夏休み特別企画・剣術師範ぼっけもん豪先生との対談 後編  



 ※前半はこちら



●6 武術をどう普及するか

佐 結局、武術で食えるシステムを誰かが作らないといけないと思うんですよ。

豪 いやまあ一部ではあるし、成立させつつある団体もあるんじゃないですか?

佐 ただ、そこから株分けして支部を作っていって、安定して食っていける人を増やすのは難しいじゃないですか。たとえば野球だとリトルリーグがあって軟球やって硬球やって、トップの人はプロになればいい。そうでない人も、野球が学校の推薦や就職の手助けになっていて何かしらのセーフティネットがある。そういうものと競合して比較してみたときに武術って、私自身が食えているか食えていないかでいうと、ギリギリ食えてなくもないというレベル。

豪 生きてはいるけど (笑)

佐 生かさず殺さず (笑) という現状を考えると子供たちに胸を張って勧められないですよね。これに一生を懸けなさいと。

豪 それはやっぱり責任感あれば言えないですよね。そう簡単には。

佐 まあ、おまえはこっち側の人間なんだからこっちで生きていくしかないんだよ、という人には普通に言いますけど。

豪 そういう人はいますね。確かに。

佐 ただ、そういうこっちで生きていくしかない人じゃなくて…

豪 いろんな可能性があるのに…

佐 そうです。いろんな可能性がある中で選んでくれるような文化にならないと意味がない。

豪 確かにそうですね。

佐 これまたマクロとミクロどっちが先かみたいな話になっていきますけれど。地道にやっていくのがいいのか、それとも社会にまず武術って凄い、良いものだよ、というのを浸透させないといけないのか。

豪 でもやっぱりブランドイメージだけが広がってしまって一時的にブームとか仮に招来できたとしても、まあそれは数年で過ぎ去ってしまって後に残るのは徒労感と空虚だけじゃないですか。

佐 逆に敷居が高くなることさえありますからね。「武術? ああ数年前に流行ったやつでしょ? もう今さらいいわ」みたいになっちゃって。

豪 ああ、そうですね。古臭い、ダサい、となる可能性もある。

●7 大乗と小乗

豪 佐山先生は献身的ですよね。業界に対して。

佐 いやそれも結局、自分の事ですよ。自分が食っていくという最小限の事にしても、原始共産主義じゃないですけど、万民が飢えている中で自分だけ飢えないという状況は作れないという。

豪 でもそれを考えるときに割と大きな枠から考えていくじゃないですか。社会制度とか構造とかから。そしてその現状に対してどうアプローチするかという。

佐 たぶんそれは武術自体がそういう思考のシステムだから、それに沿っていくとそうなるんじゃないですかね。

豪 たとえばもっとプラグマティックにいけば武術業界や今の社会事情をまったく考えなくても、いろいろある文化、習い事の中で自分だけ上手く宣伝を打ち出して自分のところに生徒が来れば生活は確保できる訳じゃないですか。

佐 自分の生活を確保するだけだったらコンビニでレジ打ったって出来るんでね。(笑)

豪 いやいや、武術で、そこを中心にするってことで言うとですよ。

佐 武術で、というなら武術というもの自体がウイルスとワクチンの開発競争みたいなものにさらされていないと質が下がってしまう訳ですから、良き競争相手がいて、業界全体が活気づいていて、その中で切磋琢磨していないのならば、ただただ濁って腐っていくだけなので。

豪 それは確かに正論なんですけど、その考える比重というか重心とか優先順位を大の方から行くか自分の目の前のことからいくか、人によって違うと思いますよ。他の先生もたぶん武術業界のことを勿論考えているとは思うんですけれど、それ以上にまず自分の団体を確立して盛況にして、ということを。

佐 うーん、なるほど。一つわかりました。そういう意味で言うと、うちは実家が浄土宗のお寺なんですよ。大乗なんです。

豪 大乗すぎ。(笑) いやだから佐山先生は社会運動家というか運動家であって、利己的ではないんですよね。すごく。それが献身的って意味なんですよ。

佐 いやでも小乗も間違っていないですよ。一人のリーダーが出来てそれが業界のモデルケースになって、武術をやるとこうなれるんだと示してくれるから後に続けるというのも勿論あるので。

豪 そうですね。僕は否定しているとは思わないんですけど、佐山先生はあきらかにマクロからいくタイプだなと。ある意味、自分の生活を後回しにしても。

佐 もうひとつは私のところはけっこう、ニートであったり障害を持っていたり健康に不安があったりとか、割と弱い人たちが来る場なんで、エリート主義にするのは難しいんですね。私自身、能力やフィジカルが秀でてる人間ではないので…そういう人間でも変われる、という部分に価値があるのだとしたならば武術に効率を持ち込んだらいけないのではないか。

豪 まさに浄土教じゃないですか。いわんや悪人をや。(笑) その思想に反する訳ですね、そもそも。それ面白いですよね。

佐 でも、武術自体は効率厨みたいな部分がある訳で。

豪 ええ、そこにまた矛盾があるのが面白いですね。

●8 弟子の育成について

佐 わからないんですよ、結局。釈迦の弟子もアナンダが継いでいるし、キリストも迫害していたパウロが継いでいる。武術自体、人間が変われる存在であることの証明みたいなものなので、今どんなクズであっても、あるいは才能がないようにみえても、後にどういう羽ばたき方をするか。
最近、私はもうそういう見方で見ていないんですけれど、「こいつはモノになりそうだな、ならなそうだな」って…

豪 あまり関係ないですよね。

佐 予想通りに全然なっていないですよね。

豪 ならないです。長期視点でいうと、最初のうちの筋が良いとかやる気がありそうとかは全然あてにならないですね。武術の修得すべき知の体系が大きいので、初期のちょっとした伸びの良さとかはほとんど関係がない。ちゃんと真面目に続けるかどうかだけですね。

佐 なので弟子に対しては、こちらが労力をかけても何者にもなれなかったとしても特に何も。明日、世界が終るとしても種を蒔くだろう、位のつもりで。

豪 そうなんですけどね。確かに。(笑) その通りなんですけど、それで終わりにしちゃ駄目じゃないですか。そういうことで解消出来ちゃうんですけど、ある意味。問題を解消したのであって解決はしていない。そう言ってしまうと逃げになっちゃうんで。

佐 ま、やってる人にとっては来てよかったな、と思えるだけの事は与えているとは思いますけどね。投げっぱなしジャイアントスイングみたいな結論ですけど。(笑)

豪 え、それでいいんですか? 面白いおじさんで良いって事になっちゃいますよ。ちょっと週一回行って、ちょっと運動して、ちょっと面白いおじさんがいるから良い、みたいな…。(笑)

佐 でもコンセプトとしてはそれで間違ってないかもしれないですよ。そこから「この楽しい毎日が終わりなく続けばいいのに。殺されたり怪我したり病気になってこれが終わるはやだなあ、強くならなきゃいけないな」みたいな、豊かな生活を守るために強さへのモチベーションがあってもよいのかな、と。やっぱり命に価値があるから命を守る必然があるんで。

●9 現代の死生観

豪 ああ、そうですね。でも思うのは、生存本能自体、最近の若い人ってどうなのかな、と思って。

佐 自殺する人とかもいますからね。

豪 そうだし、すごく虐げられて暴力的に攻撃されても反撃して身を守るのではなくそのまま死んじゃう人が多いのではないかと。

佐 その点でいうと共産党の人とかが「自衛隊は人殺しの訓練をしている人たちです」みたいなことを言いますよね。我々からすると、「うん、で? それって普通じゃない?」っていう。(笑) それを何かものすごい悪いことのように言うじゃないですか。

