FC2ブログ

套路とマンジンガ

最近、武術用語である「套路」がネットスラングで「ワナにひっかける」「騙す」といった意味で使われているそうです。
武術における套路はいわゆる型稽古のことですが、たしかに漢字を読めば套は「みの」ですから覆われたルート、隠された方法、と訳せます。

一つ前の記事で、顕密は一如である。全ては顕れているけれど、人間がボンクラなので目の前にあっても気がつかないので隠されていると感じるだけだ、という話を書きましたが、套路を隠されたルートと訳すのもこれに似ています。
ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て大悟して万有引力を発見しましたが、りんごを食べ物としてだけ見ている人はそれが落ちるのを見ても拾って食べるだけです。
同様に、型は雄弁にいろいろな原理を示していますが、上手に演じるとトロフィがもらえるエクササイズだ、と思っている人は、何十年やってもそれに気付こうとしません。

この差異は国語的にも分けられます。套路を行うことを「套路を打つ」という人がいます。これは「芝居を打つ」「ばくちを打つ」「麻雀を打つ」の「打つ」でしょう。確かにスラングとしての「騙す、ひっかける」系のトリックスター的行動にしか「打つ」という表現は見られません。

真面目な人なら怒って、自分は真人としての完成のため修行の道を歩んでいるのだ、神聖なる武術をばくちなどと一緒にするとは何事か、と言うかも知れませんが、武術は魔術や芸術といった他の術と同根であることは再三書いてきました。
麻雀、囲碁、将棋、トランプ、カルタ、双六、サイコロ博打なども発祥は神事や占いの一種です。そもそも運否天賦に身をゆだねる、という行為自体、盟神探湯(くかたち)などと同様に自分が存在していていいのか天意を問う「隠された路」のひとつでしょう。

そこで入神状態、ゾーンに入っているときの集中力はまさに「神懸かり」です。博徒であるテキヤも神社で露店を出せるし、武術家も演武を奉納できるのは、これらに兄弟的つながりがあるからでしょう。西洋でもアウグスティヌスは真面目一辺倒の神職者よりは一度、酒や博打に骨の髄まで漬かりきったほうが神とのつながりが強いという極論を言っています。
まあ、そこまで行く必要は無いけれど、遊びがない人、苦行的努力の人の技術には限界があるのは事実です。

隠された路、は三種類あると思われます。
一つは自分自身の中に。二つ目は自分と他者の間に。三つ目は自分と天の間に。

一つ目の自分自身の道は表層意識と真我の間のルートです。それがつながるとどうなるかというと、他のルートも同様ですが何らかの意識の変容、回心が起きます。
たとえば身近で言うなら一枚のアルバムを聞き続けていたら、最初お気に入りの曲だったものより、以前は良さが分らずに飛ばしていた曲が急に好きになった、とか、ある日突然苦手だった食品を食べてみたら美味しいと感じる回路が出来ていた、というようなことです。

相手と自分の間の隠されたルート、意識の変容は、手品での視線誘導やサッカーのトリックのように、意識を別の所に誘導し、カードやボールの場所を認識できなくする、というようなもので、フェイントを含む武術の技はこれを大いに用いています。
実演販売の見事な口上で必要の無いものを買わせてしまう、といった類もこれでしょう。

「恋は盲目」「あばたもえくぼ」もこれで、恋愛もマジックです。
トムソーヤが言いつけられたペンキ塗りを楽しい遊びのように振る舞い、見ていた仲間にやりたがらせて押し付けるとか、映画『戦場のメリークリスマス』でデビッドボウイが坂本龍一に歩み寄ってハグする有名なあのシーン、合気道の師範が電車の中でタバコを吸っていた不良にガムを勧め、苦笑いのうちにタバコを消させた、というような逸話もそうした要素があります。

一つ目、二つ目をあわせると全身全霊をかけた真我に到る道であると同時に博打やトリックの仲間でもあること、は矛盾が無いのが分ります。「隠された路」に通じている人は偽りのゴールへの道ではなく正解を歩けるし、他者を迷宮にいざない迷わせることも容易だからです。

