自己を保持する機能が自己を害するということ 

以前にあげた動画で、爪先がブックエンド(本を立てるL字形のストッパー)のような働きをしていて、それを開放することで前に進む、という解説をしました。





爪先がなければ体を倒れずに保持できません。しかし、保持するためのものは逆に言えば動くのには邪魔になります。
このように、自分の構造が自分の行動を制限してしまうことが多々あり、太極拳はそうしたロックを外すことで動いていきます。水が高きから低きに流れるのに動力がいらないように、すでに立っているというだけで体重分の60キロなり70キロなりの力は溜まっており、それを開放するだけで技になります。

先日、両手で取られた手首を力を抜くことで引き寄せる、という技を稽古していたところ、力を抜いても相手が動かないという質問を受けました。
それは多くの「脱力」を説く武術の修行者が間違いやすいところなのですが、力を抜いている、と思っている状態、抜き切ったと思っている状態が直立姿勢だからです。直立姿勢は先に述べたようにすでにロックがかかっている状態なので、抜けていません。
感覚的には力を使っていない、ゼロだ、と思っても、まだプラスなのです。そこをゼロとするなら本当に力を抜くというのはゼロではなくマイナスの領域になります。

手首を取られた姿勢で直立していたなら、腕の重さは誰にかかっているかというと、一番高い場所、自分の肩の構造が負担しています。もっと抜いて脊柱や肩が相手より下がったなら、相手に自分の腕、そして自重すべてが相手が支えることになり、耐えにくくなります。
含胸抜背、沈肩墜肘、捨己従人など、標語としては知っていても、メカニズムとして使いこなせるかは別です。

保持するための機能が自分の行動を制限する、というのは広げて解釈するなら運動だけの話ではありません。

ジャイアンをジャイアンたらしめている自己保持機能は暴力です。
しかし、暴力で優位をしめすことでコミュニケーションを成立させる、という傾向が強化されていけばいつか人は去っていく。去られないようにするにはより強い恐怖を与えようとするから悪循環になります。

スネ夫にとってのそれはお金、新しいおもちゃです。これもエスカレートしていくほどに「新しいおもちゃを提供できないなら自分に価値はない」という強迫観念になり、自分の価値を上げようとするほどに自分の無価値を証明するようなことになります。

のび太はドラエもんがいなければ馬鹿にされますが、ドラえもんに頼れば頼るほど馬鹿になっていく。

手首を切って彼氏の同情を引こうとする行為や、オオカミ少年のように嘘で気を引こうとする行為などもそうですが、これらは自分自身を人質にした外交戦術です。エスカレートして自滅していくしかない手段です。北朝鮮のようなものです。
そういう報酬系の中で生きてきて相手がいう事を聞いた。そこで味を占めてしまうと、それが正しいと思い、さらにそういう傾向を強化する。
しかし、いつかはジャイアンは「もうお前の暴力には屈しない」と言われ、スネ夫は「おまえの玩具自慢には飽き飽きだ」と言われるでしょう。

他者を征服し支配し優位に立とうとすることを自己の支えとする人は、それがストッパーになって自由を失います。
平和的コミュニケーションにせよ敵対的コミュニケーションにせよ、必要なのは相手を力で圧倒することではなく傾聴し洞察し、的確に必要なことをすることです。


両手で剣をもつということ 

馬の歩き方は前後四本の脚のうち、対角線の脚がセットで動く斜対歩といいます。一方、ラクダの歩き方は同側の前後が揃って動く側対歩といいます。

人間も手は元々前足でした。赤子の時、最初に腹を地面につけたままにじるときは側対歩、膝立ちではいはいするようになると斜対歩になります。
面白い事に小学生以上にこの動きをやらせようとすると、最初混乱して大体、側対歩に戻っています。成長によって手と足の長さに差が出てくるので、そのときそのときで体が選ぶ歩法が変わるのでしょう。他の動物にはなかなかない特徴です。(ただし馬は訓練で側対歩させることはできます)