豪 まあ「人殺し」というと犯罪の文脈で使われるから。ミスリーディングを誘っている。

佐 はっきり言って日本人がこうやって裕福に生きているだけで、地球の裏側では人が死んでいるんですよ。我々は常に見えない加害者だし、それを無自覚にやっている方がたちが悪いんじゃないの? というね。

豪 無自覚なまま、予想外の事が起きたら死んじゃえ、 それでいいやという人の方が多いんじゃないかと思う。最近は。

佐 そういう意味ではこれも絡めていきたかったところなんですけど、「自己責任論は優しくない」みたいな話がありますよね。でも武術って根本的に、それこそ吹き矢で撃たれようが落とし穴に落とされようが、それを想定していない自分が悪い。

豪 究極の自己責任論ですよね。

佐 ええ、別に人助けが悪いとか言っている訳じゃなくて、ひとつしかない自分の生殺与奪権を他人や制度に担保してもらうって、なんでそんなことが出来るのか逆に恐ろしいんですけど。

豪 それはまったく僕もそうだし、恐らく武術家を名乗るような人なら全員そうだと思うのですけれど…意外とみんな多分そうじゃないんですよ。

佐 だってそんな安全保障って犬猫で言ったら、うちに居れば安全だから一生首輪につながれて家から出るな、というのと同じでしょう?

豪 たぶんそうですね。その方が良いっていう人の方が多いんだと思いますよ。

佐 それでいいんですか? 本当ですか? だとしたらこれだけ一般層と感覚が乖離している時点で我々は一般層にアプローチできるんでしょうか?(笑)

豪 その感覚の回路がない人が実際多いから、ブラック企業で働かされて過労で死んだりするじゃないですか。普通に考えたらなんでそんな状況になるまで働くのか。命の方が大事なわけじゃないですか。収入より。考えられないですよね。

佐 いじめられて自殺とかね。学校のいじめなんてまだ未成年なんだから、相手の家を夜中に燃やして殺しちゃったって出てこれるんだから。

豪 おそらく武術家の平均した回答ってそれですよね。自殺するくらいなら相手殺せば? っていう。でも今はその常識逆なんですよ。相手殺すくらいなら自分が死んだ方がいい人が多いんだと思います。

佐 良いも悪いも、死んだらその良い悪いを判断する主体の自分が消滅してしまうんだから、そんな選択はありえないと思うんですけれど。

豪 たぶん判断権を委ねている状態の方が楽だし、社会も親もそうしなさいと強要してきている状況なので。そうなっちゃうんだと思います。…自衛隊が人殺しだ、という主張、僕はあれは平成の現代が作り出している部落差別だと思いますけど。必要で誰かがやらなければならないことなのに、それをけがらわしいとして差別する。これって完全に部落差別の構造ですよね。

佐 ああ、なるほどねえ。

豪 じゃあ誰がやるの? って話だし、実際誰も守らなくて被害を受けたらまた文句をいうと思いますよ、そういう人たちは。

佐 いやあ、共産党的な主張でいうと敵が攻めて来たらみんなで死にましょうという…「おまえら国民は死ね!」って言っているんだよね。

豪 でもそれっておかしくないですか? 共産党は労働者の生存権や財産権を守るために立ち上がって革命を起こしたんじゃないですか。そのために戦いを仕掛けに行って相手を殺してきたんですから。今の日本のそれは正当な共産党主義じゃないと思いますよ。

佐 それは彼らのズルいところで我々は文革やポルポトの二の轍は踏まない、という共産主義の中のフワフワしたユートピア主義だけを都合よく抜き出している。

豪 とにかく戦いとか暴力に関係すること自体悪だし、そのことを想定するのも悪という風潮がどんどん強くなってきているんで。

佐 強盗が入るからカギをかけましょう、というと、その発想自体が犯罪があることを肯定している、おまえみたいな人間が強盗になるんだ、という。じゃあ火の用心で回っている人たちは放火魔なのか。(笑) 親が子供に「知らない人についていってはいけません」と言ったら「犯罪を肯定するな! 悪いのは犯罪者で被害者は悪くないんだから自衛する必要はない! 私は知らない人に断固ついていく!」っていうのか。

豪 これは僕は単純に言葉が混同されているからだと思いますよ。原因責任と当事者責任は違う。

佐 そうですね。よくある「いじめられた方にも責任がある」っていう話と同じで。問題があるのと善悪は別の話なんですよね。

豪 そう、原因があって「悪い」って意味じゃなくて、当事者能力として現実なる問題にもっと対処しようよ、というのが同じ「責任」という言葉で混同されているから。

佐 で、これ武術の根本的な話だと思うんですけど、問題が起きたときに自分に原因があるからそれを改善しよう、という方向に行かないで、他者のほうが改めるべきだ、と考えるなら武術ってまったくいらないものですよね。

豪 そうですね。武術は自分が変わるのと相手を改めさせるのと両面あるんじゃないですか。自分のエゴのために相手を殺すんですから他罰的でもある訳ですよね。それと自分が望むある状態を達成し続けるために、自分が変化しないといけないというのと二重の論理で。
だから両方の回路がないのかもしれないですね。自分の身を守ったり、望みを達成するために相手を害してでもやらなければいけない局面があることをまず認められないし、その厳然とした宿命的要件を与えられるという事自体、想定しないから、自分が変わらないといけない必然がない。

佐 単純にいえば饅頭が一個しかなくて食べなきゃ死ぬんだったら相手を殺してでも取らなきゃいけないですからね。

豪 自分が死んでもいいんだったら饅頭を取る技術はいらない。

佐 でも本当に死んでもいいと思っているのかといったらその覚悟もないと思いますよ。単純に、そんな恐ろしいことは考えたくもないという思考放棄でしかないですよね。多分。それは戦争に対しても同じでしょう。

豪 そうだと思います。ええ。

佐 でも本当に戦争が止めたいのなら戦争について誰よりも理解していなかったら止め方も分からない。

豪 医者がけがや病気に詳しいのと同じですよね。その状況を望んでいる訳でなくて、対処するために詳しくなければいいけない。武術はそれと同じだと思います。
…体験が少ないんじゃないですかね。自分の意志とか存在とかとは無関係に厳然と存在する問題とか暴力とかに出会っていないか、出会っていてもそれを内的に無いことにしてやり過ごしてきてしまった人が多いんじゃないですかね。

佐 あるいは現代に関わらずそういったレギオン的な、何も考えていないそういう人はいっぱい居たんだけれど、その人たちがSNSなどの発信ツールを持ったことで…

豪 声を持ってしまった。

佐 で、その人たちが声をあげると大多数意見、マジョリティになってしまう。だけど何一つ意味のないマジョリティ。

豪 ヘゲモニーですよね。質的ではなく数的な。

佐 それって恐ろしくないですか?

