔くだろう、位のつもりで。

豪 そうなんですけどね。確かに。(笑) その通りなんですけど、それで終わりにしちゃ駄目じゃないですか。そういうことで解消出来ちゃうんですけど、ある意味。問題を解消したのであって解決はしていない。そう言ってしまうと逃げになっちゃうんで。

佐 ま、やってる人にとっては来てよかったな、と思えるだけの事は与えているとは思いますけどね。投げっぱなしジャイアントスイングみたいな結論ですけど。(笑)

豪 え、それでいいんですか? 面白いおじさんで良いって事になっちゃいますよ。ちょっと週一回行って、ちょっと運動して、ちょっと面白いおじさんがいるから良い、みたいな…。(笑)

佐 でもコンセプトとしてはそれで間違ってないかもしれないですよ。そこから「この楽しい毎日が終わりなく続けばいいのに。殺されたり怪我したり病気になってこれが終わるはやだなあ、強くならなきゃいけないな」みたいな、豊かな生活を守るために強さへのモチベーションがあってもよいのかな、と。やっぱり命に価値があるから命を守る必然があるんで。

●9 現代の死生観

豪 ああ、そうですね。でも思うのは、生存本能自体、最近の若い人ってどうなのかな、と思って。

佐 自殺する人とかもいますからね。

豪 そうだし、すごく虐げられて暴力的に攻撃されても反撃して身を守るのではなくそのまま死んじゃう人が多いのではないかと。

佐 その点でいうと共産党の人とかが「自衛隊は人殺しの訓練をしている人たちです」みたいなことを言いますよね。我々からすると、「うん、で? それって普通じゃない?」っていう。(笑) それを何かものすごい悪いことのように言うじゃないですか。

豪 まあ「人殺し」というと犯罪の文脈で使われるから。ミスリーディングを誘っている。

佐 はっきり言って日本人がこうやって裕福に生きているだけで、地球の裏側では人が死んでいるんですよ。我々は常に見えない加害者だし、それを無自覚にやっている方がたちが悪いんじゃないの? というね。

豪 無自覚なまま、予想外の事が起きたら死んじゃえ、 それでいいやという人の方が多いんじゃないかと思う。最近は。

佐 そういう意味ではこれも絡めていきたかったところなんですけど、「自己責任論は優しくない」みたいな話がありますよね。でも武術って根本的に、それこそ吹き矢で撃たれようが落とし穴に落とされようが、それを想定していない自分が悪い。

豪 究極の自己責任論ですよね。

佐 ええ、別に人助けが悪いとか言っている訳じゃなくて、ひとつしかない自分の生殺与奪権を他人や制度に担保してもらうって、なんでそんなことが出来るのか逆に恐ろしいんですけど。

豪 それはまったく僕もそうだし、恐らく武術家を名乗るような人なら全員そうだと思うのですけれど…意外とみんな多分そうじゃないんですよ。

佐 だってそんな安全保障って犬猫で言ったら、うちに居れば安全だから一生首輪につながれて家から出るな、というのと同じでしょう?

豪 たぶんそうですね。その方が良いっていう人の方が多いんだと思いますよ。

佐 それでいいんですか? 本当ですか? だとしたらこれだけ一般層と感覚が乖離している時点で我々は一般層にアプローチできるんでしょうか?(笑)

豪 その感覚の回路がない人が実際多いから、ブラック企業で働かされて過労で死んだりするじゃないですか。普通に考えたらなんでそんな状況になるまで働くのか。命の方が大事なわけじゃないですか。収入より。考えられないですよね。

佐 いじめられて自殺とかね。学校のいじめなんてまだ未成年なんだから、相手の家を夜中に燃やして殺しちゃったって出てこれるんだから。

豪 おそらく武術家の平均した回答ってそれですよね。自殺するくらいなら相手殺せば? っていう。でも今はその常識逆なんですよ。相手殺すくらいなら自分が死んだ方がいい人が多いんだと思います。

佐 良いも悪いも、死んだらその良い悪いを判断する主体の自分が消滅してしまうんだから、そんな選択はありえないと思うんですけれど。

豪 たぶん判断権を委ねている状態の方が楽だし、社会も親もそうしなさいと強要してきている状況なので。そうなっちゃうんだと思います。…自衛隊が人殺しだ、という主張、僕はあれは平成の現代が作り出している部落差別だと思いますけど。必要で誰かがやらなければならないことなのに、それをけがらわしいとして差別する。これって完全に部落差別の構造ですよね。

