最近のつぶやきから 

◆足指の話

昔の中国の纏足を残酷、野蛮と感じる人もいるが、現代人の外反母趾も、日常化して麻痺しているだけで、これは相当な運動能力のハンディキャップになっているように思える。無闇に過去の武術家を持ち上げるのは疑問があるが、基底面の安定感と大地をグリップする感覚に関しては間違いなく草鞋の時代の方が発達してただろう。
自分は13くらいからもっぱら雪駄なので、たまに法事などで革靴を履くと驚く。歩けないのだ。関節の集合体で凹凸のある足が強制的に1枚板にされてしまうからだ。腰痛コルセットやムチウチのクビにつけるやつと同列のストレスがある。靴を履いて歩くと乗り物酔いする。

◆流派性とはなにか

ぼっけもん豪先生との対談で「全ての問題は時間の有限性にある」という話が出てきたが、それを掘り下げていくと色んなことが見えてきた。
たとえば「流派」とは何か、というのもそうで、ある攻撃を受けたときに、迎撃、回避、防御のどれを選ぶか、それを上下左右、前後、回転、螺旋などどの運動を利用すべきか、という優先順位のフローチャートはそのまま「流派」の本質に近い。
これは時間が有限だから全ての系統の技術を熟練するよりは、いくつかに絞ってそれの応用で対応した方が良いだろう、ということだ。もしAIや不老不死の存在が武術をやるなら、流派、得意技、戦法という概念はなくなるだろう。

これが難しいのは、では稽古時間が限られているから、最大効率でリターンが見込める稽古を優先すれば強くなれるのか? というと、そうでもないことで、柳生宗冬がぼうふらを見てて剣理を得たというような話は王郎の蟷螂拳伝説や塩谷剛三の金魚など、類型が多い。重要な発見はニュートンの林檎のように、想定外のところからやってくる。
逆転の発想だが、「時間がないから効率的なことをする」のではなく「時間がないから、あらゆる出会い、体験を学びとする」という見方があり、そうなると24時間、夢の中までが学びとなる。効率を考えないことで最大効率に達する。

◆サブウエポンをもつ

修行系統を限定しないメリットは、直線系の技能で99レベルないと困難な状況が、直線10レベルと回転3レベルくらいの組み合わせだとあっさり突破できる場合があること。
たとえば二刀や槍、弓に対して戦うとして、剣のみより、剣と体術とか、剣と手裏剣なら、もっと楽に対応できる。
自動車がピストンと車輪という単純な原理を組み合わせただけで便利なように、簡単な理合いでも複合すると強力になる。イラストが描けるだけの人と、デザイン、編集も出来る人だと仕事の幅が違うのと同じだ。
気をつけないといけないのは組み合わせで、たとえば柔術のサブウエポンとして点穴は有効で、知っていると打開できる局面があり、使用できる間合いがかぶっている。
じゃあ、槍術のサブウエポンは何が良いか、という時に同じ間合いの武器を選ぶのは愚だろう。槍は両手を使うのだから、他の武器に持ち替えるとしたら槍を手放すことになるのでシナジーが見込めない。
槍を使うとしてされたら嫌なのは、穂より内に入られたり、槍をつかまれたりした時なので、そうなると体術がサブであった方が良い。
大事なのは「西瓜と天ぷら」のように全部の組合せを暗記することではなく、ぶらさがったバナナを見て、台と棒を組み合わせて取得するように、瞬間的に必要なものを構築できること。それが出来ないなら武芸十八般に通じていてもどれも生かせないだろう。

余談だが、日本における弓が完全に実用武術の側面がなくなっているのは、弓道家はサブウエポンを学ばないことからもわかる。道ではなく術として弓術を学ぶなら流鏑馬のように移動手段と併せるか、パルクールのような軽身功や隠形の術が必須のはずだからだ。

◆武術の原型

白桃会の武術の歴史にも書いたが、武術の始まりはどこからか、というと原始生物のころからあったともいえるが、明確化したのは原人が棍棒を使い始めたころだろう。
それは石で殴る、という無手の延長から、明らかに違う戦闘体系を求められるものだったからだ。それまでは野生動物と同様で、攻撃力と耐久力では耐久力が勝り、ちょっと小競り合いをしたりしてもなかなか同種族間では死には至らないように人間は設計されていた。しかし棍棒は当たると一発で死ぬ。
ゲームでも体力がゼロになったらゲームオーバーのものと、一回のミスで終了するものとでは戦略性が違うように、これは戦いが全く別の段階に入ったという事だ。そこでは今まで気にしてなかった回避、防御といった戦術が大事になってくる。そうなると本能より後天的学習にウエイトが置かれる。これはすでに「武」だろう。