豪 恐ろしいですよね。この生活が破綻して崩壊するという事を真剣に想像したことがないんじゃないですかね。想像せざるをえない体験をしたことがないというか。とりあえず戦争反対、暴力反対と理想論をいっていればもつと思っている。

●10 予想外の結論 

佐 昔から日本は王道楽土的な…そういう気質なんだよね。

豪 貴族文化はそういう傾向ありますよね。実際かなり長い間、海で守られて安穏として来られたから…たぶん何も変わってないんですよね、そのころから日本の社会って。民主主義が定着しないと思いますし、個人主義も定着しないと思います。何も変わっていないし、これからも変わらない。

佐 定着はしないけれど、抑えつけられると必ず我々のような存在は出てくる。『地球へ…』のミュウとかそういう。

豪 異分子の(笑)

佐 そういう人たちがメインになっているから武術がマイナー止まりにしかならないのかなあ…。

豪 そうですね。そう考えると武術をやる人の傾向自体が非主流派であって。現状への批判者、何かおかしいなと思う人の集まり。

佐 むしろ、そもそも文化ってそういう人たちのものじゃないですか。

豪 そうですね。創造者、逸脱者ですからね。

佐 アウトサイダー。コリンウィルソンいうところの。読んでないから今、適当に言いましたけれども。

豪 と、いうことは一巡して今日の話になってくると、主流派に向けてアピールして大多数層を迎え入れるっていうのは…。

佐 間違っていますね。おかしいんだな。そうですね。これは…結論としてはそうなっちゃいますね。

豪 まあ、言葉にしてこうやってはっきりしてきたのって今の対談の中でなんですけれど、僕はもう、そうなってきていて、多くの人に受け入れてもらおうという意識はあまりないんですよ。むしろ先天的にこれをやってしまうというか、やらざるをえないというか、そういう資質を持っている人で高めていこうよ、という。

佐 そういう人たちに届くメッセージをもっと広く深く、というのが一番…。

豪 選民思想とか、そう出来ない奴らを蔑むとかじゃなくて、武術を楽しめる人って限られているんじゃないかと。

佐 これは多分、ラッパーとかメタラ―とか、特殊なジャンルの人たちは皆同じように考えていて…「俺たちはここにいるぞ」と。灯台として光を放って。

豪 言っていかないと無視されてしまう存在ってことですよね。武術って在り方として今、実情に即していないのは、結局、武士が政権を取った時代が800年間くらいあるからだと思うんですね。そして特に江戸時代、武術という一つの愛好文化が武士の表芸として主流になった時代が260年間くらいあるんで、何か主流派というか日本の中心文化的なものに属していると勘違いしてしまうんですけれども。

佐 手厳しいですね。(笑) でも「サブカルチャーじゃねえんだよ、俺たちがメインカルチャーなんだよ」っていう気持ちは…。

豪 そう、それを自発的に言っていく動機は分かるんですけれど、恐らく違うんですよね。だって武士の人口比率って常に10パーセントを超えたことがない訳じゃないですか。そして日本の多くの人は、貴族文化、王朝文化の為政者含めて暴力的なことから目を遠ざけてきた。そこに敢えて突っ込んでいこうというのは少数派なんですよ。少数派の文化がたまたま政権を取ってしまった時代があるだけで、自分たちを本流と考えているのは改めた方がいい。

佐 もしかしたら我々が語っていた文脈というのは、もしかしなくても本気で茶道とか…ラップでもなんでもいいんですけど、何かの文化に携わっている人は皆、同じことで悩んでいて、俺たちは滅ぶんじゃないのかって考えていると思う。そこで、横でつながって団結するというか、まあ団結して多数派になろうっていうのは、また気持ち悪いから違うんですけど…何か文化同士での横の連帯があると。

豪 そうですね。少数派であることは認識したほうがいいですけれど、孤立してはいけない。孤立すると先鋭化していって自滅するので。相互に連携を計っていくべきですね。



後半まとめ

広汎に広がった話がまた元の主題に帰結していくという、前半部でのミクロとマクロのむすんでひらいてに対応するカノンのような対談で非常に面白かった。
豪先生からは、やたらと献身的である、という評価をいただいたが、実際には私は先渡しで武術から多くのものを受け取り、そのおかげで今の私がある。武術がなければまっとうには生きていなかっただろうし死んでいたかもしれない。
もともと私は復讐という明確に人を殺傷する目的に武術を始めたのだが、そうした最低最悪の始め方をした人間であっても、それを実行することもなく、もっと豊かで自由な世界があるということを武術に気づかせてもらった。
だから誰であっても変われる可能性はあるし、そうした機能を持ちつつも世の中から認知されていない武術という文化を一人でも多くに伝えねばならないと思っている。しかし、いかに献身しても武術から受けた恩恵を返しきれないし、武術というものは不思議なもので、与えるほど豊かになっていくので恩はますます増えていく一方にも感じている。

そして武術を主流層にどうアピールすべきかという討論は、武術は主流層にアピールしてもしょうがない、という予想外の結論に至った。これもまた前半部に出てきた「欲しいものではなく必要なものを渡されたときに受け入れるのが武術」という話につながっていくと思う。
ただ、そこまで明確に主流、異端という境界はなく、一人の人間の中にも、それは分裂してあるものだと思うので、そのわずかな欠片にフックするような何かを全方位に発信することはまったくの無意味ではないとまだ思っている。ぼっけもん豪先生、長い時間ありがとうございました。


夏休み特別企画・剣術師範ぼっけもん豪先生との対談 前編 

※ この対談は、日本剣術界の若き旗手である某先生と行われたものです。当初、実名での発表を予定していましたが、某先生より、「佐山先生はノーフューチャーで失うものがない人だからいいけれど、僕はやはりこれが表に出るといろいろ困る」という申し出がありましたので、ペンネーム・ぼっけもん・豪さんとの対談ということでお送りいたします。誰だかわかっても内緒でお願いします。
なお、一部の方には限定公開されているyoutubeの音声版を紹介させていただきました。耳で聞きたいという人は、twitterかmixiでリクエストしてくださればご案内します。(私と面識がある人に限ります)



●1 現代における武術

佐 実はちょっと我々のやっていることって、「古武術」ですらないですよね? 「古」ってつける必要があるのかっていう…。

豪 そうですよね。

佐 「古」って言い回しに、すでに武術が現役じゃないという世間認知がある…。直木三十五と菊池寛のあれがありますよね?

豪 武蔵論争。例の。(笑)

佐 あれが一世代前にあって…で、今の世代だと宮本武蔵観って『バカボンド』か『刃牙道』じゃないですか。そうなると武蔵って稲を育ててるか原始人と戦ってるかっていう印象に…。

豪 ああ、でしょうね。霊媒の力がないと何もできない。 (笑) 

佐 と、思ってたんですけど、『バカボンド』も『刃牙道』も漫画としてはかなり読まれている方なんだけれど、実は今、漫画は『ONE PIECE』くらいしか読まないという層があって、宮本武蔵という固有名詞をそもそも知らない世代が出てきている。

豪 子供とか?

佐 大人、20代でも。

豪 え!? います? 聞いたことはあるくらいとか?