最後の天と自分の間の路ですが、これは一番古くからあるのは豊漁(猟)祈願や雨乞いでしょう。自分と自然現象の間には何らかの関係性がある。どころか、自分も自然現象の一部なのだから真我に到っているならば正しい儀礼と手順を踏めば自分と天は相互干渉できるはずだ、という考え方です。
これは掘り下げると完全にオカルトで、生徒が逃げるか偏るので、そういう考え方もあるらしいね、という民俗学的見地で聞いてもらえばよいかと思います。

型としての套路も、これらが起きるものです。
何らかの自己変容が起き、他者の意識への干渉が出来るようになり、天とつながる、といったことがおきているならラジオ体操であっても套路だし、いくら有名な先生に何十年習った由緒正しい套路でも、何もおきないなら無です。

さて、套路と似たニュアンスのものにカポエイラでいう「マンジンガ」があります。
マンジンガとは何か、はカポエイラの専門家の説明であるこのブログの記事をお読み下さい。かなり套路と近い意味合いなのが分るでしょう。

カポエイラには自由への闘争としての歴史があります。
だからこそ明るさ、楽しさといった人間性を失わないことが最高のレジスタンスなのだ、というスタンスがあります。
これは太極拳などの東洋思想に近く、最終的な勝利は相手を殺傷することではなく、死によっても奪われないものの獲得でしょう。また、先にあげたような技芸、神事、音楽、舞踊、武術が分かたれていないもの。魔術的なものがおとぎ話や考現学的な視点ではなく、いまだに生で息づいて現役の力を持っている文化でもあります。

リンク先の記事に出てきたマンジンガの達人ビゾウロが囲まれた時、カブトムシになって消えたという話は、最近ヤングジャンプの連載『バトゥーキ』でも出てきましたが、これは日本の果心居士の逸話などにも通じます。
これも、人々の意識をカブトムシに移し、その間に逃げたことでまるでカブトムシに変身した、と思わせたのだとしたら、忍術のようなものと解釈できるかもしれません。

そうしてみると聖書にあるイエスの奇跡なんかも「一匹の魚とパンを何十人にも分けた」「水の上を歩いた」「パウロを失明させ回心させた」「歩けない人を歩かせ、盲人が見えるようにした」「死後復活した」など、かなりマンジンガなのが分ります。
たぶん白土三平だったら全部、忍術で説明できるというでしょう。イエス忍者説は十字手裏剣は十字架、棒手裏剣が聖釘なこと、墓が青森にあることからも裏付けられます。

それは冗談ですが、駅前の政治演説や新興宗教の遊説を見ても誰も集まっていないのに対し、大道芸が口上などで人の輪を作れるのは套路でありマンジンガです。キリスト、釈迦などの説法の達者が聴衆の輪をつくったことも、一種の術と言えると思います。
政治演説や新興宗教の人は散漫に言いたいことを言っているだけで、聴衆との間に回路を結ぶ気がありません。なので他人事なので通り過ぎられてしまいます。

カポエイラも輪を作りその中で組手(ホーダ)を行いますが、そうすると重い楽器を運んでくる人や場所取りをしてくれる人に片務性が生まれるそうで、リンク先のブログでも、気軽に来て何も義務を負わずに帰る人を運営は親として養ってあげている、という表現をしていました。そしてグループ運営に積極的に参加してもらいたい。みんな血の滲む思いでスケジュールを合せてるんだからそれを理解して欲しい、と書いています。

これは気持ちとしては良く分ります。私も長年指導していますが、最近ようやく私が剣や杖などを運んでいると生徒が自発的に持ちますと言ってくれるようになりました。が、これは自発的に、というのがミソです。輪は面白そうなことをやっているところに出来ます。強制や義務、ルールを押し付けたら人の輪はばらけていくでしょう。