これは立ってやると通常の歩行となんば歩きの違いになるのですが、その名残で人間は手と足の間に感覚の共有、連動があります。

太極拳だと斜対歩的な動きは、楼膝拗歩、玉女穿梭など。
側対歩的な動きは、左掤、肘底看捶、倒輦猴、金鶏獨立などです。

手と足のつながりを上下のつながりとすると、左右の手同士にもつながりがあります。同一の方向に動くもの、線対称に動くもの、点対称に動くものなどがあります。

この観点で見ると、一刀を両手保持する剣術というのは非常に難しいものです。
両手を使うという事は二つの力を合わせて一つの方向にするということですが、どうしても片方の拳を上、反対を下にしてグリップを握るので、左右がアンシンメトリーになります。そのため、力の方向が定めにくい。
たまにネットの武術談義で片手斬りで人は斬れないのではないか?という意見がありますが、斬るという事に関しては片手のほうが斬りやすい、といっても良いかもしれません。

剣が精神修養につなげて語られるのは、緊張や力みがこの左右差のコントロールを難しくするせいでもあるかと思います。示現流の教えでは左肱切断(左の肘はないものとして取り扱う)というのがあり、漫画スラムダンクの「左手は添えるだけ」同様、左右バランスがアンシンメトリーな状態で両手の力を合成する、という苦心が見られます。
そして両手で一刀を保持するというのは手錠をかけられているのと同じで、体の動きは窮屈になり、可動域や射程も狭くなります。単純に功利的に考えるなら、じゃあもう両手で持つのはやめよう。片手で剣を持って空いた手は盾でも持った方が強いのではないか、と思われます。

が、あえて座技という不自由を学ぶことで自由に動けるようになるように、両手で一刀を保持することでしか見えてこないものがあります。それは、剣を腕の延長ではなく、正中線の延長とする身法です。言い換えるなら、犀のような一角獣の象形拳ともいえます。剣を腕の延長ではなく角と考える。角で攻め、相手の角を避け、角で角を逸らす。

すると、そこに不自由はありません。不自由だったのは剣は腕の延長だと決めつけていた自分の考えの狭さです。角が腕のように働かないから使えない、というのではなく、角を角のように使えば良いだけです。そこに至って、武術は自分が自分であること、人間が人間であることからさえも自由にしてくれます。犀になろうとすれば犀に、魚になろうとすれば魚になります。

最近の私の関心は、何が自由で何が不自由か。何が自然で何が不自然か、ですが、人間の第一感での判断はまったくあてにならず、術の場で検証すると、このように不自然に思われていたものが自然。そういう思い込みをしていた自分が不自由、ということが多々あります。

そういう意味では、

「自分はどうも剣が苦手です」

というような言葉には、剣が自分の思い通りに動くべき、という驕りがあります。剣が求める動きをすればいいだけです。それは「剣」のところに何の単語を入れても同じです。

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型の習い方 

ちょっと不思議なタイトルの記事になりますが、生徒および弟子見習いの中に武器術などで型稽古になると、挙動が不審になる、何を指導されているのかが分からなくなる、どこが分からないのか尋ねても、どこが分からないのかさえも分からない、という人がそれなりの割合でいます。

この問題について解説します。

まずは動画があるので見てみましょう。



小太刀の稽古です。どれもそんなに複雑なことはしていません。

ではなぜそれが出来ない人がいるのかというと、無手の技が一問一答的なのに対して、武器の技は演劇性、流れがあるものだ、という違いがあるのを気づいていないからではないかと思います。

『昴』というバレエ漫画で、バレエ団が刑務所の慰問に行くエピソードがあります。
どんなアウェイであっても、自分たちの踊りさえ見てもらえば伝わるものがあるはず、と思って主人公たちは踊りますが、囚人たちは「なんかエロいことをやっている」としか認知しておらず、バレエに筋立てがあり、物語なのだ、ということがなかなか理解されません。