佐 ああ、なるほどねえ。

豪 じゃあ誰がやるの? って話だし、実際誰も守らなくて被害を受けたらまた文句をいうと思いますよ、そういう人たちは。

佐 いやあ、共産党的な主張でいうと敵が攻めて来たらみんなで死にましょうという…「おまえら国民は死ね!」って言っているんだよね。

豪 でもそれっておかしくないですか? 共産党は労働者の生存権や財産権を守るために立ち上がって革命を起こしたんじゃないですか。そのために戦いを仕掛けに行って相手を殺してきたんですから。今の日本のそれは正当な共産党主義じゃないと思いますよ。

佐 それは彼らのズルいところで我々は文革やポルポトの二の轍は踏まない、という共産主義の中のフワフワしたユートピア主義だけを都合よく抜き出している。

豪 とにかく戦いとか暴力に関係すること自体悪だし、そのことを想定するのも悪という風潮がどんどん強くなってきているんで。

佐 強盗が入るからカギをかけましょう、というと、その発想自体が犯罪があることを肯定している、おまえみたいな人間が強盗になるんだ、という。じゃあ火の用心で回っている人たちは放火魔なのか。(笑) 親が子供に「知らない人についていってはいけません」と言ったら「犯罪を肯定するな! 悪いのは犯罪者で被害者は悪くないんだから自衛する必要はない! 私は知らない人に断固ついていく!」っていうのか。

豪 これは僕は単純に言葉が混同されているからだと思いますよ。原因責任と当事者責任は違う。

佐 そうですね。よくある「いじめられた方にも責任がある」っていう話と同じで。問題があるのと善悪は別の話なんですよね。

豪 そう、原因があって「悪い」って意味じゃなくて、当事者能力として現実なる問題にもっと対処しようよ、というのが同じ「責任」という言葉で混同されているから。

佐 で、これ武術の根本的な話だと思うんですけど、問題が起きたときに自分に原因があるからそれを改善しよう、という方向に行かないで、他者のほうが改めるべきだ、と考えるなら武術ってまったくいらないものですよね。

豪 そうですね。武術は自分が変わるのと相手を改めさせるのと両面あるんじゃないですか。自分のエゴのために相手を殺すんですから他罰的でもある訳ですよね。それと自分が望むある状態を達成し続けるために、自分が変化しないといけないというのと二重の論理で。
だから両方の回路がないのかもしれないですね。自分の身を守ったり、望みを達成するために相手を害してでもやらなければいけない局面があることをまず認められないし、その厳然とした宿命的要件を与えられるという事自体、想定しないから、自分が変わらないといけない必然がない。

佐 単純にいえば饅頭が一個しかなくて食べなきゃ死ぬんだったら相手を殺してでも取らなきゃいけないですからね。

豪 自分が死んでもいいんだったら饅頭を取る技術はいらない。

佐 でも本当に死んでもいいと思っているのかといったらその覚悟もないと思いますよ。単純に、そんな恐ろしいことは考えたくもないという思考放棄でしかないですよね。多分。それは戦争に対しても同じでしょう。

豪 そうだと思います。ええ。

佐 でも本当に戦争が止めたいのなら戦争について誰よりも理解していなかったら止め方も分からない。

豪 医者がけがや病気に詳しいのと同じですよね。その状況を望んでいる訳でなくて、対処するために詳しくなければいいけない。武術はそれと同じだと思います。
…体験が少ないんじゃないですかね。自分の意志とか存在とかとは無関係に厳然と存在する問題とか暴力とかに出会っていないか、出会っていてもそれを内的に無いことにしてやり過ごしてきてしまった人が多いんじゃないですかね。

佐 あるいは現代に関わらずそういったレギオン的な、何も考えていないそういう人はいっぱい居たんだけれど、その人たちがSNSなどの発信ツールを持ったことで…

豪 声を持ってしまった。

佐 で、その人たちが声をあげると大多数意見、マジョリティになってしまう。だけど何一つ意味のないマジョリティ。

豪 ヘゲモニーですよね。質的ではなく数的な。

佐 それって恐ろしくないですか?

豪 恐ろしいですよね。この生活が破綻して崩壊するという事を真剣に想像したことがないんじゃないですかね。想像せざるをえない体験をしたことがないというか。とりあえず戦争反対、暴力反対と理想論をいっていればもつと思っている。

●10 予想外の結論 

佐 昔から日本は王道楽土的な…そういう気質なんだよね。

豪 貴族文化はそういう傾向ありますよね。実際かなり長い間、海で守られて安穏として来られたから…たぶん何も変わってないんですよね、そのころから日本の社会って。民主主義が定着しないと思いますし、個人主義も定着しないと思います。何も変わっていないし、これからも変わらない。

佐 定着はしないけれど、抑えつけられると必ず我々のような存在は出てくる。『地球へ…』のミュウとかそういう。

豪 異分子の(笑)