カポエイラの格言には「無礼者にも礼をもって接しろ」というのがあるそうですが「我々が場所をとったり楽器を持ってくるのは義務や苦行ではなくゲストを楽しませて良い場を作るのが喜びだからなんだよ。来ている君たちも楽しいだろうけど、楽しませているホストは皆が楽しんでくれることでもっと楽しんでいるんだよ」というようなメッセージを送り続けたなら、トムソーヤのペンキ塗りと同じで「え、もてなされる側よりもてなす側の方が楽しいの? じゃあちょっとそっちをやってみようかな?」という回心、意識の変容が促される可能性もあります。
これをもし、やるべきだ、という「べき論」でやらせようとしたら奴隷からの開放、差別との戦い、自由への闘争をやってきたはずなのに、ルールや同調圧力、家父長制度といったものに捉われ、別の何かの奴隷になってしまう危険性があるように思えます。

人の喜びが自分の喜びであるなら、労働は使役ではなく奉仕は義務でなくなります。
そうした意識の変容が起こり得るか? ならず者、荒くれ者であっても恩を受けることで変わっていく、という力が武術にはあるか?
それは私自身が最初、復讐という私的な目的で武術を始め、偏狭で執われていたのが、武術によって自由になり、結果、人に教え伝えるという公的なものになれたこと自体が実例なので、あると答えられます。

武術に恩を返さなくてはならない。この文化を絶やしてはならない、という意識の芽生えは、交換条件やギブアンドテイクではなく無償の愛を注がれた時に発生するプロトコル、隠された回路のように思います。

太極拳の顕密

太極拳というのは不思議なもので、大抵の武術がオリジンの姿を残そうとするのに対し、たったの数世代で五大流派というようなものが生まれ、型の動作も順番も風格も全然違う発展を遂げています。もともとの源流といわれている陳式太極拳自体が老架式、新架式、新新架式など、別バージョンをもりもり作っています。

じゃあ何が正統かというと自由性、進化性、無形であることそのものが正統であるとさえ言えるでしょう。
それゆえ日本人にはこれほど普及しているのにまったく理解されていない武術ともいえます。
それはこれほど寺院があり参拝者がいて信仰が篤くても、誰も仏陀の教えは理解していない、というような構造に似ています。

仏教には言語化できる明確な顕教と、感覚で掴む密教があります。しかし、本来、顕密は一如で、何も秘密はありません。
型は顕かにその形、動きからメッセージを伝えている。しかし人間がボンクラだとそれを素通りしてしまっている。

孫の手というアイテムを知らない部族がそれを拾ってきて、こんな大きなフォークじゃ食べにくいとか、こんな弱い武器じゃ戦えないとか文句を言ったり、あるいは何だか分らないけど祭壇に祀って毎日拝んでいる。そして背中がかゆいと木や岩にこすりつけに行って、かぶれたりすりむいて七転八倒している。日本における太極拳はそのような状況に見えます。

日本人は学校教育からして「あらかじめ設定された正解やマニュアルがありそれを暗記するか当てることで褒められる」という報酬系の学習に偏っており、兵隊、管理職としては有能ですが、自分なりの正解を出すように思考を求められると弱い。人と違うことを恐れるし、同じ事をしていると安心する。キリギリスを憎みアリが報われるのだと信じたがる。これが自由、進化、無形から遠い非太極的思考なのは分ると思います。戦いというのは非日常であり想定外の事態ですから、ルーティンワークに有用なマニュアルでも役には立ちません。

余談ですが、ちょっと考えれば分るようにこれは非常にいじめを生み出し易い思考です。
教師がいじめが良くないと言っても説得力が無いのはそこに矛盾があるからです。教師の求める従順な生徒像に従うなら、異物がいれば排除して、誰かがいじめられていても係わり合いにならず見ないようにするでしょう。教師自身が率先してそうする場合もあります。

少し話がそれましたが、さて、武術は生きるか死ぬかの戦いを前提としています。
太極拳も然りで、戦う相手が老化や病気、あるいは広く見るなら先に述べたような「同調圧力に自由意志を殺されないこと」「自分の中の思考柔軟性が死なないようにすること」も含まれています。また、生きるか死ぬかであっても殺すか殺されるかではないので、攻撃者を倒すのではなく対立構造を解体する「勝負なし」にすることが第一義にあります。

老化や死はいつかは訪れるので、それに対して「勝利」することはできません。しかし、それによって何も損なわれない、奪われないように生きることは可能です。それは生活全ての瞬間が実戦である、とも言えます。
そして先に述べたように戦いは非日常なので、非常心をもって日常を生きるということになります。
それには型の時間だけ太極拳をやっていてもどうにもなりません。自分が太極拳そのものであること、太極拳を生きること、が必要でしょう。それは型の動きや形から設計思想を読み取ることから始まります。

