動画三本 

最近の動画から






圧縮と解凍 

大体の人は殺されたくないと思います。
死にたい、自殺したいと思っている人でさえ、他人に殺されるのは嫌だと考えるのが大多数でしょう。しかしこの世にはこちらを殺そうとしてくる存在がいます。すると、殺されたくないというこちらの要求と、殺したいという相手の要求の間に齟齬が生まれます。

なぜ我執を捨てる、ニュートラルであるということが必要かというと、武術はこの構造の中のどこに位置するかというと、自分と相手の間にあるものだからです。

人間は自分本位に考える癖があるので、我があると「私が殺されたくないのだから相手は私を殺さないに違いない」という超希望的観測をもってしまい、自分を殺そうとする相手に「やめてください」「暴力は良くない」などのズレたことを言うようになってしまいます。生き延びるには、相手から見て「じゃあ殺すのはやめましょう」と思わせるような、もう少し気の利いた交渉が必要です。

お金が目当てなのか、快楽殺人者なのか、こちらの振る舞いに怒っているのか、面子の問題なのか、問題の核を捉え、相手が引き下がるような受け答えをしなければなりません。その中に戦って倒すという選択肢も含まれる、というだけです。

そういう意味では武術家はアンバサダー(大使)でありネゴシエーター(交渉人)です。対岸をつなぎ一つとする架け橋であり、相手の要求の核を探り当てるカウンセラーでもあります。
夫婦の問題がこじれているときに介入したカウンセラーが男尊女卑の考え方であったり、あるいはその逆であったなら、問題はこじれる一方でしょう。だから武術家はニュートラルな存在であることが必要になります。
そもそも襲われる側は戦う相手を選べない、という問題があります。そうなるとその場の状況に応じ、手元にあるもので戦うしかないので、必然、ニュートラルにならざるを得ません。

しかし稽古時間は有限で、全ての項目への対応を個別に学ぶことは不可能です。どうすればいいでしょう?
そこで生まれたのが、似たケースを同類項に分類して、出来るだけ同じ方法論で解決するようにあてはめていく、という考え方です。たとえば、パンチというカテゴリで分類すれば直突きとフックを一つにまとめることが出来ますし、運動の性質に焦点を当てた場合は直突きはフックより槍の攻撃に近く、フックは下手投げに近くなります。
このように性質を一本化できる行動はまとめていく、という考え方が武術に一般的にあります。捨象と抽象化という概念です。これが武術と魔術を兄弟たらしめている部分です。二つの世界、あるいは願望と実相を抽象を以ってつなぐことが術の本質です。


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・野球拳の発生

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・堺正章と達磨一家

最初から抽象化されたものを学んでも意味が分からないので丸暗記することになります。
しかし洗練し圧縮されたものは解凍しないと実用化できません。
白桃会が技でなく技に対する考え方を教えている、と繰り返し言っているのは、この圧縮の仕方、解凍の例を見て、術者としての観方を身につけるということです。

吉祥寺カルチャーセンターで講座をひらきます 




この講座では『ふわふわ柔術』と題しまして、柔の技法に特化した内容の稽古をします。
武術は一種の外交ともいえますが、童話『北風と太陽』の例のように、倒す、勝つ、といった方法以外の解決が求められる場合もあります。
柔軟な思考と発想、心身を作ると、あらゆる局面で摩擦や衝突が減るので、穏やかな心持ちで過ごすことができます。


初回、二回目は540円なので、普通に白桃会の稽古に出るより660円お得です。

いつも稽古に来ている方も経費節減になるのでよろしければどうぞ。

武術と俳句 

先ごろ、花見の際、元弟子のSさんに俳句を教えてください、と頼まれ、小金井の教室の生徒さん数人を中心に吟行の引率をすることになりました。
私の俳句は有季定型や写生句ではないし全くの独学ですから、初心者に道をつけるには不適当だし、もうずいぶんと句作からは遠ざかっていたので前に断っていたのですが、是非にということでやることになりました。

俳句と武術の関係に関しては前にもいくつか書いています。

引き算と割り算

武術と自己同一性

そのときの講義、というほどでもないですが話したことが武術的にも関連することだったので書き記します。自分で自分の講義録を残すというのは自己顕示欲が強くてダサいけど大目に見てください。

