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骨、腱、神経のつながり

人間の体はいくつかの部位に分かれています(ロース、カルビ等)。
それをつないでいるのは骨、腱&靭帯、神経です。皮膚も入れていいかもしれませんが、皮膚は私の感覚だと「つなげている」というよりは「くるんでいる」なので、また別の機会にお話します。

つながっている、というのはどういう状態か。

まず、どこかの部位を動かした時に別のパーツも連動して動くソフト面でのつながりがあります。
次に構造的に擬似一体化しているというハード面でのつながりがあります。

ソフト面でのつながりは神経や腱反射によるもので、ハード面は主に骨でつながっています。自動車で言うとハンドルとタイヤなどのつながりは神経でタイヤとサスペンションは腱です。

今回は主にハード面のつながりを掘り下げてみましょう。

骨は脱臼しない限りは元から物理的につながっています。が、他の部位と連結して擬似一体化するには直列させる必要があります。
膝と鼠蹊部を伸ばして立っているときは、踵から頭頂部までが直列化し、うまく積み木のように乗っています。これは構造の丈夫さで立っているので非常に楽ですし、多くの武術でまず姿勢を言われるのは、構造の安定性がないと常にバランシングの調整にリソースを取られてしまうからです。

しかし、直列化して一体化することはある種の強さを持つ反面、ある種の弱さでもあります。
先に積み木の例を挙げましたが、もし積み木を高く積んで塔を作り、上の方を小突いたらどうなるか?
通常なら上の方は崩れて下は残ります。しかし全部の積み木が接着してあったなら一本の棒なので全部倒れます。
これが直列化の欠点で、それを逆手にとったのが相手を直列化して倒す合気系の技です。

そこで靭帯、腱のつながりが重要になってきます。
姿勢を作るにしても中国武術では膝や鼠蹊部を直列させずに緩めて立つ稽古をします。これは免震構造の家のようなものです。骨格の構造で載せるところは載せていますが、適度に腱や靭帯をサスペンションにしています。

腱のつながりを攻める技としては二カ条、三か条(二教、三教)や小手返しがあります。また、目打ちや一部の回し蹴りはあえて腱以外のつながりを意識的に切る事で手足を多節根や鞭のようにして使います。
靭帯や腱については以前も書いているのでそちらもご覧下さい。

最後に神経のつながりで、神経系を攻める技としては四カ条などがあります。
攻撃に転用した場合は突きなどで特に重要です。

物を「叩く」なら鞭でも出来ますが、「突く」には棒状のものが必要です。
先に書いたように骨を直列化すれば棒にはなりますが、質量の大きいものをそれで突いた場合は反作用で関節が壊れます。
棒にしないと突けないし棒にすると壊れる。BLEACHポエムで言うところの「剣を握らなければ おまえを守れない 剣を握ったままでは おまえを抱き締められない」的な矛盾がある訳です。
そこで、肘や肩は直列化せずにちょっと曲げているけど、物に当たったときに力が逃げないようにする、という状態にする必要があります。腕立て伏せで言うと、腕が伸びている状態は骨のつながりで、あごが下につく前の中間で止めるのに似ています。これは神経、意識、気といった感覚系の訓練でつなげることになります。

ちなみに気というと神秘的で筋力の対義語のように思う人がいますが、ここまで読んでわかったように筋肉は神経の伝達で動くわけですから気功をやっていて筋肉の使い方、パフォーマンスが下手だ、ということはありえません。まあ筋量とは確かにあまり関係ありませんが。

2018はよくわらしべ長者の話をしていましたが、わらしべ長者は観音のおつげに従いわらしべ一本にアブを結びつけ、そのアブの微細な導きに従って導かれています。これは神経系のつながりでアブとわらしべと自己をつなげているわけです。
それは徹底した捨己従人、無我であると同時に、全身全霊を使っています。全力で無私、非能動的であろうとすることは限りなく積極的な行為であるという逆転があります。
2019は骨、筋、気の関係性について三匹の子豚の例で時折教えています。藁の家、木の家、レンガの家を作るあの話ですが、おそらく東洋人であったなら順番と価値観は逆転するでしょう。レンガは強いがゆえに崩れ、藁は吹き飛ばされてもまた庵を結べばよい。あるいは、屋根は藁で葺き、壁は木、土台はレンガなど、適材適所が必要でしょう。
ちなみに2017は太極拳の陰の力について七匹の子やぎの話で解説することが多かった気がします。来年は何が来るのか。

