カンフーパンダ考 

3Dアニメーション映画『カンフーパンダ』シリーズは東洋思想、武術の本質をわかりやすく描いている。

以前、東洋思想の入り口としてはユングが良いかもしれない、と書いた。
それは西洋人が西洋人向けに書いたもの、つまりゼロから学んだ外部の人間がそれを同じく予備知識のない人に伝えるために書かれたものだから、そして今の日本人の伝統文化に対する感覚はむしろ西洋人のそれに近いからだ。
その意味ではカンフーパンダも同じ構造をもっていて、さらに子供向きである、という点で、わかりやすさに関しては群を抜いている。

話の大筋としてはひょんなことからカンフーのグランドマスターである「龍の戦士」の後継者に選ばれたカンフーおたくのパンダのポーが一人前の武術家になっていくというありふれた物語だが、師匠であるレッサーパンダのシーフー老師もまた弟子によって育てられる、師は弟子によって師になっていくという部分が描かれている。

実はシーフー老師は過去に弟子の育成を失敗している。
老師は寺の前に捨てられていた赤子(ユキヒョウ)に武術を仕込んでいた。作中では幼少時にカンフーの才能の片鱗を認めたから教えた、と言っているが「龍の戦士」の巻物を守るカンフーの総本山で、その子に大龍(タイラン)と名付けて育てたということは、最初からその赤子をゆくゆくは龍の戦士に、という気持ちがあったのではないかと思う。
タイランは龍の戦士になるべく育てられた。しかしグランドマスターである亀からは認められなかった。その結果、タイランは荒れ狂い、獄につながれた。

では、なぜ努力して才能にあふれたタイランが選ばれず、才能のない偶然選ばれたポーが「龍の戦士」なのか?

このブログの読者であれば、考えるまでもなくホイホイ答えは出るだろう。
が、このテーマを西洋人、ことにチャレンジとフロンティアスピリッツでサクセスするのがアメリカンドリームだという思想、プロテスタンティズム的、アスラ神族的な世界観の人にはどうしても納得のいかない部分があるだろう。
同じ武術であっても大会で優勝するのを目指せ、昇級審査で黒帯を目指せ、というようなタイプの流派に身を置いてきた人にも通じにくい話ではある。

私の弟子にしたところで「目的意識を持つのが悪いっていうんでしょ。わかってますよそれくらい」と鼻の穴を膨らませるが、ちょっと壁にぶつかるとすぐに「私より強くて才能のある瀬尾さんを弟子にすればいいじゃないですか」とか言い出す。

そのたびに私は「なぜあなたは誰を弟子にすべきかの判定が出来、その権限があると思うのか? 私にすらないのに」という話と「武術は自己を最も身近な他者として扱う。弱くて才能のない人間は資格がない、という言葉は自分を指したものであっても差別主義を含んでいる」という話を百万遍もしてきた。根っこのところではタイランを良しとする思考が抜け切っていないのである。

なので弟子にこれを公案として考えてもらった。「達磨はなぜ西から来たのか」ならぬ「タイランはなぜ選ばれなかったのか」である。それがこれである

上手くはまとまっているが、これは作品の中の言葉で作品を解説した域を出ていない。
前述したような自身のもつ劣等感や差別意識にまで踏み込み、「自分の中のタイラン的なもの」との決着をつけなければ公案としての意味は薄いだろう。ポーとタイランと自分を重ねて我が事として見なければ、モニターの向こうで面白いお話をやっているなあ、いやはや勉強になりました、としかならない。この話は全然他人事ではないのだ。

なぜタイランは選ばれなかったのか? あるいはポーが選ばれたのか?