佐 聞いたこともないかもしれない。あ、「麺や武蔵」とかラーメン店の名前として…。それもラーメンに興味ない人は知らないかもしれない。

豪 そこまで情報が分断、多様化していると。

佐 で、豪先生はtwitterで「二刀流は実戦では使えない」みたいなことを言う人を個別に論破していこうとしていた時期が…。

豪 いや、昔の話です。やめました、もう (笑)

佐 でも今、剣術と剣道の区別が分かってないどころか、剣道すら見たことがないレベルの人が大半で。

豪 そうですね。剣道人口自体がどんどん減ってますから。

佐 そうなるともう、ネット上の狭い領域で二刀流が実戦で使えるか、片手切りで人が斬れるかといった証明をしても埒が明かないくらい世間は武術離れしちゃっている。

豪 そもそもそういう疑問を持つ時点でマニアックということですよね。

佐 そうなんですよ。この現状をどう打開していったら良いのか御意見を聞こうかなと。

豪 昔だったら講談本とか読んでれば知っている訳ですよね、塚原卜伝とか…その文化はないですね、今は。

佐 じゃあ文化をライトに広げればいいのというとそれはそれで難しいな、と。古武術バスケとか古武術介護ってあったじゃないですか。あれを入口にして武術そのものに興味をもって始めた人って多分ゼロに近いんじゃないかな、と思うんです。

豪 かなり僅少でしょうね。いないこともないでしょうけど。

佐 そうすると結局、武術がメディアにコンテンツとして消費されて、長い目で見たらやらない方が良かったんじゃないかと…。

豪 いきなりクリティカルなテーマきますね。文化としての生存、存続がどうかって話ですね。

佐 かといって逆に、「あそこは偽物、ここは本物、伝書が、伝承が、正統が…」みたいなマニアタイプの人との出会いが武術とのファーストコンタクトだと、とっつきにくい狭い世界だな、と思われてしまう。

豪 ネットの文化っていうのは特徴でもありプラスでもマイナスでもあるのはそこなんですよね。まったくの初心者が一番玄人の意見にいきなりコンタクトできてしまう。昔はたぶん階段状に境地、境涯を深めていかないと、そういうコアな人たちに出会えないし言説に触れられなかったんですが。今、検索すればすぐ出てきちゃうんで。

佐 豪先生も以前、そうした危惧を抱いて「自分の先生に質問する前にネットで調べるな」と言ってましたけれど、まだ構えの有効性を把握していないうちに構えの崩し方の情報を先に読んでしまうとかすると…。

豪 達人になると構えはいらないとか。

佐 そう、そこだけ聞いて刷り込まれちゃうとどうにもならないですよね。足し算、掛け算の前に因数分解をやろうとするような。

豪 必要な過程を全部、無視しちゃう可能性がありますからね。それを最初に見た人って。

●2 武術に対するスタンス

豪 けっこう多岐にわたるテーマですね。話ちょっと戻して、まず古武術と呼ぶべきかどうかはアイデンティティに関わる問題だと思うんですけど、やっぱり僕は原理原則で言うなら武術は武術だし、古とか新とかつける必要はないと思っている。

佐 途切れて無い訳ですからね。常に。

豪 ええ、どういう形態をとろうとも実用の技術であるという矜持はあるべきだし僕もある。そういう意味では考えは同じだと思うんですけど、卑近な意味で言ってしまうと、やはりマーケッティング的な意味ですよね。
ただ「武術」って言ってしまうと色んなジャンルがある中でどういうものをやっているのかが伝わりにくい。僕が実際教えているのはメインは剣術になるんで、やはり古い武術である、剣術であるというのが伝わらないと…。

佐 そこでもアイデンティティの問題として、もう一個出てきてしまうのは、たとえば純粋に「剣術」といった場合、槍とか飛び道具とか対異種の技術は含まれなくなっていくと思うんです。

豪 ああ、純・剣技という事になる。それはありますね。

佐 「武術」といった場合には全局面的に何に対しても戦っていく…あの一刀流の生田先生と将棋を指していて豪先生が将棋強かったっていう話をしたことがあるんですよ。そうしたらちょっと引き気味に「あの人は兵法家だから」って言っていて。剣術者と兵法家を分けていたんですね。

豪 引き気味だったんですか。 (笑)

佐 (笑) で、前、サンボの石原さんが寝技で太ももを絞める技をやったときに豪先生が非常に食いついていて…。

豪 面白かったですね。あれは。

佐 そのとき、「寝技っていうのは剣術から遠い技術体系からこそ知っていなければならないのだ」というようなことを仰っていて、この感性っていうのは純粋に剣術の流儀の中にいる人にはない発想ですよね。

豪 ないと言い切ってはいけないと思いますけどまあ…人によって射程は違うでしょうね。一応、自分の理想的な視野としては「武術」っていうすべてを包括している土台があって、その芯は皆、共通で持っている。その中で自分は剣術に焦点をおいて全体を把握していきたいということですよね。
多分、武術という全局面的なものを、いきなり、じゃあやりましょうといっても出来ないと思うんですよ。広くて具体性がなさすぎる
から。なのである人は体術を基本にして、ある人は剣術を基本にして、何らかの中心を置いて練習すると思うんですね。

佐 その点、柳生心眼流とかは、そのまま全部の基本動作が無手でも武器をもっても全部互換性があるっていうシステムがある訳ですけれども…。

豪 と言っても僕の目から見ると、あれはやはり体術と棒術が中心ですね。剣術はやはりあくまで応用転化の一例ということで。総合武術としてどの武器でも技術は一緒ということは剣術でもいうんですけど、実際は何が中心的で何が周辺的かということはあると思います。

佐 剣術の理合いが体術に、というのは黒田鉄山先生の動きを見て非常に納得できるんですけれど、実際の動きとして一刀を両手で握るというのは…。

豪 けっこう特殊ですね。

佐 ええ、その握っている剣が相手の腕と考えると、コントロールしたり近いものがあるんですけれど。その点やはり二刀流というのは無手と互換性が高い。

豪 はい。人間通常は両手が分かれているんで、特に当身の技術なんかは二刀的な技術じゃないと…。その点も考えるとやはり僕は剣術の中でも古流が好きなんですね。必ずしも両手で剣を持っている訳ではなく、片手持ちになったり二刀になったり、あまり束縛されていない方が汎用性がある。

●3 武術の役割

豪 使命感持っていますよね。武術家であるということに対して。

佐 ある意味では武術家っていうのは司祭に近い役割というか…非個人ですよね。

豪 はっきり言って宗教家に近いスタンスで武術家という職業を選んでますよね。

佐 宗教家は職業かっていう問題がありますけど。(笑)

豪 職業を越えた生き方というか、それ自体に使命をもっている。

佐 ビジネスとして考えるならサービス業になってしまいますから、たとえば「私は野菜は食べたくないです。お菓子だけ食べたいんです」という人が来たら…。

豪 それを許すことになる。

佐 ええ、ちょうどいま、そういう生徒さんがいて、習い事ジプシーみたいになっちゃっている観がある。ヨガとかいろいろやってきたんだけれど、自分の思うやり方や自分の望むことをやってくれないと言って、あちこち渡り歩いている。でも芸事って逆に、「したいこと」じゃなくて「必要なこと」を渡されるものなので。
だから私がそういう要求をされたら「どんな手を使えば野菜を食べてくれるか」という考え方でカリキュラムを組む。

豪 ああ、そこまでやりますか。

佐 その人も結局、武術をやりたいとか私に引き寄せられてくるっていうことは、どこかでそれを自分でも…。

豪 望んでいるんですね。

佐 望んでいるし、今までのやり方、このままじゃ駄目だって深層心理では気づいている。

豪 でも、具体的な話、その人それぞれのニーズとか状態とか環境を考慮してひとりひとりオーダーメイドで指導して、通常の月謝とかでやってられます?