前置きが長かったけどここから本編です。
動作順に私が読み取れた意味を書いていきます。当然、これが唯一絶対の正解ではないし、年々変化していくものです。
また、ここからは実技をやっていない人は何を言っているのか分らないかもしれないので一回、稽古に来るか動画を見てください。







起勢

勢いを起こす動作です。どうやって起こすかというと落下から位置エネルギーをもらいます。
落下するには身体を保持するのをやめる必要があります。つまり、勢いを起こすという最もダイナミックなものは加速や瞬発力ではなく、力を抜くこと、手放すことから始まる、という考え方が示されています。

左掤

掤(ポン)は弾力をもって膨らむ動作です。この動作は站椿功、抱球椿のチェックでもあります。右手と左手がリング状につながり連動しているなら、歯車が組み合ったように右手を下ろすことで腰が回り左手は勝手に押し返すようになります。
両手をバラバラに使っていたなら抑えられると動きませんが、左右の腕がつながってS字型のレバーになっているなら、一方の端を後ろに送ることでもう一方に力を伝えることが出来ます。これは骨格で直接つながっていない部位を姿勢と意識でつなげる考え方、「奥の手を使う」ことを示しています。

攬雀尾

いろいろな考え方がありますが用法としては単推手で押し込まれたときに押し返す動きを含んでいます。それは自動車のUターンや車庫入れの切り返しに似ています。その場から押し返すのではなく一回バックして戻ってくる。これは急がば回れという知恵と、固定する座標を胴体ではなく相手との接触点に置くことを教えています。
それは末端である手を動かすのではなく、胴体が末端である手のところに合わせるということで、末端と根幹の主従関係からの自由、つい手で押し返したくなる欲求、癖からの開放を示しています。
また、その際に掌と手の甲を組みあせて陰陽を作りますが、相手に触れる方の手には全く力を入れず陽の手だけで押すことで相手を動かせます。虚実を分明にする、自分の中で役割を分担することを学びます。
また、引く動作(履)押す動作(按)は、あえて肘を固定して自由度をなくすことで、手で押し引きするのではなく重心移動でそれを行うこと。目的に応じて自分自身がその都度変形すること。つまり我を捨てることを示しています。

単鞭

右を向いていた人間が左に180度反転する大きな動作ですが、個々の動きはひとつとして反転しようとする意思から発していません。ただ押し返した反動で戻ってきて左手の小指を張り、鉤手を持ち上げただけで結果として振り向いています。
投げ技としての単鞭は自発的に振り向こうとして投げると耐えられてしまいます。あらゆる部分が連動した結果、いつのまにか振り向けていれば、相手も崩されている感覚がないので投げやすくなります。

提手

腕を閉じるのではなく、背中を引くことで身体を閉じます。これも胴体を動かさずに手を動かしてしまうと次の靠に威力が生まれません。手を前に出すのではなく手をその場に残して身体を後ろに引くことでブランコやお寺の鐘、破城槌のような効果を作ります。
このとき、背中を抜けば形通りに前に身体は飛び出しますが、腕の張りを抜けば身体は大きなカブを引っこ抜いた時のように後ろに飛ぶので背中の靠になります。前後両方に飛ばせるパチンコ(スリングショットの方)のような状態になります。
靠では右手を太ももにつけ、左手を右手に添えますが、これは三本の矢のような教えで、アーチ構造を三重に重ねることで強度を出しています。これも目的に応じて変形することと、急がば回れ、まず準備をしてから出直せ、ということを示しています。

白鶴亮翅

靠の反動で直角ターンする切り返しです。また、これも抱球椿の変形で、前後左右上下にエアバッグのように膨らみます。全方位に張ることで、棒立ちとは違う耐震つっぱり棒のような安定を得て、同時にどこか一点の張りを緩めることで任意の方向に予備動作なしでトップスピードで動けるという不動と最速を兼ねた姿勢でもあります。
相手のガードが門のように閉じているとき、外からそれをはがすのではなく、隙間から進入して内側から膨らんで開くというトロイの木馬的な考え方でもあります。