佐 そういう人たちがメインになっているから武術がマイナー止まりにしかならないのかなあ…。

豪 そうですね。そう考えると武術をやる人の傾向自体が非主流派であって。現状への批判者、何かおかしいなと思う人の集まり。

佐 むしろ、そもそも文化ってそういう人たちのものじゃないですか。

豪 そうですね。創造者、逸脱者ですからね。

佐 アウトサイダー。コリンウィルソンいうところの。読んでないから今、適当に言いましたけれども。

豪 と、いうことは一巡して今日の話になってくると、主流派に向けてアピールして大多数層を迎え入れるっていうのは…。

佐 間違っていますね。おかしいんだな。そうですね。これは…結論としてはそうなっちゃいますね。

豪 まあ、言葉にしてこうやってはっきりしてきたのって今の対談の中でなんですけれど、僕はもう、そうなってきていて、多くの人に受け入れてもらおうという意識はあまりないんですよ。むしろ先天的にこれをやってしまうというか、やらざるをえないというか、そういう資質を持っている人で高めていこうよ、という。

佐 そういう人たちに届くメッセージをもっと広く深く、というのが一番…。

豪 選民思想とか、そう出来ない奴らを蔑むとかじゃなくて、武術を楽しめる人って限られているんじゃないかと。

佐 これは多分、ラッパーとかメタラ―とか、特殊なジャンルの人たちは皆同じように考えていて…「俺たちはここにいるぞ」と。灯台として光を放って。

豪 言っていかないと無視されてしまう存在ってことですよね。武術って在り方として今、実情に即していないのは、結局、武士が政権を取った時代が800年間くらいあるからだと思うんですね。そして特に江戸時代、武術という一つの愛好文化が武士の表芸として主流になった時代が260年間くらいあるんで、何か主流派というか日本の中心文化的なものに属していると勘違いしてしまうんですけれども。

佐 手厳しいですね。(笑) でも「サブカルチャーじゃねえんだよ、俺たちがメインカルチャーなんだよ」っていう気持ちは…。

豪 そう、それを自発的に言っていく動機は分かるんですけれど、恐らく違うんですよね。だって武士の人口比率って常に10パーセントを超えたことがない訳じゃないですか。そして日本の多くの人は、貴族文化、王朝文化の為政者含めて暴力的なことから目を遠ざけてきた。そこに敢えて突っ込んでいこうというのは少数派なんですよ。少数派の文化がたまたま政権を取ってしまった時代があるだけで、自分たちを本流と考えているのは改めた方がいい。

佐 もしかしたら我々が語っていた文脈というのは、もしかしなくても本気で茶道とか…ラップでもなんでもいいんですけど、何かの文化に携わっている人は皆、同じことで悩んでいて、俺たちは滅ぶんじゃないのかって考えていると思う。そこで、横でつながって団結するというか、まあ団結して多数派になろうっていうのは、また気持ち悪いから違うんですけど…何か文化同士での横の連帯があると。

豪 そうですね。少数派であることは認識したほうがいいですけれど、孤立してはいけない。孤立すると先鋭化していって自滅するので。相互に連携を計っていくべきですね。



後半まとめ

広汎に広がった話がまた元の主題に帰結していくという、前半部でのミクロとマクロのむすんでひらいてに対応するカノンのような対談で非常に面白かった。
豪先生からは、やたらと献身的である、という評価をいただいたが、実際には私は先渡しで武術から多くのものを受け取り、そのおかげで今の私がある。武術がなければまっとうには生きていなかっただろうし死んでいたかもしれない。
もともと私は復讐という明確に人を殺傷する目的に武術を始めたのだが、そうした最低最悪の始め方をした人間であっても、それを実行することもなく、もっと豊かで自由な世界があるということを武術に気づかせてもらった。
だから誰であっても変われる可能性はあるし、そうした機能を持ちつつも世の中から認知されていない武術という文化を一人でも多くに伝えねばならないと思っている。しかし、いかに献身しても武術から受けた恩恵を返しきれないし、武術というものは不思議なもので、与えるほど豊かになっていくので恩はますます増えていく一方にも感じている。

そして武術を主流層にどうアピールすべきかという討論は、武術は主流層にアピールしてもしょうがない、という予想外の結論に至った。これもまた前半部に出てきた「欲しいものではなく必要なものを渡されたときに受け入れるのが武術」という話につながっていくと思う。
ただ、そこまで明確に主流、異端という境界はなく、一人の人間の中にも、それは分裂してあるものだと思うので、そのわずかな欠片にフックするような何かを全方位に発信することはまったくの無意味ではないとまだ思っている。ぼっけもん豪先生、長い時間ありがとうございました。