それはこの記事の冒頭部分でもうっすら答えが出てしまっている。ユングが、カンフーパンダが東洋思想から遠い西洋人が作ったものだからこそ最良のテキストとなりうる、という逆説。
これは隆慶一郎の『風の呪殺陣』で努力家の昇運が信長への復讐に囚われ、お調子者だった好運が阿闍梨への道を進むのと相似だろう。釈迦がアナンダを選び、キリストがパウロを選んだのも同じ理由だ。

私も190cm100kgくらいの体格があったら武術をやろうなどとは思わなかっただろう。自己に頼っても何とかなってしまうからだ。才能がないのに後継者なんて、ではない。才能がないから絶対他力に委ねられる。純度100%の武術そのものになれる可能性がある。
シーフー老師の一番弟子、マスタータイガーはポーのへっぽこぶりを見て、「あなたはカンフーを侮辱している」と言う。
長年修行してきた自分たちを差し置いてぽっと出の能無しが後継者なんて…という気持ちから出た言葉だ。
しかし侮辱してるのはタイガーの方なのだ。
なぜならカンフーはあらゆる人(パンダ)を導ける、あらゆる人は強くなれる、という前提があるから。
それを否定して一部のエリートのみが変われるものとするなら、それはカンフーを卑小化し、個人より下位に置いている。

ではタイランはどうか? 生まれた時からカンフー漬けでカンフーの申し子だった。だったら純度100%のカンフーそのものではないのか? それは残念ながら違って、彼は空っぽだった。

東大に入ることを目的に勉強してしまった人はそのあと、研究者として大成しないという。一番進んだ研究が出来るから東大を選ぶ人が研究者になる。東大に入りたい、と学問がしたい、は全然別の話だからだ。
タイランはマスタードラゴンになりたい、師父に認められたいと思っていたが、カンフーをしたいと思ったことはなかった。彼はカンフー自体に意義を見出して始めた訳でもカンフーに敬意を持っていた訳でもなかった。そういう人にとってのマスタードラゴンの称号は空虚なトロフィ、単なる呼称でしかない。

弟子のレポートで「師は入門者がものにならないかどうかがわかる」と書いているが、唯一無二の条件はそれしかないのだ。自分の学ぶものに対して敬意があるかどうか。ポーにはそれがあった。

タイラン(大龍)と同じ「ドラゴン」の名をもつ松本大洋の漫画『ピンポン』の風間は常勝を義務づけられ、努力で「反応速度を人間の限界まで反射に近づけ」てきた。一方、ペコが「卓球そのものであろう」とした。
カンフーパンダでポーが資質を見出されるのは、鈍臭いはずなのに戸棚にお菓子があると聞いたら「気がついたら高い所の菓子を食べ終わっていて本人もどうやって登ったのか覚えていない」というシーンで、これも反応ではなく菓子・即・食という境地にいるからだ。それは努力では達せない。
なぜなら努力を要するということはなりたい対象と自分の間に距離があるということを認めることだからだ。
たとえば恋人に「私は一生懸命あなたに対する嫌悪感を克服するために努力している」と言われたなら、それはそもそも無理だろうとわかる。

修行は一見努力に似るが、何かを獲得するために色々するのではなく、真我に至るために今まで獲得したものを捨てている。積み重ねるのではなく削ぎ落とすものだ。その逆説があるからシーフー老師もまたポーに与えることによって救われた。

多くの人はタイロンの、風間の、昇運の道、努力と目的意識の修羅道を歩む価値観を疑わない。
が、自己努力が自意識を肥大させるほど、自分の存在より大きなものへの目を曇らせる。
武術を自分より大きなもの、海として捉えれば、その中に入ることができ、恩恵がある。しかし自分が武術を使役するという見誤りは、海を飲み干そうとすることに似る。心身に異常をきたすし、自分では限界まで強くなった、何かを得たと思っても、それはその人の腹がパンパンになったというだけで、海を飲み干した訳ではない。

カンフーパンダ3でポーは戦士から指導者になり、かつての師であったシーフー老師が逆にポーを師として礼を執る。これもまた個人として競争原理で生きてきたなら「屈辱的」と感じることだが、シーフー老師はそれを喜びとして迎えている。同じ海にいるのならそこに彼我の差はないからだ。そしてこのシリーズで一番成長したのはポーではなくシーフー老師なのだ。

ポーが祭りで偶然選ばれたように、縁、運命ということで言うならタイランも実際に運命に選ばれていた可能性がある。
しかし、シーフー老師はタイランを真我に導くのではなく、作為をくわえた「自分の思う龍の戦士像」に育ててしまった。作為が介入した運命は運命ではなくなってしまう。これは指導者や占い師にとっては怖い話でもある。この話はどこの誰を切り取っても、他人事ではないのだ。