楼膝拗歩

左右の腕が独立していると上段を二回払い中段を一回払う動作になりますが、左掤のときのS字型のつながりがあれば、三動作ではなく一筆書きで一動作になります。「膝の前を払って右手で打つ」のではなく「膝の前を払うこと自体が右手で打つことになる」ようになります。楼膝拗歩はここで連続して二回ありますが、一回目は玉突き衝突のように足を慣性で継ぐこと、二回目は同じ勢いでもその反動で戻ってくるやりかたがあるという力の使い分けを教えています。

搬攔捶

左手で皿を作り右手を重りにして載せると頭が前傾して一歩踏み出すという投石器やシーソーのような仕組みを使っています。これも站椿功ありきで、肘や肩に遊びがあると重りを皿に載せてもへなへな落ちるだけです。
また、掴まれた手を外す動作にもなりますが、これも虚実を分明にして、掴まれている右手は一切何もせず左手で右手を介助するように使います。
この手前の楼膝拗歩も右足を引きずるような使いかたをしていましたが、これは禹歩といい、古代中国の禹王が半身麻痺であったのでその歩きかたを真似たものです。なので搬攔捶でも右手を徹底して動かないものとして扱います。最後、相手を打つときも腕を自分の腹につけ、腹の上をコロの原理で転がしカタパルト的に射出するという弩(いしゆみ・クロスボウ)の矢のように扱います。
これは動かないことをハンデとするのではなく、動くものと動かないものを組み合わせることで動物的運動からメカニズム的な理に移行するという思想を表しています。これは動かないものを動くようにしようとしたり、残った能力を守ろうとするリハビリテーションとは異質な思想で、ここに病や老化、死に対して「勝つ」のではなく、そうなっても不自由を感じなくする生き方へのヒントがあります。

疲れたのでここで切りますが、全ての動作に何らかの特許的な発明、アイデアがあることがわかると思います。これらは顕れていますが漫然と見ていても気づかないものです。そして、どれも対人戦闘だけでなく恋愛、ビジネス、軍事、ゲームなどあらゆるシーンで共通性のあることを示しているのがわかると思います。
また、行住坐臥を太極拳として生きるというと、何か厳しく険しい道のように考えてしまいますが、形が示しているものを見ると「いかに楽に、ストレスなく生きるか」ということに徹底しているのが見て取れると思います。
四両の力で千斤の重さを撥じく、というのが太極拳の特徴です。それはやればやるほど生きやすくなるので、むしろそれ以外のやり方をしている時間の方が苦難に満ちているように感じます。

これをまたマニュアル、教典化してしまったなら、また、ありがたや、ありがたやと拝むだけで思考停止したアリに戻ってしまうものなので、自分で考えて発見して気付いていってください。知恵は暗記するものではなく捻り出すものです。

天地人のカレーライス

東洋的な考え方では天地人という分類があります。

姿勢に関しては頭頂部から尾てい骨までの垂軸を上に引き上げることで天とつながり、下腹部の重心を落とし足が地に根を張る感覚で地と合一化します。

そうした身体感覚とは別に物事の考え方の分類として天地人の視点があります。

「人」はそのまんま人なので、人間の尺度です。
人間は目的意識を持つことが良いことだ、という感覚があります。買い物でたとえると、最初から「カレーが食べたい」という意志があり、そのために豚肉や玉ねぎを買いに行くのが「人」の行動です。
しかしそれは、実はその日の肉や玉ねぎがあまりよい品でなかったり、よくよく見ればもっと食べたいものがあったのに、カレーに執着したせいで見落としているのかもしれません。その結果、あまり美味しいカレーにはならず、自分が食べたかったのはこれではなかった、と思うこともあります。

武術で言うと、最初から使う技を決めているような戦い方がこれに類します。
メリットとしてはたとえば青眼にかまえることで「今からお前の喉を突く」というようなプレッシャーや意図を伝えることで、そこから相手がするだろう反応を計算し、読み合いにもっていけることです。
しかし、逆に言えば意図を読まれやすいということも言えるし、全くの異種の行動パターンの相手や、「喉を突かれようが相打ちでいいから殺す」というようなリスクを度外視した相手が出てきたときに通じません。