最初に話したのは「なぜ人は俳句を作るのか」ということです。
私は端的に言えばそれは「感じ」を伝えるため、と言いました。

武術では全人間に通底する最大公約数的部分に働きかけることが求められる、と幾度か書いてきました。感じ、クオリア、そういうものの共有を前提にしているという点で俳句はかなり武術と共通する部分があります。

たとえば、赤系統の色を暖かみ、青系統の色を涼し気、と感じる感覚。こうしたものが前提にあるので、特にわざわざ寂しい、とか嬉しい、とかいう語句を入れなくても、特定の語句を入れれば何を感じたのかが共有される訳です。
是風会の高無先生はさらに一歩踏み込んで共感覚の話にも触れています。




感じ、には名づけられる喜怒哀楽と、それ以前の名づけようのない感じ、心理学でいうアフェクト(affect:情動・心に働きかけるもの)があります。これを留めたい、そして人と共有したい、というのが人が句作する理由です。

なので、吟行以前に歳時記を引いたり、無理に心にもない句を作る必要はないと言いました。

何か(花鳥風月:つまり、景色、生き物、出来事、無生物)を見てそれに心が動くか、それから過去に思いをはせて連想した何かがあったら句にすればいいし、何もその日は出来なかったらそれはそれでいいと。
早川義夫の「声を出さなくとも歌は歌える/歌を歌うのが音楽ではない」という言葉を借りるなら、作らない、作れないというのも含めて俳句です。

無季の俳句と川柳を分かつもの、あるいは自由律で数文字しかない句でもこれは俳句だ、と認識されるものは、この「感じ」があるかないか、でしょう。「わびさび」とか「俳味」とか言われるものです。
で、それは何かと聞かれると、あの感じのことだよ、としか言えないので、まあ不立文字です。そしてこれは、それこそ共感覚的なものです。有名な、

古池や蛙飛びこむ水の音

という句。あれが最も有名な句であるのは、その「感じ」をよく伝えているからです。

まず、文字で音をあらわしている。
それどころか、音ではなく、音が消えた後の余韻、静寂をあらわしている。
あまつさえ、音だけでなく情景、視覚情報をあらわしている。

文字情報でありながら聴覚情報も視覚情報も喚起できる。つまり、これは共感覚ありきの文芸なのがわかります。

吟行ではこれに加えてもうひとつ、沢木耕太郎の『一瞬の夏』に出てくる逸話を話させてもらいました。
それは、沢木氏がプロボクサーのカシアス内藤に世界戦をさせるため、身銭を切ってスタッフとして応援していた時の話です。世界戦が相手の都合で流れる、プロモーターとゴタつく、生活のために内藤氏が夜のバイトをせざるをえなくなり、やさぐれ、緊張の糸が切れかかる、という険悪な空気の時の事です。

沢木氏は自分が世界を旅していた時、バスで走っていると犬が全力で追いかけてきた、という話をします。
それは羊飼いの犬でした。
犬は羊を守るためにバスという巨大な「敵」に死に物狂いで向かってくるのだそうです。

沢木氏はそのたびに言い難い感情に震えたといいます。どんな犬でもバスを見たらそうした、と沢木氏は言いました。
内藤氏はその話を聞き、思うところあってまたボクシングへの情熱を取り戻します。
それは教訓話ではなく、沢木氏のアフェクトが内藤氏に伝播し追体験され、共有されたからです。

俳句の初心者に話す内容として何を持ってくるか悩みましたが、そういう話をさせてもらいました。

繰り返し、元弟子に伝えてきた、認識外の領域を認識するというのも、そういう事を含んでいました。スポーツ選手がボールの縫い目まで見えるような集中状態を「ゾーンに入る」と表現しますが、これも知覚と認識が別のチャンネルになった状態です。
火事場のクソ力とか、死に際の走馬燈という例もありますが、武術ではこうした知覚を常時発動できるようにする必要があります。

そのカギは何度か書きましたが遊びにより入神した状態の中にあります。

楽しい時間は速く過ぎ、苦痛は長く感じる。
遊びで入神している状態の集中力は数時間を一瞬に凝縮します。それはなぜか。
私の推論では、おそらく、チャンネルが違うから、経験が普段の意識のフォルダではない所に記録されているのです。
痴呆になって朝食べたものが分からなくても昔のことは覚えている、というように、脳は短期記憶と長期記憶を別のフォルダに分類しています。しかし、入神している間の行動や動作はおそらくそのどちらでもないフォルダに収納されている実感があります。