それは同時にモラルやフェアプレイ、法や規制の基礎となっただろう。なぜなら誰でも棍棒で殴ると死ぬ訳で、そうなると、何かしらの協定なしでは全滅してしまうからだ。人間の精神文化はたぶん大体、棍棒が元になっている。核兵器やバイオ兵器を作ってしまってからそれを規制したりするのもまったく同レベルで、このオーバーキル能力を手に入れてから後追いで倫理をくっつけるやり方は何一つ進歩していない。

もうひとつ、棍棒から「武」が生れたと同時に「兵」もこのとき生まれただろう。
なぜなら集団で思い思いに武器を振り回した場合、味方を殺してしまうから、全員が同方向、あるいは放射状に攻撃する必要がある。陣形という概念の発生だ。
武器と兵器、武士と兵士の差はここが大きくて、多種多様な技を自在に使える人間は単体では強いかもしれないが集団戦では迷惑で、一心不乱にただ同じ動きをする人の方が尊ばれる。
日本人の行動規範である「和」は「兵」の論理で、武術はある意味ではその対極にある。

最近のつぶやきから 

◆武術を救うには?

武術を守る、救う。それは大事なことだ。しかしそれには武術の側に立っていてはいけない。
人は自分たちの権益を守ろうとする人間に興味を持たない。
まず武術が何を守り、救えるか、が先にある。

たとえば融資を銀行に頼みに行くときに「自分が如何に会社を愛してるか」というような話をされても銀行側としてはそうですか、とした言えない。
武術は敵対的他者に対してのネゴシエートであるのに自分の情熱のみを発信するのは、泥棒にまてーとか、暴漢にやめろーと言うのと同じで、それで解決するならまあ、そもそも武術自体いらないだろう。
我々の矜持は「手段」の専門家であることなのだから、自らを永らえることを「目的」としては空辣な存在になりかねない。用から離れて用の美はありえない。まあそれでいて無用の用を説いたりもするので矛盾の塊のようなことをやっているのだが。

居場所のない人や、暴力や恐怖で尊厳を傷つけられた人、死や病、ジェンダーといったものを克服しようとしている人に、武術が助けとなったのなら、今度はその人々が武術を支えてくれるだろう。大きなイベントをしたりスターを輩出したり、メディアに露出することも、まず武術を知ってもらう窓口にはなる。が、最終的には目の前の生徒ひとりを何とかすることが武術を救うことにつながっている。
もっと言うと、100人生徒が入ってきて1人が辞めたなら、その1人が何を感じたのかにフォーカスするべきで、そうでないと今いる100人も潜在的には去っていくだろう。ダムの決壊に小さいも大きいもなく、髪一筋の隙の取り合いをするのが武術なのだから。

◆目的を持つことは自己完結

弟子が「思ったように体が動かない」とか言っている。ならば思わなければ良い。目的地のない人間は迷子にならない。
相手が右半身なら右で打つと殴りやすく、左半身なら左で打ちやすい。「体が思ったように動かない」人は、そうした相手の状態関係なしに殴っている場合が多く、それは体が動かないのではなく相手との関係性を無視している。問題は体が動かない事ではなく、自分が思った通りに相手がやられてくれるはずだという勘違いと、その原因さえ相手との関係性ではなく自分の体の使い方というクローズドな問題にすり替えてしまう自己完結性にある。

たとえば先日、弟子が「太極拳の動きで組手が出来るようになりたい」と言うので指導していたら、ジャブのように打った拳をすぐ戻した。あらゆるものが太極に含まれる。しかし私はそれは太極ではないと指摘した。なぜか?
それは単一目的性を持った瞬間にあらゆるものを内包することが出来なくなるからだ。
打った拳を戻すということは、「殴るという目的の為に拳を出している」し「元の構えに戻りリセットすることを良しとしている」から価値観が含まれている。
太極拳には構えはないとも言えるし、全ての動作を構えと捉えることも出来る。なので打ったなら打ったあとの形を構えとすれば良く、打つ前の構えに戻すのは振り飛車にしてから居飛車に戻すような一手損になってしまう。