想定以上のリターンを得ることが出来ないし、想定外のリスクには対応できない、というのが人の視点の限界です。

「地」は環境からの視点を指します。
まずスーパーに行ってみて、一番お買い得で鮮度の良い食材を見て、そこから作るメニューを逆算する考え方です。
その結果、豚肉があまりよくなかったら鶏肉やひき肉を買うこともあるでしょう。

武術で言うと、使いたい技をかけるのではなく、そのときの体勢、地形、間合い等の状況から一番合理的な行動をする、というものです。逃げた方が早ければ逃げるかもしれないし、武器になりそうなものがあるならそれを使う。万物を味方につけます。
この視点がある人はまずもって「人」の段階に執着している人に負けることはありません。

最後に「天」ですがこれはスーパーに行って何も考えずにぱっと適当に目に付いたものをカゴに放り込み、帰ってきてみたらカレーが作れそうだったのでカレーにした、という感じです。あるいはもう、近所の人が野菜を分けてくれたので作るとか、そういう運命的要素をはらんでいます。

じゃあランダム、いきあたりばったりじゃないか、と思うかもしれませんが、実は天地人は一如です。
なんでぱっと見たときにその食材を選んだのかというと、潜在意識の中でカレーを食べたがっていたから(人)だし、その食材が一番、目を引く何かを周囲に放っていた(地)からでしょう。それに感応したということは、むしろ信頼できる選択です。

武術でいうと、たとえば返し技がこれに当たります。自分から仕掛ける技は自分で選べますが、相手の攻撃に応じて返す技は咄嗟に身体が動くだけで、決まった形や手順はありません。そして多くの人にとって闘争は自発的ではなく理不尽な攻撃に応じることから始まることから考えると、この要素が一番大きいのは間違いないでしょう。

天の視点ではカレーが食べたいからカレーを食べるのではなく「自分がカレーを食べたかったことに気づく」という面があります。
人の視点だと、酒が飲みたいとか、常に何か食べたいとか、依存のような形で現れている「目的意識」の外は見えませんが、天の側から見ると酒が飲みたいのではなく何かのストレスや恐怖を麻痺させたいのではないか、何か食べたいのではなく精神的、愛情に対する飢餓感なのではないか、という見えていなかった部分が見えてきます。

私自身、今好きな食べ物、白子、アンキモ、レバー、ウニ、牡蠣などは子供の頃には食べられなかったもので、「人」の視点でいえば自発的には選択しないものです。他者や何らかのイレギュラーから得た知見によって好きになっています。
そもそも運動やケンカと縁のない私が武術を生業としていること自体、何らかの天の導きがあった、ということでしょう。

思い通りの結果が出て予定が調和してほしい、という人は「人」の領域から出られないので苦しみ、怒りや孤独にさいなまれやすい面があります。予定が調和しなかったらどうしようという不安が常につきまとうし、大体のことは予定通りにならないからです。
そして他者が介入するほど思い通りにならなくなるので、他者を排斥するようになり、孤立します。

そうなるとホビーやレジャーという概念も成立しなくなるので楽しい、ということもあまりなくなります。
どこに打ってもホールインワンするゴルフ、何の目が出ても上がれる一人用すごろく、一切イレギュラーの起こらない旅行、というようなものを死ぬまで楽しむには人間の知能は高すぎるからです。一人きりの王国は牢獄とさほど変わりません。

最近のつぶやきから

技と術

技術の「技」の部分はテクニックのパターンだが「術」の部分は質的変換で、それまでと違う現象が起きることのように思う。
たとえば小手返しで言うなら当身から入る、胸どりに対して使う、拳銃取りに使う、などはバリエーションは違うが同一原理なので「技」の領域からは出ていない。これが、どんなに耐えていても何の力感もなく投げられるとか、痛くないのに崩されるとか、小手返しの性能自体が変化しはじめると術になる。
当身も同じで、たとえばローキックは足を上げてカットすれば痛くないので防げるが、カットしてるのにめちゃくちゃ痛いとか、軸足ごと刈られて転倒する、といった属性が付与されると術になる。