日常の意識では短期記憶or長期記憶のAorBのどちらかしか呼び出せない。だから全身全霊で全部の棚をサーチしないとそのフォルダは存在を感知できない。しかし一度分かってタグをつけてしまえばいつでも呼び出せるし、それが必要なときは自動的にそれ優先に切り替わるようになる、というのが私の感覚です。太極拳、意拳、剣術、囲碁将棋などは比較的それを得やすいメソッドでしょう。
儀礼、魔術、茶道なども、そうした状態を作りやすいプロセスです。何かよく覚えていないけど凄い体験だった。感じがあった。それをもう一回味わいたいからまたやる。滝に打たれたりもする。しかし入神中の事は日常記憶には残らないので白昼夢のような淡い感じしか残っていない。
物凄くおいしいものが、一瞬に夢中で食べてしまうがゆえに味の記憶がおぼろげなことや、最高のパフォーマンスのときに本人がそれを記憶していないのもこれに関連がある気がします。それを意識的にコントロールして留めよう、というのが武術や俳句のやっていること、とも言えます。

さて、句会自体は私の心配をよそに、どう作ればいいのか分からない、と言っていた人たちが、ポンポンと五句、六句と作っていたので良かったと思います。
しかし、残念なことに、あれだけ嘘の気持ちで作るくらいなら作れなくてもいい、作らなくともいい、と言ったのに、私自身がお手本を作れといわれ、渋々作ってしまったのは間違いでした。
心が動いていないのに技巧で句を作るのは不毛だ、という反面教師にはなるでしょうが、無理に自分の中から出ていない句を残した、というのは慙愧に耐えません。

どんなお笑い芸人であっても「あのギャグやって」と言われてやらされたら面白くもなんともないでしょう。笑わせたいという自分の意思と笑いが生じる空気の感じが揃っていなければ無意味なのと同じです。見せるなら、作りたいと思わないときには絶対に作らない、という態度を見せた方が学びになったと思います。

飲み会での下戸に対する一気飲みの強要のように、句作の強要を許す空気は俳句ハラスメントとでもいうべきものです。勧める側は無邪気で悪気はないのでしょうが、俳人というほど俳句に思い入れのない私でも、それに拒絶感がある程度には一句に重みを感じる。俳句というものを軽んじられない敬意があります。

強要、義務感は遊び、入神の対義語のようなもので、やらされた遊びに楽しみはありません。
そこから生まれるものは限界があります。『ピンポン』で風間がペコに勝てなかったのと同じです。

伝えたい感じがないのに技巧で句を作るというのは崩れていない相手に手順とマニュアルで技をかけようとするようなものでしょう。それは自殺行為です。思ってもいない言葉を残すというのは、心のこもってない「愛している」とかと一緒で、言えば自分の心を乾かし、殺すものになります。



最近のツイートから(小ネタ) 

≪ピンチさえチャンスにタフに変身≫

逆説的だけど武術が世の中に認められるためには、まず冷遇され、否定され、必要性を疑われる必要もある。
この間、どこかの政治家が学芸員は不要と言ったことで、学芸員はこういう必要性があるのだ、と周知できたように。
高無先生がビデオを出せたのも、ある意味「二刀流って本当に使えるの?」という声に対するカウンターの意味もあるだろう。
死んでしまう文化は問題提起ができる、不要論に反証を出せる、というチャンスにさえたどり着けない。

否定、批判ですら関心がもたれるのは必要なことだろう。

《前後のカウンターバランスについて》

ケトルベルを直立して水平に腕を伸ばして前習え状態で持ったらきついだろう。
また、空気椅子でスクワットをしたらつらいだろう。
じゃあ、この両方をいっぺんにやったら凄いパフォーマンスだろうか?

いや、前の重さと尻の重さが前後でカウンターバランスになるから楽になる。重量挙げの選手が棒立ちではバーベルを挙げられないのと同じだ。尻を落とすことが腕を挙げる動作を補助している。

これは鉄線功とかで両手を前に突き出すのと同様で、体を後ろに落とすことと拳を前に突き出すつり合いを取って突きの反作用の戻りを相殺する感覚を育てているのであって、スクワットの負荷を上げているのではない。むしろ楽にやるコツを覚えている。
考えてみるとティラノザウルスが強大な顎を持ちながら二足で走れたのも顎に負けない重さの尾で前後のカウンターバランスをとっていたからだろう。最大の攻撃力を得るのに必要なのが直接、牙とは関係ない尾というのは武術的といえる。