型、特に武器の型が苦手な人の抱える問題はこれに似ています。

動画で言うと、小太刀の人と長剣の人という役割、キャラクターがあり、その役に沿ったロールプレイで行動します。
そしてここが重要なのですが、そうした役の二人が出会った結果、短い武器の人が決まった形で勝つという結末があらかじめ設定されています。そういう物語なんだ、と思ってください。

たとえば一本目ですと、長剣側は剣を立てています。立てているから小太刀が先手を取れます。

長剣が青眼ならリーチの長い長剣が先手をとる二本目になります。
ここで小太刀がわずかに剣尖を下げたから、長剣が突いてくる。

小太刀を下げなかったら長剣はそれをを叩きおとそうとするから、三本目になる。

なので、最初に一本目の型をやると決めたなら、結末から逆算して長剣側は剣を立てます。

一本目なのに長剣側が青眼で構える、とか、先手後手を間違えるような現象は本来起こりえません。
それが起きてしまうのは、ロールという概念がなく手順を丸暗記しようとしているか、結末から逆算せずに頭から話を創作してしまっているので違う話になってしまうか、です。

型稽古は棋譜をならべるようなもので、単に機械的に手順をなぞっても何の意味もありません。
相手がこうしたから自分はこうする、というやりとりがあり、なぜそうなるのか、どうしてそれが最善手なのかという理を解するためにやっています。
また、長剣側も単なる「やられ役」ではなく、「それではあの結末につながらないだろう」と思われる場合は、打ち込んで相手の隙を指摘します。そして小太刀側はバッドエンドにならないためにはどうすればいいか、自分の動作を点検し、ブラッシュアップしていきます。習っているのは技ではなく技に対する考え方です。


例によって訳の分からない話 

万物斉同、同事不違、ということを考えていくと、どの傘でも一緒だろうと、人はコンビニの傘をパクったりし始める。
しかし次の段階では、自分が濡れるのも人が濡れるのも同じならば自分が濡れてもよいのだから、と傘を人に差し出すようになる。
さらに進むと、そもそも雨と自分、濡れているのといないのも同一で、それを区別する自分がいるだけだと思うようになり、この辺からだんだん訳がわからなくなってくる。
雨は五感を通して感知されているのだから自分の中に降っている、とも言えるので、中と外に区別はないということになり「私がいる」と「雨が降っている」は同義になる。
雨がいる・私が降る・私は雨・いるが降る……東洋思想的にはこれらは全て同事不違となる。そして「雨が降っている」と「雨は降っていない」も同じ意味になる。

人間は爪や牙をもたず毛皮もない。それゆえに武器や服を自己の一部として拡張して生きてきた。不完全性ゆえに何とでもコネクトできるようになった。それがこのような思想のはじまりだろう。
茶人にとって手になじみ、唇になじんだ茶碗は己そのものだ。そしてその中の茶もまた己だし、それを飲むことで客と主人がコネクトする。キリスト教の聖体拝領のような儀式もそうだろう。

他者、異物と自己を一体として捉えるといわれても、字面だと受け入れがたいが、実際にはあらゆる人がやっていることで、肉体労働でもセメント袋ひとつ担ぐにも発生している現象だ。音楽家ならピアノと、寿司職人なら包丁や寿司と、ドライバーならハンドル、車とコネクトすることが求められる。

では、武術家は何とコネクトする必要があるか?
万物と、であろう。

なぜなら潜在的には全人類が敵になりえるので、誰が相手でもその思考を察知し、体を操り、技をかけられるようになる必要がある。そして、あらゆるものを武器として自分の延長のように使えなければいけない。形のない、重力といったものまで、自分の一部として完全に使いこなす必要がある。