才能ある人間が武術の可能性を広げるのはとても良い事だ。しかし、それが全てではないし本筋でもない。なぜなら極論、人はいつか死に、地球は氷河期に入り、太陽は爆発するからだ。
それを前提に踏まえるなら、意味は常に今この瞬間にこそあるし他者との比較は意味を持たない。

視覚障害者のための護身術のおしらせ 

7月16日月曜日(海の日)の17:30から視覚障害者のための護身術講習会を行います。

場所:西池袋第二区民集会室 会議室
料金:3000円

また、7月から小金井市総合体育館で、毎週金曜日16時から17時に、視覚障害者のための護身術を定期教室で教えることになりました。こちらの詳細は042-386ー2120へ直接お問い合わせください。

実際的な危機に対する技術はもちろんのこと、武術という文化の妙味を楽しんでいただけるかと思います。
もし、身近に視覚障害の方がおられましたら、こんな教室があるとお伝えください。よろしくお願いします。

※誤った時間を表記していたので訂正しました。すみません。

迷信の効用 

あちこちで大きな地震が続いた。
こういうときに話題になるものに奇怪な雲を見た、地震の前触れだったのでは、という「地震雲」の話である。

古来から人は天地人は何らかの相関関係があると考え、生まれ月に星座を当てはめたり、白虹が太陽を貫くと革命が起きるとしたりしてきた。地震雲も今のところ科学的根拠はないのでそうした類と思われる。
では迷信か、そんなものを信じてるやつは馬鹿か、というと、そういう短絡こそが愚であろう。

ベネディクト・カンバーバッチの演じるシャーロック・ホームズのドラマで、酒に薬を入れられたホームズがいつもの「人を見ただけでその人が何者で何をしようとしているのか推理する」能力を発揮しようとした際、先に相手が死のうとしていることが分かり、なぜ自分がそう推理したかは上手く説明ない、という描写が出てくる。

推論は論、ロジックを積み上げて重ねていくことで答えに至るが、推理はシャッフルされた断片をジグソーパズルのようにつなげるのだろう。だから先に答えが出てしまうことがある。全部つなげたから何の絵のパズルかわかるのではなく、途中で何の絵か分かって確認作業としてピースをはめている。
たとえば婚約者の男性が電話で母親に「ママ~」と言っていたら、その断片からだけでも結婚生活が失敗に終わることが予期できるのと同じだろう。

人間は色々なことを感じ取っている。しかしそれを明確に言葉に出来ないでいる。あるいはそれにぴったり当てはまる言葉自体がない。しかし何かを見た瞬間にパズルの中核のピースが埋まる瞬間がある。

地震雲もそれで、地震雲が出たから地震が起きるのではなくて、無意識下にいくつかの断片的な天変地異の前触れを感知していて胸騒ぎ、予感があり、雲を見たことでそれが言語化される、という「卦」として機能している可能性はある。

少なくとも雲を見て地震雲だと思うことは「今自分にとって地震が大きな不安としてある」という心理分析、ロールシャッハテスト的な意味はあり、それは馬鹿に出来ない。その意味ではまさしく天地人は対照しているのである。(運動前の静的ストレッチには怪我を防ぐ効果はないといった説も一見「科学的」に見えるが、こうした内観から自分の違和感を読み取ったり注意を喚起するという効能は考慮されていない。運動の研究者は運動のことしか見ていないから)

人間は完全な客観を持ちえない。我々が知覚しているのは現象ではなく現象に反響した自我だろう。
たとえばFXを始めたいとぼんやり考えている人の家の庭で白蛇が現れて消えたとする。その人は白蛇が現れた! 瑞兆だ! FXのはじめ時だ! と捉える。一方、漠然と暴落の不安を感じている人は白蛇が消えていったと捉え、不吉、やめ時だと考える。