術は発明なので真面目な努力家が至るのは難しい。電話が発明されたのは家にいたまま遠くの人と話せればいいのに、という怠惰があったからで、真面目な人は野越え山越え走って会いに行ってしまうのでイノベーションに至らない。



悪手を指さないこと

推手で空いてる所をすぐ打とうとするのは戒められるし、空いているのに打たないことも戒められる。
推手が勝敗を競うゲームではないことを理解してない人は、これを二律背反に感じる。
将棋でいう二歩や王手見逃しでの頓死のような相手側のミスによる「不思議の勝ち」を誘うのは戦術ではある。
しかし鍛錬、稽古としての推手は勝負ではない。相手を負かすのが目的ではなく上達するためにやっている。
相手が最適解の動作をしているのをこちらが上回って「ありません」と投了させることが主眼なので、相手のミスによる勝ちをいくら拾っても自分の力は上がっていない。クイズにあてずっぽうの答えを大量に答えてまぐれ当たりするとか、知恵の輪をぐちゃぐちゃに動かして偶然外れたとか、そういう人を「頭が良い」とは言わないだろう。
柔道の抑え込みが逃げる猶予を20秒与えたにも関わらず逃げられなかったら一本、というような考えもこれに近い。

太極拳はたしかに積極的に勝ちにいかず千日手を狙うことでミスを誘発し、相手側の悪手による自滅を狙うが、千日手的状況を作るにはこちら側は精確にミスをしない必要がある。太極拳でいうところの天命、運、無我、無為といったものは単なるイノセンスや場当たり的楽観ではない。十牛図を一周したあとの魔術師でもある愚者だ。
単なる愚者が切り株にウサギが激突するのを待つのは無意味だが、狙って特定の兎を特定の切り株に招くのが術者である。そのとき偶然は必然になる。



癖をつけないこと

私の生活を知っている人は、普段ほとんどの時間をねっころがって自堕落に過ごしていることを知っている。指導以外の時間に稽古もしていない。じゃあなんで色々できるのかというと、むしろあまり癖がついていないから出来るのだと思っている。
柔道をしていた人は柔道の体の使い方になり、相撲をしていた人は相撲のそれになるが、それは良くも悪くも型になり、一度そこにはまると別種の動きは頭で理解しても体がついていかなくなる。

同じ相撲の中でさえ、突き押しを得意としていた力士がまわしをとって投げる戦法に転向するのは難しい。
そうなるとよく解説で使われる「今日は自分の得意の型に持っていけませんでしたね」という奴になるのだが武術は基本的に受動的に闘争に巻き込まれた場合を想定したものなので、そもそも自分の得意な型で戦える可能性自体低い。
そうした「得意」に頼ることは場合によっては弱点にさえなりうる。

太極拳で要求されることはそうした癖のリセットのようなもので、毎日、「今日始めて立った赤子」「はじめて地球に来た宇宙人」のような心持ちであることのように思える。
それは「なんで?」「不思議」で構成されていて「当たり前」はない。それがニュートンのりんごのような研究者の視点でもある。そういう意味ではシャドートレーニングは「自流試合」を前提とした競技でないと難しい。やるとしたらかなり抽象的なものになるし、傍から見て分る攻撃動作などはなくなっていく。



「正しい姿勢」は存在するか?

カポエイラは手が「前足」だったころの身法への回帰ともとれる。
以前、なぜ人は歩く時に手を振るのか、そしてポケットに手を入れたがるのか、ポケットに入れた手は振らないのか、について書いたけれど、おそらく人間はまだ二足歩行に慣れていないので、宙ぶらりんになった前足の置き所がない。
馬は対角線の前後足を同時に出す斜対歩、ラクダは同側を出す斜対歩だが、手を振って歩くのは馬型でポケットに手を入れるのはラクダ型とも言える。日本武術は後者の動きが多い。斜対歩は着付けが乱れやすいのもあるだろう。