そのためにはまず自分自身を統御しコネクトする必要がある。
ねぼけていたり酔っていたりラリっていたりする状態の人は統御が崩れた分かりやすい例だが、素面の人がそれを見て思うようなことを、さらに一段階、統御が進んだ人、覚者は凡夫に感じているだろう。
仕事に行きたくない自分と、仕事に行かなければならない自分が引き裂かれている人は、統御を失っているので本質的には酔っ払いと同一だし、実際、荒れた飲み方をする酔っ払いであることが多い。

自失するような飲み方は自傷行為の一種だろう。自分自身とコネクトできておらず自分で自分を攻撃してしまう例は多い。拒食症や癌、アレルギーなども自己が自己を攻撃している。
自分はもっとも身近な他者であり、よくできた義歯より天然の親知らずのほうが存在を受け入れがたい。なので太極拳は内観、自分の観察と統御を第一としている。

日本武術においても、

1・自分で自分を投げられる(受身)
2・他者を投げられる
3・杖などを媒介とした二次接触で投げられる
4・触れずに無線で投げられる

という風に、まず自分を自在に転がせるようになることが必須となる。人間の崩れ方、重心の位置、転ぶ場面が分かれば、それを他者に適用することも出来る。活法が殺法になるのと同じ理屈だ。

余談だが、逆にコネクトして一体だった夫婦が離れてくのも似た構造がある。

1・セックスを拒否されるようになる
2・寝室を別にされる
3・パンツを箸でつまんで別に洗われる
4・離婚

といった具合だ。

人間がなぜ分裂してしまうのかは、種として「より多様化し先鋭化すること」と、「協調し群れの和を乱さないこと」の二極的なプログラミングがされているせいでもあろう。これはいじめ問題などの根源でもあるだろう。
先鋭化すれば孤立して不自由となり、付和雷同していても自由はない。自由はこうしたA or Bの二択の中にはない。

武術の命題は絶対的な自由の獲得ともいえる。それは「殺されるのに比べれば従った方がまし」「やりたいことはできないけど給料はいいから続ける」の類ではない。自由になる為には人間をこうした二択形式の対立構造から解放する必要がある。なので雨は降っているし、同時に降っていないといった量子力学的な立場をとるようになるのだろう。

3/19 特別稽古を終えて 

3月19日は14時から17時まで特別稽古、その後、私とWAIさんの結婚を祝しての飲み会が行われた。

その日の朝、池袋駅にはトランプのカードが一枚だけ落ちていた。ダイヤの10。
何の兆しだろうか? 

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生徒であるカリスマ占い師、瀬尾志郎氏にメールして聞いてみると

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「ざっくりですと、家族、血統、伝統、古い体制とかです」



とのことだった。これはまさにこの日を象徴していたように思う。

稽古には、洗足池からピエール斎藤さん、ニートのTくん。
小金井から弟子見習いのSさん。
旧ドラネコ商会OBの青猫さん。
神道夢想流状術のRうdyさん。

そして、沖縄空手の研究者、実践者として斯界の第一人者であろう剛柔流尚誠館館長の寺島清恭師範とそのお弟子さんがお見えになった。ありがとうございました。

飲み会には女子ボクシング界の名もなき修羅、ロイヤル金子選手も駆けつけてくれた。築地魚河岸で働く金子選手からは魚のウロコ取りと砥石、そして帽子が贈呈された。

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カープファン転向待ったなしである。

飲み会では、寺島師範による三戦、チンクチ、ガマク、ムチミなどの実演が行われた。また、結婚を祝して小金井の方々からSさんを通してお花を頂いた。びっくりした。ありがとうございました。

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物心ついた時から、まっとうな職には適性がないなあ、と思い生きてきて、縁あって武術を教えるという役割に行きついた私ですが、その武術によってこのようにお中元、お歳暮、結婚祝いと言った人の輪の営みに加えていただけたのは誠にありがたいことです。この感謝はせめて武術を通して社会に還元していこう、そして武術のすばらしさを伝えていこうと改めて思った次第です。

来てくださった方々、本当にありがとうございました。