ちょっと話はズレるが、これを考えていくと、人間は理由があって行動するのではなく行動する理由を探している。自由意志なんてない、とも言える。
禅・老荘の思想から最新の脳の研究までそうなっている。
それを悲観すると、真の自我に目覚め自由意志をもとうと考え、自分を苦しめる苦行をはじめる人もいる。
あえて焼けた火箸を握るとか、デメリットしかないことをすれば自由意志があることを証明できる、という寸法だ。仏典の自ら焚火に飛び込んで己を食わせた兎の話や、自分を十字架にかけた相手を許すキリストが称賛されているのも同じだろう。

そうなると「人間、自由意思を追求すると悲壮で辛いことしかないのでは?」ということになり、アッパッパーな方が幸せなのだと思いたくなる。
私は人間には自由意志はないと言われたら「まあ、自由意志すらないなんて、なんて自由な存在なのかしら。とっても素敵ね、踊りましょう」くらいにしか思わないが、苦行はいやだがアッパッパーのまま生きるんじゃ昆虫と一緒だ、プログラムの奴隷だ、という人には特定の人やもの、ジャンルを嫌うのをやめてみることを勧める。

それを嫌いな理由は後付け、偏見ではないか? それらの良い所全部を知った上で批判しているのか? 誰かの意見に流されているのではないか? 単なる食わず嫌いではないか? 別の評価軸で見なければいけないものを違う物差しで測ったから価値が理解できなかっただけではないか? また逆に、自分が正しいと思う思想信条も疑ってみる必要があるのではないか?

こうした思索は苦手なものに触れるという点では火箸を握る苦行に似ているが、後者はやけどが残るだけだが前者はやったぶんだけ嫌いなものが減るので生きやすくなり、楽になっていく。

最近のつぶやきから 

◆コンプレックスからの解放

不思議なことに腕力のない人ほど技を腕力でやろうとする傾向があり「やはり出来ない。自分には腕力がないからだ」と思いたがる。潜在的に上達を拒んでいるからだ。
上達を拒むメリットなど一つもないのに何故そんな願望があるかというと、ブラック企業で退職より自殺を選んでしまう人のように、人はたとえプラス方向であっても変化を嫌い「いままでやってきたことが無駄になる」ことを恐れるからだろう。

この心の働きは老人がエクセルを憎み電卓を手放さないようなものだが、実は本人も内心これではダメだとわかっていて、潜在的には変わりたいと思っていて、それがイソップ寓話の酸っぱい葡萄のような表れ方をしている。

これは腕力に限らず、自分はブサイクだから、とか、バカだから、とか、なぜか人は自分が低評価される評価軸を行動の規範にしてしまう。護身術不要論者が女性は腕力で男性には勝てないから、というのもこれで、わざわざ一番不得意な分野で張り合うことで勝てない自分を定着させようとしている。
武術は勝つべくして勝つ蓋然のもので、それは相手の一番苦手なところに一番嫌なタイミングで一番不得意な分野のことを仕掛け、自分の一番得意なことをするということ。同じ土俵には乗らない。

◆不完全だから完全であるということ

太極拳の完全性は不完全性によるというか、たとえば右手を伸ばすと対角線の左足が浮いてくるように、バランスが壊れることでどんどん形が変化していくのだが、大人になると「倒れない機能」が発達しすぎて、あるいは「崩れる機能」が退化したのでそれが難しい。なので赤子に帰ろうとする必要がある。
赤子は不完全であるからこそ完全で、日本で育てば日本語をスペインで育てばスペイン語を覚える。亀田父が育てればボクサーになり、室伏父が育てればハンマーを投げる。なんでも口に入れるし自他の区別がない。何もできないから無限の可能性がある。これは人間の特質をデフォルメした存在でもある。

真人、至人というのも多分赤子に近い存在で、何にでもなれるし何でもない人なので、訓練によって自分を鋳型にはめ込むという方向性からは生まれない。だから捨己従人という絶対他力を旨としている。
重機の形象拳のマンガでユンボルというのがあったけど、太極拳も起勢はフォークリフト、双按はブルドーザー、単鞭はクレーン車、靠はボーリングに見立てることが出来る。しかし、重機のような強力な力もメカニズムから生まれるのであって自力ではない。トランスフォームすることで得られる。