佐 今の人数ならやってられます。(笑)

豪 それは手が足りればという意味ですよね。とりあえず佐山先生の自分ひとりの生活が経済的に成り立てば、という。

佐 逆に言えばお金のある人から大量にもらって、お金のない人からはもらわないでもいいし、まあそこで平等性っていうのはないんですよ。なんでかというと武術自体が人を100のレベルに引き上げるとして、99レベルの人が来たら1だけ上げればいい。でもマイナス5000の人が来たら5100引っ張り上げてあげないといけない。そういう仕事なので仕事量と対価が比例してない。まあ、聖書の「ブドウ園の労働者」の話みたいなもので。

豪 平等でないことが公平である。公平主義ですよね。確かにそうなんですけれど現代人の観念と合わないのは、ひとりひとりスタート地点や払う対価、教わる内容が違って当たり前とか、もっと話を戻すとさっきの、自分がそのとき望んでいないもの、視野に入っていないものを与えられて、それを受容することで自分が変化しないといけない訳ですけれど。

佐 そうですね。 

豪 自分そのものを変容することをまず認知して、まずそれを求めるかどうかが前提にある。でもおそらく現代人ってそれを求めたる度合いが減っている。

佐 そういうものがあるということ自体知らないし、自分の思い通りになることが良いことって価値観がある。全部、自分を中心とした発想ですよね。

豪 そうすると現状の自分の持っている視野の外には出られないですよね。

佐 逆に言うと、現代の武術の意義ってそこを与えてくれる所にあるんじゃないかと。そういうものを与えてくれる文化が少ない。それがセールスポイントなんじゃないかと。

豪 そうですね。そこが一番受け入れられ難くなっているがゆえに売りになる。たぶんそれを提供してくれるものって他にはそれこそ宗教的な…。

佐 禅寺。永平寺行ってね。(笑)

豪 宗教的なことじゃなくてやろうとしたら武術が一番良いのかもしれないですね。

佐 武術が一番かどうかはわからないですけども…芸事は全部そういう側面がありますからね。

豪 そうですね。ただ武術って一番、その固有の持っている特質上、決定的に受け入れないといけない部分なんですよね。自分の意のままにならない存在を前提としているので。それに対処することを学ぶ訳ですから。絶対に自分の思う通りじゃない状況を受け入れないといけない。

佐 そうですね。これについて思うのが(自称)武術をやっている人でも異文化に対するネゴシエートがまったくできてないなっていう…。たとえば反安倍だとか反原発だとかなんでもいいんですけど、ネット上ではいろいろ衝突があるように見える。でも、実は衝突していなくて、どっちの陣営も「あいつら分かってないよね~」「ね~」ってお互い言っているだけで、反対陣営の人が耳を傾けて、一理あるかもしれないと思わせるような対話をしている人はいないんですよ。

豪 お互いそもそも弾力性がないから。議論をする意義って、言うだけじゃなくてお互いの話を聞くことでお互いに変化する余地があらかじめ前提として担保されているからメリットがある訳ですけど、お互いに変化したくないっていう人同士でやっていると議論にならない。

佐 議論じゃなくて一方的にスピーチをしているだけなんですよね。

豪 結局、さっきの話題と総括的に見ていくと人間が単純機械化しているというか、原始生物化しているというか。一種類のエサしか食べられない、変化できないという人間性の喪失。
本来、人間って既存の動物では一番、変化のスピードが速いもので対応力や順応力がある。それゆえに創造的でアクティブたりえたと思うんですけど、そういう特質をどんどん放棄している。

佐 それが引き起こすのは武術だけでなく全文化の死ですよね。

●4 文化論・人工知能をめぐる考察

佐 文化って、身体意識を自分(個人)の外に広げていくものだと思うんです。たとえば箸を使って食事するのが最初は道具を使っている感覚であっても、熟練すればそうでなくなっていく。

豪 身体化されてますね。

佐 それが剣と自分、自転車と自分、ゲームのコントローラーと自分とか…あるいは柔術や合気だと相手と自分の間で一体化がおこる。これって人間の文化全体に広げて言えるもので、一定の色彩と線の集合を絵として認識したり、一定の音の組み合わせを音楽として捉えられる。しかも楽しい音楽とか悲しい音楽とか、誰が聞いても共通理解としてある。個人が個人を超えて広がりを持っていく。なんていうかガンダムでいうニュータイプ的な…。

豪 文化とは生得的な天与のものなのか、後天的なものなのか…それぞれありますよね。

佐 同じだと思うんですよね。結局、後天的なものといっても先天的にまったくないゼロからは生まれない。宗教とかもそうですけれど、太陽が明るくて崇拝の対象で、夜は怖い、死の象徴だとか。ほぼどこの民族でも同じように発生していく。ということは人間の中に生来そういう原型みたいなものがある。

豪 まあ個別性があるとしても、ある範囲内に収まっていますね。

佐 その人間としての規格が同じでないと武術として、型とかが成立しないですよね。こう斬ったとき、大体の人間がこう動くだろうから自分はこうする、という…。

豪 そうですね。結局これを話していくと人間論になるのですが、例外もあるけれど人間の反射というのがある一定の範囲に収まる場合が大概で。だから瞬間的に動かないと間に合わないときに、頭で考えずに自動化された習性が出る。そのときに合理化な反射が出来るような心身を築いておくのが練習ですよね。

佐 そうですね。日常的習性の呪縛からどこまで自由になれるか。パンチに対して目をつぶらないとか。本能を凌駕していく。

豪 やはり人工知能の問題と対比して考えるべきだと思うんですよ、今は。例の囲碁のヤツとか。人間が営々として築いてきた定石だと思ってきたものが実はそうでもなかった。それがたった一種類のソフトによって暴露されちゃった訳じゃないですか。

佐 まあそれはそれで全然良いというか…たとえば剣術における型っていうものは囲碁と同じで限定条件下における最適解であって、戦いの場に落とし穴があるとか、木の上に忍者が潜んでいて吹き矢で吹いてくるとか、そういう話になってくると、型通りにはならない訳で。

豪 ただそれが限定された状況下でさえ本当に最適かどうか? というのはやはり…。

佐 それはたぶん、将棋でいう棒銀戦法とか中飛車みたいなもので、途中までは大体そうするとよい感じだけど、相手の対応次第で枝葉に行動が分岐していく。その先の判断は技術と経験の蓄積がものをいうでしょう、と、いうことで、必ずしも必勝法ではない。必勝法ではないけれど意味がないかというとそれはやはり必要なものでしょう。

豪 いや、僕が思うのは初手の時点ですでに認知のバイアスがあって、蓋然的に自明の条件じゃない中で選んでいるんじゃないか? その得意な戦型に持ち込むためのファーストチョイスからして本当は定石じゃないのではないか? と。

佐 うーんその、型、理論としての強度の担保みたいなものは、「淘汰されて残ってきているから」という経験則が古武術の「古」にブランド的な価値を置いている人の言い分なんでしょうけれど。
ただそれも実は、ある戦型に対してのカウンターになる対策を同じ時間だけ練っていったら、ワクチンとウイルスの競争じゃないですけど、普通に崩せるとは思います。最近、ブログに挙げた動画と記事で、合気道の正面打ちを考察しているんですけれど。

豪 ああ、見ました見ました。

佐 あれを合気道の有段者に受けてもらったんですが返せないんですね。攻撃技の方が受け技を潰してしまう。大東流の佐川先生とかも結局、「佐川道場にはレベルの高い高弟の方が沢山いますね」と言われたときに「馬鹿を言っちゃいけない、高弟というのは私に手首をつかまれても外せる人間を言うんだよ」と言った、というような逸話があって。これも攻撃技である手首取りのレベルが受け技を追い越しちゃうと外せなくなるという現象が起きている。

豪 でも本来それが前提であるべきなんですよね。侍の攻撃技。

佐 やはり最強の攻撃技を仮想敵にしないと意味がないですからね。

豪 合気道の手刀っていうのはやはり格闘技的な打撃ではなくて刀の斬撃と同種の効果を持っていないと…あの展開にならない。刀だという想定があるから、ああいう攻撃と対応になる。