打つために拳を出す、という意識がなければ、当たらなかった時でも「打ったら拳が出た」という結果が残る。それは占有する陣地の拡大になり、相手の首、目といった急所に近い位置に自分の手をベースキャンプとして置いた、とも言えるし、投げるチャンスも増えるので、戦局は良くなっている。打つという目的に捉われていたなら、そのメリットは見えない。

常に構えに戻るのは自己単体の完全性を求めたやり方で、太陽が沈まない白夜だとするなら、太極拳は変化していずれループして朝と夜が繰り返される永遠性を求めている。
変化、変形を恐れる、ひとつの形に固着する、というのは、わらしべを交換しないという事なので長者フラグが立たなくなる。

◆人体を軍勢として見ると

中国武術では「開門八極拳」というように腕を城門や兵士、胴体を城の本丸に見立てる考え方があるが、いろいろな流儀をこれで解釈すると面白い。形意拳の三体式や青眼の構えは正面突破の攻撃性を持ちながら二重の防壁を作っている。意拳や二刀流の構えは鶴翼の陣でその側面から攻めている。三戦は騎馬に対する伏せ槍(パイク)のような働きも見てとれる。地上下の構えは大きな顎とも見立てられるし、顔面と金的という二大急所を守る長盾とも解釈できる。
同じ構えでも見方によってオフェンシブにもディフェンシブにもなるのも面白い。

◆頭で理解しようとする愚

技を見るとき「要するにこうするんだな」などと考えると、その時点では技が出来てない訳だから、要する事など出来ないので見当違いなデフォルメをしてしまう。そもそも、技としてあるものは「要された」後のものなのでこれ以上、情報は圧縮できない。
そして手順や形をなぞろうとする人は目の前の技そのものではなく、自分の頭の中で解釈した二次情報をなぞるので、伝言ゲーム的変質が起きてしまう。そうすると絵心のない人の描いた似顔絵を元に犯人を探すようなことになる。ここで必要なのは技を繰り返す努力ではなく、認知の歪みを自覚することであり、対象に礼を払うということ。
礼とは直であること。予断をもつことや、現時点での自分にも理解できるものと舐めること、デフォルメして切り捨てられる無駄があると思うことは、礼がないから発生する。

最近の稽古から 

例によって「枯れた技術の水平思考」です。
一つの原理をどこまで幅を持たせて展開できるか。







太極・両儀 

太極拳は太極の思想に基づいています。
そして太極の思想は易や老荘、道教、中国禅と深く結びつき、混然一体となっています。

そんなに色々あるんじゃわからないよ、と思うかもしれませんがテキストで勉強しようとするからそう思うので、端的に言うならば物事を一面的に見ない、ということです。

太極は陰陽が相生して循環しています。「マネーの虎」の社長が大体破産しているように、お金をもうけすぎると巨額の借金に化ける。あるいは堀之内社長がホームレスから社長になったように、なんでもつきぬけると逆転することがある、という話です。

そもそも武術自体、実用性が大事なものですが、敵は殺さなくてもいつか寿命で死ぬし、身を守ってもいつかは寿命で死にます。ということはやってもやらなくても変わらないことの実用性とは何か? という話になります。
それでも人は死にたくないし戦わざるを得ない。これはつまり、価値がある、と価値がない、が同じになるということ。死ぬからこそ生きる、無駄だから意味がある、というような逆転があるわけです。

太極拳は仙人の道として武当山などで伝えられてきました。
仙人は不老不死の存在です。しかし、実際の人間は不老不死ではありません。
ですが、常に老いを感じることなくその瞬間だけに生き、ある日突然眠るように死ぬという「ピンピンコロリ」が出来たなら、その当人の意識の中では不老不死と言えるでしょう。これも、瞬間こそが永遠であるという逆説、相反する要素が両立している考え方です。老荘では、胡蝶の夢、邯鄲の枕などの話にも通じます。
そうした観点で見ると蝉の一生が短いとも、亀の一生を長いも言えません。全て等しいということになります。マクロ的には全ての存在が等しい。しかしミクロ的には同じ存在はひとつもない。違うと同じが不違です。

こうした思想を太極では両儀と呼んでいます。推手などはそれが顕著な例で勝とうとして押すことが負けになり、相手に押させる負けが勝ちになるので勝ちは負けだし負けは勝ちです。