単推手の手もあれは押すためのものではなくヘソの緒で、他人と自分の区別がない状態、母子の関係性を疑似的に作るもので、自分は本当に一切押す必要はない。ただ完全でありながら不完全であるなら、押すも押されるもなく、ただゆりかごを揺らしてもらっているだけ、揺れているだけになる。

また、他者に対してはこのように自己と同一化を計る一方で、単練ではむしろ自分を客体として扱う。
金鶏独立は滑車、井戸の釣瓶に見立てられるが、自分が滑車となった場合、汲むものは汲み上げられるものでもある。自分の長靴を釣る釣り人のように円環構造が生まれる。站椿功も赤ちゃんのつかまり立ちのようなもので、赤ちゃんと、つかまるバーを一人二役やっている。自分が客体となることで他者とエゴがぶつからなくなり技がかかる。
完全な客体でない下心がある状態で他者に同一化をしようとしたなら、それは人のものを勝手にとるとか、何かをしてもらって当たり前と思っているとか、他者が自分に合わせる方向に向かうし、それは怒りの対象にしかならない。「鳩のように素直で蛇のように聡く」あるということ。
タオイズムとしての太極拳が不老不死につながっていくのは、自発的に生まれ直し、自分を育てなおしているからかもしれない。

◆柔能制剛 剛能柔断

相手の構えてる手を上からはたいた時、腕だけを弾き飛ばすようにするのが詠春拳などの考え方。太極拳では上体・頭も巻き込んで崩そうとする。これは攻撃の時も同じで肩を胴体に連結するかどうか、ということ。
なので剛の拳の課題は全身が一体成型の相手をどう分断するか、で、柔の拳の課題はふにゃふにゃしている相手を硬直・固定化できるかになる。
ただ実際には剛のみ、柔のみという人はあまりいないし、一方が理解できればもう一方は全部要領をさかさまにすればいいだけなので自動的にある程度は出来る。
ビリヤードで自玉が静止して的玉を弾くショットと自玉も的玉も転がっていくショットの違いや、ラリアットと入り身投げ、ローキックと足払いの関係もこれに似ている。

肩と胴体は、手の甲を前面にした站椿では広背筋経由でつながるが、掌を前、親指を下にすると大胸筋経由でつながる。前者は引き寄せる動き(ウェルカムのジェスチャー)、後者は押し返す動き(ノーサンキュー)になる。

最近のつぶやきから 

◆足指の話

昔の中国の纏足を残酷、野蛮と感じる人もいるが、現代人の外反母趾も、日常化して麻痺しているだけで、これは相当な運動能力のハンディキャップになっているように思える。無闇に過去の武術家を持ち上げるのは疑問があるが、基底面の安定感と大地をグリップする感覚に関しては間違いなく草鞋の時代の方が発達してただろう。
自分は13くらいからもっぱら雪駄なので、たまに法事などで革靴を履くと驚く。歩けないのだ。関節の集合体で凹凸のある足が強制的に1枚板にされてしまうからだ。腰痛コルセットやムチウチのクビにつけるやつと同列のストレスがある。靴を履いて歩くと乗り物酔いする。

◆流派性とはなにか

ぼっけもん豪先生との対談で「全ての問題は時間の有限性にある」という話が出てきたが、それを掘り下げていくと色んなことが見えてきた。
たとえば「流派」とは何か、というのもそうで、ある攻撃を受けたときに、迎撃、回避、防御のどれを選ぶか、それを上下左右、前後、回転、螺旋などどの運動を利用すべきか、という優先順位のフローチャートはそのまま「流派」の本質に近い。
これは時間が有限だから全ての系統の技術を熟練するよりは、いくつかに絞ってそれの応用で対応した方が良いだろう、ということだ。もしAIや不老不死の存在が武術をやるなら、流派、得意技、戦法という概念はなくなるだろう。