佐 うん、で、今この会話でサクサク話がスムーズに進んでいるんですけれど、ここで話している「刀の斬撃と同種の運動」自体の語意が現代人には共有されていないし、剣道をやっている人でも手首、スナップで振ってしまう。剣ではなく竹刀という鞭に近い性質のものの使い方の最適解を思い浮かべてしまう。

豪 それは剣の使い方としては効率的ではないですね。うん…。
やはり何が前提になっているか、というのを見ないといけないんで、大東流が掴まれてそれを外すところから始まるのは当然、掴みが強力だからで、ちょうど今日ツイッターでキャッチアズキャンスタイルのレスリングの記事を見たんですけれど、まず掴んで制御するという技術が強力なんだそうです。なので掴まれたところからこれを外す練習を最初にやるそうです。これって柔術と一緒じゃないですか。掴みが強力でそこからの展開でいろいろ相手にオプションがあるんで離脱しないといけない。

佐 同じですね…これも多分、やると嫌がられるんですけど、手首取りの時に下の方、尺骨茎上突起から手の甲にかけてのあたりを掴むと手ほどきが掛け難くなる。でも、手ほどき一つにしても、もうちょっと下を取ったらどうなるの? というような意識が起きにくい。ルーティンで漫然と習っている。それをやったら怒られるっていう日本の空気を読む…同調圧力的なものもあると思うんですが。(笑)

豪 これは日本文化論に派生すると思うんですけれど、正直、日本の武道って凄いし、今までその凄さを担保してきたのはこの制度だということはあったと思うんですけれど、この先はちょっと難しいですね。このスタイルの伝承文化だと。

佐 悪い部分だけが形として残っちゃっているんですよね。

豪 そうですね。自助努力に最大成果を期待するっていうのが徒弟制の最大の効果で、何も教えないことで負荷をかけた状態を作って、そこから何かを見出させる。一握りの天才を生み出しやすい。
ただ現状ではそういう人が減ってきていることと、年功序列で能力のない年長者が権威によってその制度を逆手にとって下が育たないように束縛する。創意工夫を妨げる。そういう方向のベクトルしか残ってないので…これからはやはり集団的に創意工夫を重ねていってより良い手を模索していくほうがいい。実際に殺し合いが出来ないという大きなハンデが現代人にはあるのですけれど、試行錯誤、トライアンドエラーを重ねていくしかないですね。
特にこれからの時代は難しいですね。日本の武術の良き部分というのはもう、フリークな外国人たちが気づいて吸収し終わってきているので。この先、彼らが伝統と体制に縛られない思想体系の中で良き努力研鑽を重ねたら、簡単に上にいっちゃいますよね。

佐 うーん、ただまあ、上に行かれる、先に行かれるっていうのは、結構どうでもいいことであって、我々のやっていることは人と人との戦いですけど意外と修羅道に落ちにくい。その…先ほど囲碁のコンピューターの話がでましたけど、電王戦っていって将棋のプロ対人工知能戦もありますよね。あれのドキュメンタリーを見ていたのですけれど、棋士の方は負けて目を腫らして物凄い落ち込んだり自己否定までいっちゃっている。でも、プログラマー側の方は、なんだこいつ、ちょっとイラッとするなっていう位、飄々としてスカした人だったんですね。

豪 ああ、まあそうでしょうね。

佐 で、実は武術家のやっていることって戦いに勝つというよりは、戦いの構造の解明であって、どっちかというとそのプログラマー側なのかな、と。そうなると、自分より研究が進んでいる人や、もっとレベルの高い人がいるってことが嫉妬とか焦燥には変わらないんじゃないかな、と。

豪 ま、それはあくまで武術家の一つの形態じゃないですか? 

佐 全員がそうではないでしょうね。当然、「実戦武術家」的な考えの人もいるし。

豪 自分という個体がいかに強くあるか、ということを主眼にしている人もいますよね。

佐 でもそれって武術家というより、武芸者…。武術っていうシステムに興味があるんじゃなくて自分に興味が向いている…という時点で私は、そのタイプの人があまり強くなれる気もしないんだけれど。

豪 (笑)

佐 逆に、システム自体に興味が向いている人の方が、人間のもっているバグとかチート機能を熟知していて強いな、という…。

豪 もうそれは純粋武術家、技術職能者としての武術家ですね?

佐 プロ棋士とかもやはり、負けてはいけないということで勝負が終着点になってしまうと、あまりにも自分がやってきたことと離れた新戦法とかには転向、ジャンプが出来ないですよね。負けるかもしれないから。
そうなってくると技術の発展的には頭打ちだし、仮に一個体としてその人が強かったとしても、その人が死んだあと、武術界に何か一個でも新しい定跡、発明、歴史の進展が無いじゃないですか。

豪 そうですね。イノベーションがなければね。そこはさっきの人工知能の問題に回帰すると思うんですけれども、将棋で言うと純粋な技術って盤上での限定条件下でのことですが、それだともう人間はAIに勝てない。

佐 そういう思考法自体はたぶんコンピューターの方が強いし、たとえば剣術の最適解も3D格闘ゲーム的なシュミレーターで解析できるかもしれない。

豪 出せますね。

佐 ただその「実戦とはなにか?」みたいな話になってきますけれども、たとえば私の弟子のSさんとかは、セルフサービスのカフェで働いているときに、「ちょっと運んでちょうだいよ」「いや、できません」といった押し問答があったらしいんですね。で、客に舌打ちされて去られてしまった。でもそれは武術的に見ると実戦的には「死」なんだよ、と。
極論をいうと剣禅一如という言葉がありますよね。で、ちょっと飛躍しますけど禅といえばとんちの一休さん。それって「屏風の虎をを捕まえろ」と言われたときに、「できるorできない」のマニュアル的二択じゃなくて「じゃあ捕まえるので将軍様が屏風から虎を出してください」という第三の答えを出してくるのを求められるのが「実戦」なんじゃないかと思うんですよ。
そこで「セルフサービスだからできません」じゃなくて、その人も納得するし、お店のルールも破らないような突破口を開けるようにならないと意味がない。
で、そういうマニュアルでは対処できない回答が求められる局面って生きていれば幾らでもある。実生活でそういう局面を突破していくには、どんなにコンピューターが発達してもその部分は肩代わりしてくれないので、自分自身がそういう思考法をもっていないといけない。だったらそれに関しては武術が不要になることは永久にないんじゃないかと。

豪 おっしゃる通りで例えば剣術なんかでいうと実は囲碁や将棋よりはるかに理論は単純だと思うんです。物理的な勝負の場でどういう状況を作れば有利になるかってすごくシンプルなんですね。

佐 距離と時間と角度の問題ですからね。

豪 で、これを精確に体現できている度合いによって勝負がつくと思うんですけれど、それを考えたら機械の方がはるかに簡単に達成できる。ただし人間がいろんな心理的、生理的な反射がある中でそれを達成するのは難しい。この難しさ、奥深さが面白くて文化文芸たりえるのは人間ならではなんですよね。理論だけあっても意味がなく人間がやるからこそ意義がある。僕はそのことを「人類最後の趣味」って呼んでるんですけど。

●5 ミクロとマクロ

豪 盤上における純粋技術者としての武術家ということと、人間存在としての兵法家であるということはある種、矛盾するというか、別の軸だと思うんですけど、佐山先生の中では同じ土台に乗っているんですか?