しかし、勉強してよい学校に入りよい企業に勤めるのが成功である、というような特定のものだけを良しとする価値観にはこうした思想はありません。その世界では、その特定の基準を満たした成功者と落伍者しかいません。
成功者であろうとする人は負けようとはしないので結果勝てないし、落伍者と見下した相手に捨己従人といったことを出来ません。そうした一元的世界観の人には太極拳は、弱いから強い、動かないから速い、といった逆説の武術なので理解できないものになっています。

しかし、理解できない人に話すのは無駄だ、というのもまた、「無駄なものとそうでないものがある」「無駄は良くなくて利を得なければいけない」という一元的価値観なので、こちらに余力があるときは無駄だろうが話をするようにしています。そうすると案外、その人には無駄でも別の誰かが聞いていて感得することもあります。

厳しい努力、修行をする良い事というのはインドではアスラ神族、つまりゾロアスターとかジャイナ教の考えで、これは六道でいうと修羅道の考え方になります。よりよいもの、勝利、栄光、そういうものを求める目的意識に捉われ満ち足りることがなくなり、出来る人間と出来ない人間を分けてしまう。
仏教の悟りは正見を得るということでもあるので、あらゆるものをフラットに見ます。その目で見ると万物は絶対無差別であると同時にひとつとして同じものはなく尊いという絶対差別でもある。それは目的意識がある限り見えてこない地平なので、真面目な坊さんは修行するほど悟りから遠ざかってしまう。武術にもこうした間違いをしている人が多々います。
そうした報酬系で結果を求めて武術をやる人は、最終的には「こんなにやったのに結果が出なかった」ということでアンチ武術になるか、段位や入賞歴といったトロフィに価値があると自分をだまし続けるしかなくなるでしょう。

一元的な努力にクソ真面目になるのは一種の狂気で、お受験のために子供を遊ばせず一日10時間勉強させる、といった類はこれです。しかし蝉の一生、亀の一生のように、もしその子が社会に出る前に死んでしまったら、ただ地獄の苦しみを味わっただけで何も楽しいことなく死んだ、というだけです。
武術は人間は戦いに巻き込まれるものだし、いつ死ぬか分からないものだ、というのが前提なので、このような将来のための苦行を否定します。修行や基本功はやればやっただけ分からなかったことが分かり面白い、それをやっている時間自体が楽しい、というものでないとおかしいでしょう。今この瞬間を最高にする、ということ、気づきの積み重ねが功夫になるのであって、ノルマで苦行をこなしているとそのうちレベルアップするという歩合制ではありません。

実はこうしたクソ真面目な人、一元的な人は、お金さえ払えばパッケージツアーで強くしてもらえるだろうからそれに従ってさえいればよい、という思考放棄なので実直そうにみえて安直でしかないのです。

両儀の世界では「猫でもありロボットでもあるものな〜んだ」というなぞなぞを出したとき、答えはドラえもんと答えられますが、クソ真面目な人は猫とロボットを正確に二等分してくっつけようとします。両儀は折衷ではありません。これはどちらも殺しています。両儀ではなく猟奇です。
自分で考えない人、パッケージでなんでもその通りにやればいいんだろ、という人は、野口英世は手をヤケドしたけど勉強して出世しました、という話を聞くと、ヤケドすると出世すると書いてあるから出世するにはヤケドしないといけないと考えます。
また、時刻表を見れば目的地への行き方が分かると聞くと、時刻表を毎日音読していればいつか目的地につくと思っており、電車に乗ろうとしてる人に「時刻表には電車に乗れなんて書いてないから乗るな」と言ったりします。

太極拳で精密に90度を感覚で出そうとか直線をフリーハンドで描ける訓練をしようとかもこの類です。
爪先と骨盤はデフォルトで同じ向きを向くのだから、90度を出したいなら爪先をその方向に向けて体が回るまで待てばいい。なのに自分で動くからズレる。直線を出したいなら大工の墨壺や校庭に野球部が白線を引く車のように体を使えばよい。フリーハンドでやるから訓練が必要になり、しかも永遠に不正確なものしか作れないのです。
太極拳は靠のときは破城槌に、按はスプリングに、単鞭のときは起重機に、金鶏独立は井戸の滑車に、白鳳展翅はジャッキに、斜飛勢は水車に、と、目的に応じて自分をトランスフォームします。精密さは目的にマッチングしたアプローチの結果であって、間違ったアプローチで無理やり近似値を出すのは、傾いた柱に補強材を継ぎ足して家を建てるようなもので、非常に危ういものです。