さて、ふんふん、ほーんと漫然と受動的に読んでいるだけだとこうした記事は意味がありません。

つまるところ、武術家と武術愛好家の違いは何か、上達する人としない人の違いは何か、というとたった一つのことしかありません。自分はどの行動をどのつながりを主導で使っていたか。それは最適解だったか。ブレンドするとしたらどういう比率が良いのか。武器に気を通すにはどうすればよいか、寝技の抑え込みで骨格を活用するにはどうすれば良いか。
そういったテーマを自分で見出して実験検証し、論考し、そのうちに興味が広がって新しい課題が生まれていく。それを研究するうちに別のことが分り、さらに今までの蓄積と関連させていく、というサイクルを作るかどうかです。

現代では情報が氾濫し、人から与えられた課題の決められた答えを出せる人間を良しとした教育が多いので、受動的に誰かから有益な情報を得るのが勉強で、勉強に熱心だと努力家だと思っている人が多数います。しかし武術においてはそれは情報をむさぼっているだけ、怠慢です。

たとえ小さなことであっても自分の体験、興味から見出したことでない限りは定着して使いこなすことは出来ません。たとえそれが「車輪の再発見」の類で誰かがすでにやっていたことだとしても、それをさらに三回、四回と再発見していくうちに突然、劇的に進化した車輪が生まれることがあります。それが功夫です。武術は本質的には習うものではなく、教えているものは完成した商品ではなく自分で組み立てるための素材、パーツでしかありません。

演武の意識

最近の関心はこのところ折にふれて書いている演武という形式なんですが、今のところ完成まではかなり遠いです。
動画などではダメダメな所をカットしているので多少見られますがライブで頭から最後までをやって人に見せられるものにはなっていません。しかし本来なら100回やって100回できるもののはずです。



演武の演は演劇の演です。つまり観客に分りやすいようにするし相手に怪我をさせたり勝ち負けを競うものではありません。
しかし演武の武は武術の武です。そこには嘘があってはいけないし、当たれば倒れるし極まる、効く技でないといけません。

この命題は最初から一見すると矛盾に見えやすい要素が含まれており、多くの流派がそのあり方を模索してきましたが完全な正解はまだないと思われます。
演に傾きすぎると打ち合わせた手順をなぞるだけになります。型稽古を主とする流派では本末が転倒して「演武が上手くなることを目指す」というようなことになって武が空虚で演武だけあり、初見の相手にはまったく技がかからないという人もいる。これでは殺陣、アクションであって武術ではないでしょう。
一方、武に傾きすぎれば観客が見てもわからないもの、陰惨なもの、過激なものなどになっていき、演武である必然があるのか、これだったら試合を見せれば良いのではないかということになります。

この構造はプロレスに似ています。リアルでもありフェイクでもある。そしてどっちに偏ってもお客さんはしらけてしまう危ういバランスの上で成立しています。

弟子のSさんが演武で「演武らしからぬ攻撃」をするのが直らないので指導しましたが彼女は「要するに当てないということですか?」という理解をしようとしました。白桃会では「要するに」は禁句です。すでにこれ以上分解できない言葉を翻訳したら曲解になるからです。

以前も書きましたがやっていいこと悪いことののプロトコルは不文律で、明確化はできません。
たとえばプロレスで、

・善玉は場外乱闘や凶器を使用したファイトをしてはいけない
・トップロープから飛び降りてくる相手は寝たまま待っていないといけない
・打撃を本当に当ててはいけない
・椅子や机で攻撃する時は角ではなく面の部分で攻撃しないといけない
・あらかじめ決められた脚本と違う結末の終わり方をしてはいけない

これらのなかで正しいものに○をつけよ、と言われたらつけられないでしょう。
原則的にはまあそうなんだけど、時と場合によってはそこをはみ出してよく、むしろそこからはみ出す瞬間に醍醐味があるからです。

当てる or 当てないという話ではなく、明らかに隙があるのに見逃して打たないのもダメだし、相手が作ろうとしている流れを壊して自分勝手に打つのもダメです。そうではなく目指すものの方向性が一致していることが大事で、それが分っていれば形式を守ることも破ることも矛盾ではありません。
なので「これはやってよい」「あれはやってはいけない」というような個別の理解をしようとすれば「この間は良いといわれていたものが悪いといわれた」というような混乱しか招かないでしょう。

電車でさりげなくこちらが座席を譲ったのに、がっついて「今だ! ここはアタシの席だ! 誰にも渡さないよ!」という勢いで威嚇しながら座られたら、その人に対する印象は「お年寄り」から「クソジジイ・クソババア」になるでしょう。
相手の気遣いが見えたなら、拍子を合わせてくれている相手、こちらにターンを譲ってくれている相手を「隙がある」と勘違いして慌ててがっついて打ちにいったりはしません。