佐  私の場合、武術というもの自体がさっきの話のA or Bのクエスチョンに対してどちらでもない答えを出すってことなんで、「矛盾がある」っていう概念がないんですね。「矛盾」というものが自然界にあるという思想自体、人間が作った妄想でしかなくて、魚が空を飛ぼうが鳥が泳ごうが、そういうことが実際に起こってしまったら、実際にあるんだからもう矛盾ではないというか。

豪 ああうん、そういえばそうですね。ただ、僕も矛盾とは思わないんですけれど、たとえば盤上である定跡が破られても感心して吸収すればいいだけ、という考えも出来るし、負けそうになった瞬間に盤を引っ繰り返してお茶ぶっかけてでも負けたくない、という考え方もあるじゃないですか。

佐 ああ、命は一つしかないですからね。

豪 というのが、それは普通、相対する要素だと思うんですけれど。

佐 それはたぶん、稽古と実戦、シミュレートと本番の差じゃないですか。試合はやはり試し合いですからシミュレートですよね。

豪 じゃあ最終的には全局面含めた上での勝負ってことが究極的には命題になってくる訳ですね?

佐 うーん、だけどそれは、どこからどこまでが「型」で、そこからどこまでが「組手」かと考えると、希釈されて拡大解釈された型が組手であって、逆に限定された部分の組手が型であると考えた場合、型と組手は対偶ではないですよね。

豪 そうですね。

佐 そうなってくると、どんなに出鱈目に見えるカオスな戦闘においても一瞬を切り取ったときには限定条件下での最適解を求められるという現象は起きていると思うんですよ。

豪 でも、どちらを目的とするかは違うんじゃないですか? 理論化された純粋な局面での最適解を出すことを目的としているのか、カオスでフリーダムでランダムな条件下でよく振る舞うことを目的として、それ以下の条件での練習はその為の準備、手段だと考えるか。

佐 いや、それは多分、最終的には同じ話になっていくと思うんですよ。それこそ、まったくのランダムの中で全局面的な武術をやろうとしても何を最初にやればいいのかわからない、とおっしゃってましたが、そうなると一番マクロなことをやるには一番手近でミクロなことから一つ、解を出していこうという話になる。結局、極大的なことをやるには極小的なことをやるしかないし、極小的なこと、目の前の最適解を出すにしても、武蔵が言っているように、諸芸に触れ諸職を知る必要がある。

豪 前提で最大条件がないと最小領域でも最適解は出せないですよね。

佐 そうなんですよ。私は専門はやはり太極拳ですから、陰極まりて陽となり陽極まりて陰となる。そこには矛盾はない…。

豪 いや、矛盾と言っている訳ではなくて、それは希釈してみれば両方の相似形ともとれるし、陰が陽に含まれているとも陽が陰に含まれているともいえる。ただ順序があると思うんですよね。上達論としての順序というのがまずあるし、設計としての大中小があると思うんですけど。

佐 そこは多分、それこそ最適解は出てないと思うんですね。意拳という拳法があるじゃないですか。意拳とか太極拳はマクロから入っていくものですよね。

豪 今の対比でいうとそういう位置付けになりますよね。マクロ的なものから入っていく。

佐 逆に私は柔術もやっていますけど、合気挙げっていうのは正座して両手を取られたのを上げるという、ものすごい限定条件のミクロなことをやっていく。でも体のどこをつかまれても接触点さえあれば手に限らずに全身であれが出来るようになったなら、非常に大きい価値がある。で、それがミクロ、マクロどっちから始めるのが良いかというと、人によるかもしないですね。学ぶ人の性質の向き不向きもあると思います。

豪 濃縮と還元をどっちを先にやっていくか。むすんでひらいて。どっちから入る手もありますよね。

佐 どっちから入ってもそこで終わってしまうのは駄目ですね。ミクロから入ってミクロで終わる人とかマクロから入ってマクロで終わる人とか。

豪 そうですね。むすんでひらいてを繰り返していく中で、その中の隙間が埋まっていって全体としての智慧の蓄積があるんですよね。


前編まとめ

専門も違うし武術への係り方も違うのだけれど、「武術家は役所の窓口のようなもので、どの先生に習っても同じことを言われる」という持論を裏付けるように、やはり根幹が同一の種族であるということがよくわかる。ただ私がマクロでやっている部分を豪先生はミクロでやっていたり、その逆だったりという表現の差でしかない。お互い人工知能の発達に対して武術的関心を抱いていたのも面白い。

研究者と実践者は両立しないのではないか、という問いに関しては、研究者のほうが非リアリズムで実践者の方がリアルなのだ、というイメージがあるが、私は本文中でも書いている通り、剣術の勝負を持ちかけられても吹き矢、落とし穴で勝っても勝ちは勝ちという考えなので、盤面に向き合うプレイヤーではない。盤上で勝つことにこだわることも見方を変えればロマン、言い換えれば非リアリズムとも言えるのではないだろうか。
ゲーム攻略のタイムアタックでいうと、プレイヤーは操作を習熟してクリアまでの時間を短縮していくのに対し、研究者はロムを解析していきなりエンディングからはじめてしまう。ゲームを楽しむとか達成感を得るといった要素を抜いて結果を求めるならそれが一番早い。が、人間そう簡単に割り切れるものでもないし、純粋な研究者、実践者という人はおらずブレンド比の問題ではなかろうかと思う。

武術の最適解という考えに関しては対談後、自分の中でやや変化があり、盤面上では必ずしも最適解ではないが対人戦では最も効率が良い手、というものがあることを再認識した。世の中にはカポエイラやブラジリアン柔術のようにしゃがんだり寝たりしたまま戦ったり、酔ったふり、猿の真似をしながら戦うような武術がある。それらは必ずしも盤上の最善手としての必然でそういう戦法をとっている訳ではないが、自分はそうやって戦うことに馴れており相手はそれを相手にすることを慣れていないので、結果としては非常に有効ではないかと思う。



後半に続く (8月最終週までに書き起こし予定)













活法・殺法 

生きるということは呼吸や鼓動をするという活動が必須で、これらは器官の伸縮が伴っています。
堅強は死の徒、柔弱は生の徒という言葉がありますが、伸縮をやめ、伸びっぱなし、縮みっぱなしになったとき、人は死んでしまいます。

柔術では当身によるショックにより伸びっぱなしになっているものを収縮させたり、関節技的なストレッチで縮みっぱなしになった部位を伸ばすことを学びます。
これらはどちらも加減ややり方、施す部位によっては殺傷もできるし、整復にもなります。今回は当身による活(かつ)を説明します。

有名な活を入れる行為としては、失神した人間の背中に膝を当て、意識を取り戻させる方法などがあります。また、心臓マッサージやAEDも活の一種です。
打撃系の武術を習った人なら、睾丸が体内に入ってしまった際に、土踏まずを叩いたり飛び跳ねたりして戻す活を習ったことのある人もいるでしょう。
一番身近なところで言うと、のどに物が詰まったり、むせたりしたとき、人は本能的に胸を叩いて治そうとすることで知られています。

こうした技法はどれも痛みを与えずにショックだけを与えるという共通点があります。たとえば掌を使う場合は水を掬うときのように指を曲げてくぼみを作り、肉ではなく掌中の空気で打つような感じで打ちます。パコンパコンと音がするような打ち方です。板前さんがシソの葉や菊花などをこうして叩いて香りを膨らませることがありますが、これも一種の活かもしれません。
この打ち方で耳を打つと鼓膜を破る技になります。また、二つ重ねて心臓を打つ技もあります。