しかし一元的世界では自分だけが大事で正しいので、他のものにトランスフォームすることが出来ません。
だから自分がコンパスになる、定規になるのではなく、自分が自分であるまま何かしようとする発想から抜けられないのです。
全ての武術は対多数、対武器、対強者など、不自由な状態でどう自由であるか、です。
その最初にして最大の敵は自己を縛る自己のバイアスでしょう。そこから抜けない限りは何も始まりません。

最近のつぶやきから 

◆復讐するは我にあり

復讐は何も生まないというが、何か自分の譲れないものを踏みにじられた時、本気でまず復讐を志す方が良い。
それが成就するかどうか、実行するかはどうでもいい。
それは対相手の問題ではなく、そうしないと「自分が蹂躙された時、自分が立ち上がってくれなかった。自分は自分を見捨てた」という事実が生まれるからで、多くの場合、他者につけられた傷より深く残る。

自分が踏みにじられた時、身近な人が本気で怒り、立ち上がってくれないということほど絶望はなく、もっとも身近な人は自分自分だ。実際に復讐しなくとも、自分が自分のために立ち上がってくれたというだけで、その人は立ち直れる。しかしそのプロセスを経ないと、別のどんな代償を受けても自身への不信と無価値感が残る。

◆差別心について

一見、差別に理解のある進歩的な人間が一番差別をこじらせていることが多く「僕は黒人でも差別しないで握手するよ」とか「障害者には優しくしないといけないから荷物を持ってあげよう」とか、本人は純粋な善意のつもりでも差別している。
本当に彼我を対等に思っているならそういう優越からの言葉は出ない。それはキリスト教を信じていない可哀想な未開民を啓蒙してあげよう、と同じで、他者を見下した破壊的な善意だ。
黒人にも握手しないとかわいそう、障害者に荷物を持たせるなんてかわいそう、ではなく、嫌な奴なら人種に関わらず握手しないし、元気な方が荷物を持てばいい。その人のパーソナリティではなくレッテル、カテゴリで対応を変えることが差別だろう。

女性に自衛しようと呼びかけることは「自衛しなかった女性が努力不足だったとでもいうのか、悪いのはそういう社会なんだから被害者が努力するなんておかしい。それはセカンドレイプだ」というような暴論も、一見進歩的に見えるが「女性は男性に勝てるはずがない」「レイプされた人間は強く立ち直ることなどできず泣き寝入りするしかない」という蔑視を持っているから他人もそうだろうというゲスの勘繰りでしかない。
武術には強弱も勝敗も生死もない。ただその人がその状況下で出来る最適解を出すものだ。人はいずれ死ぬのだからゲームクリアはなく、よりハイスコアしかない。だから「弱いから、勝てないからどうせ努力しても無駄だ」という理屈は生まれない。それはすでに強弱、勝敗に優劣をつけた差別心だ。
自衛できなかった人間が悪いと思っているのは、そういう差別心の持主の方であって、あらゆる方策を尽くした結果それでも及ばず死んだなら、それは戦士として立派だった、という敬意しか持たれない。結果が出ないことをやっても無駄だ、という価値観こそが、結果を出せなかった人間は無価値だというセカンドレイプを作っている。

武術には絶対的な強弱、優劣はないし、どんな局面でも逆転のチャンスはあるというのは万人にとって希望だろう。その希望の灯を消したい人間は、女性が強くなれてしまっては困るし、永久に自分は弱者だから社会が守るべきだ、と言いたいミーイズムで、人の足を引っ張って全員不幸にしたいだけだ。

絶対的な強者・弱者はいないが、ある局面が困難な性質な人と得意な人がいて、得意な方がそれを助けるというのは当たり前の事で、それは「助け合い」だ。しかし、自分は絶対的に弱者だから戦えないと言い張る人は、助け合いにも参加しないと言っているに等しい。
女性が弱いと言っても老人、障がい者、幼児など、もっと弱い存在もいる。凶漢に襲われたとき、男性のほうが強いのだから、という理由で女性を守るべきというなら、さらに弱い者が襲われていたなら相対的に自分が強者なのだから自分がいかなくてはならない。しかしこの手の意見を言う人は助けてもらうのは当たり前だが自分は救けにはいかない。社会が助けるべきと言い、その社会には権利を受け取るときだけ参加し、義務は果たさない。
そして社会が自分を助けるのは当たり前だと思っているので、他者が自分のために命を懸けて戦っているという英雄的行為に対しても感謝もなく、横で弁当を広げて傍観するような態度を取る。自衛官の被災救助活動に対してもこのような残念な人間が多く見られた。