また、二足歩行自体に慣れていないのと、平地民、山岳民で最適解が違うのもあって、足と胴体と手のどれを先行させてどれが付随するかもバラバラだ。
たとえば八卦掌ではバナナの皮に滑ったように足が先に出て体が付随する。
これは一歩一歩が蹴りになるのと最大急所を後ろに置いたまま前進できるメリットがある。
一方、太極拳は泥に埋まった足を引き抜きながら引きずって一歩づつ進むようなもので、足が胴体から生えているのではなく地面から自分が生えているような状態を作る。これは押し合い、引き合いに強い。
日本武術、特に居合いなどは頭、胴体、足がどれも互いを追い越さず完全等速運動で同時に動き始めて同時に動き終わる。ボクシングは馬やラクダではなくカンガルーのように両足を同時に踏み切る。
これらは当然、互換性のないものもある。

言い換えると、あらゆる姿勢は特定の目的性に特化した一種の畸形で、キリンの首やゾウの鼻のようなものだ。ある意味では良い姿勢も悪い姿勢もない。ある種目にとって都合が良い、悪いだけだ。ステーキは箸で切れず、塗りの椀物もフォークで飲めないだろう。



基本と癖

何も身体に癖をつけないことと基本のくり返しを大事にすることも、中級者くらいまでは二律背反に感じることがある。
しかし、最大の基本がニュートラルに自己を保つことであると思うとこの二つは矛盾しない。

先に小手返しの例を出したが、多くの人はお手本を見た後でも相手の手を順手で取りにいく。
これは「物は順手でつかむもの」という意識があるからだ。
しかし、取ったものを逆さににひっくり返す動作の場合、最初に逆手で取らないと後が続かない。

つまり小手返しは「物は順手でつかむ」という本能を捨てることが要求されることで棒術や体術でも全てに適応される「後に反転する動作は逆手から始まる」という法則性の「基本」になっている。
これを理解している人は別種目でも同じ間違いをしない。



武術の習得に必要なのは時間か?

東洋武術は習得に時間がかかる、というのは、長年やってるのに一向に使えない人が自分の間違いを糊塗するために永遠に訪れない「いつか」を設定目標にしているだけなことが多い。
特に現代の日本人だと型を暗記すること、言われた課題を「まじめに」やること。言い換えるなら思考停止して家畜化されることをよしとしているので全く使い物にならない。
型がどれだけメッセージを発していても受け取る皿がない。

昔日の達人も三十代にはもう仕上がっていたし、当時の平均寿命を考えれば習得に二十年もかかるような武術は存在しえない。
日本武術でも15で若先生、20で師範、25で跡継ぎを仕込み始めて40で隠居くらいのサイクルは珍しくない。
佐川幸義は武田双角の合気上げを受けてショックを受け、一昼夜父親を相手に検証した結果、出来るようになり、父親もある程度出来るようになったという。
しかし「真面目に習っていればいつか出来る」タイプの人は誰も身に付かなかった。研究者として取り組めば、一昼夜で出来るものでも、消費者として商品やサービスと履き違えてあれば何十年たっても出来ない。
プラモデルを何千個買おうと組み立てなければ完成品にはならないのだから。



気功の定義

気功というと神秘的なものを想像する人が多いが、箸で豆をつまむ、というようなものもかなり気功的要素が強く、弱くても強くてもいけないジャストフィッティングを感覚で割り出すのような訓練は気功の領分だろう。
推手や相撲で押し負けないけどスカされてもバランスが崩れない在り方というのも箸で豆をつまむ類で、これも気功そのものと言える。一指禅などが必ずテンションの維持とバランシングがセットなのもこれによる。
ピアノで右手が主旋律を力強く、左手が微かに伴奏をする、といった「系統の違うマルチタスクを単一のシステムに統一する」という訓練も気功で、その対偶になる概念は産業化、機械化だろう。

文明はこのマルチタスクが難しいので外部付属品を機械化して人間の手間を減らした。
文化は人間が進化することで自分自身をオートメーション化する。
前者はお金さえあれば誰でもできる利点があるが、本人の技能はむしろ退化する。文明が極に達すると長寿化し、その結果「衰えない」ことを最終目標にするのは皮肉なことだ。

「衰えない」というのは文明ではなく「文化」の領分だから。