空気を含んだ掌で打ち合わせる破裂音とショック、これは肉体的ショックだけでなく、精神の弛緩に対しても効果があります。
神道の柏手や、力士が仕切りで腹や頬を叩く動作などそれです。瞬間的に意識がリセットされる効果があり、技に転用した場合は猫だましで一瞬相手を硬直させることが出来ます。

カルロス・カスタネダの本の一節で、筆者が呪術師ドン・ファンから教えを受ける際に、体の一点に強い衝撃を加えられ、その後、鮮烈に呪術の核が何なのかを理解するという描写があります。
ドン・ファンはどうせその理解は永続的なものではなく、今作り出された精神状態が切れれば分からなくなる、と言いましたが、筆者は、今、こんなに明確なのだから忘れる訳がないと反論します。そこでドン・ファンが筆者の身体の別の一点を突くと、さっきまであれほど鮮烈に焼き付いていた体験の確かさは消え、感覚は曖昧なものに戻ってしまったといいます。この本はフィクションですが、武術的にかなり興味深いものです。

琉球空手の三戦の型の稽古で、指導者が修行者の体のあちこちを打ったり蹴ったりすることがありますが、これも、肉体、ハードの打たれ強さを上げるのではなく、ソフトである意識へのアプローチの意味もあったのではないかと思われます。武当山で八卦掌を学んだフランソワ・デュボワ氏も、型の稽古中、何の説明もなく体のあちこちを叩かれたそうです。
ドラマで男女がビンタしたあと、「もっと自分を大切にしろ」というようなことを言うと、先ほどまで聞きわけがなかった相手が素直になるとか、催眠術を解くときに掌を打ち鳴らすとか、座禅中の警策もこの類でしょう。ざっくり言うと、普段の人間は精神的に回線が一部切れており、接触の悪いブラウン管のように、叩くと瞬間的にそれがつながることがある訳です。

武術は全身全霊でやること、つまり五感すべて、そしてそれ以上の領域で情報を受け取り処理することが必要です。しかし、ぼんやりしているのが常態化してしまっている人は、その人のレベルでの集中をして、それが全身全霊なのだと勘違いしています。それは砂嵐の中にぼんやり人が映っているテレビのような意識感覚を「テレビとはそういうものだ」と思っているからです。それ以上の、くっきりと明確にものが捉えられる状態を知らないのです。
そうした人は技を見てもぼんやりとした印象しか残っていないので再現できません。しかし活を入れることで、今までの状態がローギアであって、トップギアは別にあると知覚するのは、そうした意識の定着化の入口になります。
はじめてロックを聴いたときに衝撃を受けた、とか、子供のころ犬に噛まれて大けがをした、というような、ショックを伴う体験は、ぼんやりとした印象ではなく、そのときの空気の匂いや感覚、感情などが丸ごと風化せずに保存されます。常にこうした感覚で事象を捉えられるということが武術に高いアドバンテージをもたらすのは言うまでもありません。

難しいのは、こうしたショック療法的な活が、効能、手段を正しく理解していない人がやると、シゴキ、体罰的なものになる可能性があることです。なので、まずは他人ではなく、自分の肩、横隔膜、腹、二の腕などを叩いてみて、加減と効能を見てみるとよいでしょう。頭、首、脊椎などは叩いてはいけない部位です。
叩く前と叩く後で計算ドリルの速度を比べてみたりしても面白いかもしれません。

球、枝、柱の動き 

しばらくぶりの動画です。
衆盲、象をなでるの例えもありますが、人間とは何か、を解析するのにはいろいろな切り口があります。その中の「形状」にフォーカスしてみましょう。



人体は、頭部、関節、拳などの球体と、枝のように伸びた手足、そして円柱のような胴体で構成されています。それらにどうアプローチするか、という見方がひとつあります。

空中に球が浮いていると仮定し、その表面をなぞって動いていくと、合気、太極拳的な運動が発生します。
枝が伸びていると仮定し、それに巻き付くように動いていくと、シラットや意拳のような運動が発生します。
柱があると仮定し、そのまわりに抱き着くように回っていくと、八卦掌のような動きが発生します。

これらを組み合わせることでいろいろな技が生まれます。また、対複数の際に相手とポジションを入れ替えることで人を盾にしたり武器にしたりするのにも適しています。

術者であるということ 

日本には武道はあっても武術は根付いていない。
武道は同一規格でのフェアプレイであり武術は敵対的他者、異種とのネゴシエートだ。
前者の世界では侍の果し合いで吹き矢や落とし穴で殺されたら相手を「卑怯」と言えるが後者の世界では自分が「未熟」でしかない。

他者、異種と戦うということは予断をもたない、これはこういうもの、という固定観念を持たないことだが、日本人は本当にこれが出来ない。
元寇のときに「やあやあ我こそは~」と名乗りを上げているときに弓で射られて死んで、「あいつら空気読まない」みたいにビビったという小話がある。「名乗りを上げてから戦う」という約束事が異民族にも通じると疑ってなかったのだ。
二刀流や刀以外の武器を専門とした流派が排斥されるのも、「他人と違うことをするのはズルいし、道具の性能で勝つのは実力じゃない」みたいな同調圧力が大きいのではないかと思われる。

ツイッター上においてもこれは同じで、武術や、反原発、政治など、あらゆる対立があるように見えるが、実は彼らは対立などしていない。「あいつら分かっていないよね~俺たちだけがわかってるよね~」と仲間内で慣れ合っているだけで、異種、他者と自分を分断している。まともに戦えていない。それは論の正しさを相手に認めさせるのではなく、賛同者の数の多さで押し勝とうとしているだけだ。

自称で「武術」をやっている人であっても、自分とは違う文脈で生きている人がいて、それを仮想敵とする場合は自分の文脈で測ってはいけない、ということが分かっていない場合がある。
これも小話だが、アフリカに靴を売りに行ったセールスマンが一人は「誰も靴をはいていないから靴を売るのは無理だ」と考え、一人は「誰もまだ靴を履いていないから独占市場だ」と考えたという話がある。
同じ事象を見ていても正反対の結論が出る。だとしたら、「アフリカでは誰も靴をはいていない」を靴を売れる、売れないの論拠として語る人は愚かだろう。それは逆の立場から見れば逆の結論の証明にもなっているからだ。
それは、この攻撃をしたらこの返し技を受ける、という想像力がないということだ。つまり、元寇で弓で射られたり果し合いで落とし穴で死んだりするのと同じで致命的なのだ。

術と名の付くものに携わる術者は、それが武術、芸術、科学技術、魔術、なんであれ、全的なアウトサイダーでなければならない。これはこういうものだ、という立場をもってしまったのなら、本人はそれを自由意志だと思っていても傀儡でしかない。リベラルだろうが保守だろうが、それを選んだ瞬間に人間はプレイヤーではなく駒になる。
「武」という字は中国では矛を持つ者、日本では矛を止める者として字義が解釈されているが、どちらにせよ戦闘の専門家ということだ。戦闘の専門家は主義信条をもたない。傭兵がクライアントを選ばないのに似る。武術家の本質はプラトンではなくゴルギアスだろう。

刺身やおでんやローストビーフが白飯にあわないよね~と言い続けるだけなら誰でもできる。武術は刺身に酢飯を、おでんに茶飯を、ローストビーフにバターライスを合わせていくという作業。捨己従人とは、戦いの本質は状況と対戦相手によって決定され、主体は自分にないということだ。