信号無視してダンプが突っ込んできた。そのとき、悪いのは法令を遵守していないダンプなのだから避ける努力をする必要はない、というのは馬鹿の発言だ。生きるという事に対しては全ての生き物があらゆる方策、最大限の努力をするのは当たり前のことで、どんなに社会が整備されても、呼吸や食事など、生命維持の根幹部分は自分しか管理できない。武術もそのレベルの話で、実際に人が人を殺している世界で自分の意志を通して自由に行動しようと思うなら、最低限の生命維持活動に含まれる。

そして誰が悪いとか誰に責任があるとか善人悪人、男女関係なく、飛んできた弾はランダムで人に当たる。弾が飛んで来たら避けなければ死ぬ。
弾が飛んでくる社会がおかしいから社会が変わるまで弾を避けないというような悠長なことを言っていても仕方がないし、残念ながら弾が飛んでこなかった社会は有史以来一度もないし、今後もおそらくない。あるとしたら人間が全員仮想現実の中だけで生きて水槽に浮かぶ脳になった世界だろう。

関連:日本現代話


◆使える武器とは何か?

さすまたが使えないとか鎖鎌が弱いとか二刀流は斬れないとか、そういうことを言う人は「私は無能です」と言っているのと同じ。てぬぐいでもスプーンでも栓抜きでも、「これは使えるかどうか」ではなく「これをどう使うか」しかない。
柔術や太極拳は押す、引く。ねじる、圧す、といった直接破壊的行動以外で戦うとしたらどうすればよいか、という思想で設計されている。こんな爪も牙もない人体というものですら武器になるのだから武器として使えないものなどこの世には存在しない。

さすまたは使えないという伝聞に対して「そうか使えないんだ」ではなく「俺ならこう使うね」「こうすれば使えるんじゃないか?」という方向に行かないなら、武術的には死んでいる。
なぜなら護身というのは自分で所持アイテムとシチュエーションを選べず配られたカードで戦うしかないから。
そもそも武術は「つかまれた手をほどく」とか「鞘に収まった状態の剣で抜き身に応じる」というような絶対的不自由の中で絶対自由であるにはどうべきかという公案なのだから、二者択一的思考で認識しているとそも成立しない。不自由と自由が同一なら使えるも使えないもない。そう思う自分がいるだけだ。

具体的には、さすまたであれば多くの人が想像するのは横一文字に抑えての制圧だが、シートベルト状、たすき掛けに抑えれば、ナイフ、長物を持つ相手にはただの棒よりも安全性は高いだろうし、一部の人間がいう掴まれて捻じられる、ということへの対策にもなる。また、最初の構えの際にさすまたを前に突き出しているからつかまれるのであって、槍術のように扱いてマジックハンドのように突き出せばリーチ外から一方的に攻撃できる。

◆手形の意味

甲野善紀氏が一種の手型を作ることで足までが強くなる「虎拉ぎ」というのをやっていたが、これは酔拳の杯手、沖縄空手の瓶を掴んだまま内八の字で歩く鍛錬と同じで、太極拳にも単鞭の吊られる手に同種の技法が用いられている。
岡本正剛氏も下丹田への合気当身などで同種の手形を使っていたが、これはある意味、半身マヒの拘縮に近い状態を疑似的に作っている。その結果、手が動かせないので、腰の力を伝えるしかなくなることで成立する。大リーグ養成ギプスのようなものだ。以前書いた、ハンデであったはずの鞘が居合いにとって最速の道しるべになる構造と似ている。
手首取りで取られたとき、肘、肩を中心として振り回せば相手の肘、肩までしか力は伝わらないが、この手形を作って腰から力を伝えた場合、相手の腰まで届くようになる。そして大型トレーラーが急カーブでコンテナを振り回してしまうように外輪差で大きく崩れる。

禹歩もまた半身マヒのあった禹王の歩き方だが、太極拳にはこうした状態をハンディキャップではなく、そういう状態だからこそ生まれる特殊な力があるのではないか、という逆説がある。押さないから押せる、強すぎないから止められない、というように。

参考:jカイル・メイナード選手。両手両足がないがレスリング、柔術、総合格闘技で成績を残している。