これが難しいのは、では稽古時間が限られているから、最大効率でリターンが見込める稽古を優先すれば強くなれるのか? というと、そうでもないことで、柳生宗冬がぼうふらを見てて剣理を得たというような話は王郎の蟷螂拳伝説や塩谷剛三の金魚など、類型が多い。重要な発見はニュートンの林檎のように、想定外のところからやってくる。
逆転の発想だが、「時間がないから効率的なことをする」のではなく「時間がないから、あらゆる出会い、体験を学びとする」という見方があり、そうなると24時間、夢の中までが学びとなる。効率を考えないことで最大効率に達する。

◆サブウエポンをもつ

修行系統を限定しないメリットは、直線系の技能で99レベルないと困難な状況が、直線10レベルと回転3レベルくらいの組み合わせだとあっさり突破できる場合があること。
たとえば二刀や槍、弓に対して戦うとして、剣のみより、剣と体術とか、剣と手裏剣なら、もっと楽に対応できる。
自動車がピストンと車輪という単純な原理を組み合わせただけで便利なように、簡単な理合いでも複合すると強力になる。イラストが描けるだけの人と、デザイン、編集も出来る人だと仕事の幅が違うのと同じだ。
気をつけないといけないのは組み合わせで、たとえば柔術のサブウエポンとして点穴は有効で、知っていると打開できる局面があり、使用できる間合いがかぶっている。
じゃあ、槍術のサブウエポンは何が良いか、という時に同じ間合いの武器を選ぶのは愚だろう。槍は両手を使うのだから、他の武器に持ち替えるとしたら槍を手放すことになるのでシナジーが見込めない。
槍を使うとしてされたら嫌なのは、穂より内に入られたり、槍をつかまれたりした時なので、そうなると体術がサブであった方が良い。
大事なのは「西瓜と天ぷら」のように全部の組合せを暗記することではなく、ぶらさがったバナナを見て、台と棒を組み合わせて取得するように、瞬間的に必要なものを構築できること。それが出来ないなら武芸十八般に通じていてもどれも生かせないだろう。

余談だが、日本における弓が完全に実用武術の側面がなくなっているのは、弓道家はサブウエポンを学ばないことからもわかる。道ではなく術として弓術を学ぶなら流鏑馬のように移動手段と併せるか、パルクールのような軽身功や隠形の術が必須のはずだからだ。

◆武術の原型

白桃会の武術の歴史にも書いたが、武術の始まりはどこからか、というと原始生物のころからあったともいえるが、明確化したのは原人が棍棒を使い始めたころだろう。
それは石で殴る、という無手の延長から、明らかに違う戦闘体系を求められるものだったからだ。それまでは野生動物と同様で、攻撃力と耐久力では耐久力が勝り、ちょっと小競り合いをしたりしてもなかなか同種族間では死には至らないように人間は設計されていた。しかし棍棒は当たると一発で死ぬ。
ゲームでも体力がゼロになったらゲームオーバーのものと、一回のミスで終了するものとでは戦略性が違うように、これは戦いが全く別の段階に入ったという事だ。そこでは今まで気にしてなかった回避、防御といった戦術が大事になってくる。そうなると本能より後天的学習にウエイトが置かれる。これはすでに「武」だろう。

それは同時にモラルやフェアプレイ、法や規制の基礎となっただろう。なぜなら誰でも棍棒で殴ると死ぬ訳で、そうなると、何かしらの協定なしでは全滅してしまうからだ。人間の精神文化はたぶん大体、棍棒が元になっている。核兵器やバイオ兵器を作ってしまってからそれを規制したりするのもまったく同レベルで、このオーバーキル能力を手に入れてから後追いで倫理をくっつけるやり方は何一つ進歩していない。

もうひとつ、棍棒から「武」が生れたと同時に「兵」もこのとき生まれただろう。
なぜなら集団で思い思いに武器を振り回した場合、味方を殺してしまうから、全員が同方向、あるいは放射状に攻撃する必要がある。陣形という概念の発生だ。
武器と兵器、武士と兵士の差はここが大きくて、多種多様な技を自在に使える人間は単体では強いかもしれないが集団戦では迷惑で、一心不乱にただ同じ動きをする人の方が尊ばれる。
日本人の行動規範である「和」は「兵」の論理で、武術はある意味ではその対極にある。