相手の意図を理解せずに自分勝手にふるう攻撃は武ではなく暴力です。
我々が演武で一番見てもらいたいのは武というのはここまでコミュニケーションができて人と人が通じ合えるものなのか、という部分です。

上の動画の4分26秒あたりでSさんが捨て身投げを仕掛けます。
これは肘がぜんぜん極まっていないので私は受けをとりませんでした。極まっていないのに倒れるのは武ではないからです。
その直後に私は同じ技を返しています。これは、そうしないと先程のSさんが勝手に転んだように見える、やらせに見えてしまうから、本当はこの技がやりたかったのを失敗したんですよ、というのを見ている人に伝えるためです。
そのあとSさんは『なぜ自分の技はかからず先生の技はかかるのか?』と思い再び同じ技をかけてきました。
これも先程の悪い点が改善されていなかったので、私は全く同じ返し方で返しました。
するとSさんはなぜ同じことをしているのに(全然同じではないけど)そうなってしまうのか理解が追いつかず「ん?」と完全に2秒ほど演武中であることを忘れてフリーズしてしまっています。それでは演武にならないので中断してしまいました。

思考の流れを追ってみるとSさんが「相手をやっつける」ことを考えていて「見ている人に何をどう伝えたいのか」「自分のやっていることがどう伝わっているのか」がまだ無いのがわかります。そこがまず最初の課題でしょう。

謹賀新年


あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。



新年一発目の動画です。小金井の護身術教室の生徒さんに受け手をお願いしました。



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戌年はまだ終わらない! 終わらせない!
犬張子の絵馬はまだまだ販売中です。干支とか関係なくかわいいのでマスト・バイですね。

本年最後の更新です

今年はやめた人が極端に少なく、新しく参加してくれた人や戻ってきてくれた人、思いもよらぬ再会が多かったので良い年でした。
また、年末には日本赤十字社からの正式依頼を受けて神奈川県ライトセンターで視覚障害者向けの講習会を開催できました。二回目があるかはわかりませんが、これは自分としては手応えのある講習でした。

何度も逆鱗に触れて破門寸前まで行ったり来たりしていた弟子Sさんも、ご覧のようになかなか頑張っています。



これは演武です。
これまで白桃会は組手はしても演武はない方針でやってきましたが、実験的な試みとして今年からはじめました。

全部即興で、攻撃は当てきらない、掛け切らない。
技は力ではなく技で返し、攻防のラリーを見せる。
ワンサイドな内容にせず相手の良いところを引き出した上で自分もそれまで出来なかったような動きを生成していく。
そうしたアントニオ猪木の風車の理論的な約束の上でやるカポエイラのジョーゴのようなものです。

演武考はまた稿を改めてやるかもしれませんが、武術の演武にはオーバーアクションによる演劇化、決まった手順を上手にやることが稽古の中心になり武の本義から乖離すること、勝ち役と負け役が決まっていて一方的な内容になること、その印象を避けるための行き過ぎた抽象化などの問題がありました。

何より私の感覚では演武はやらされる稽古であってやっていて楽しいものではない。やりがいは発表会やその出来栄えに対する賞賛に対して二次発生するだけで行為自体には面白さはない、というのがありました。
まだ手探りな部分はありますが現在の形式はやっていて楽しいし、推手、組手との境界がなくグラデーション的に移行できるもので、上達に直結している感覚があります。

で、2019年に向けて、あんまりオカルトなことを言うとドン引きされるのでアレなんですが、このような稽古を通して武そのものになっていく、ということをやっていると、感覚としてはPLAY(遊ぶ)からPRAY(祈り)に近づいてきたように思います。
漠然とですが、この演武は奉納、鎮魂といった方向に進んでいくように感じます。

といっても、白装束を着たり神社で演武したり悪霊を調伏したりといったことではなく、まずは自分自身に対するセラピー、行としての作用が大きいでしょう。

無理、無駄、ムラをなくすこと。
相手を受け入れること。
強者は驕りと、弱者は恐怖と向き合うこと。

当会が動画で技術をポンポン解説してしまうのは、結局のところこうした心身のあり方がなければ理だけ知っても運用できないからです。

最近のつぶやきから(間連動画あり)

【上虚下実】

天地人をつなぐと言いつつも「上虚下実」の上を頭、下を下丹田と解釈していたが、もっと大きく考えられるのが分った。
人間を中間点として下は地球の中心を「下実」、それと等距離のストロークを頭頂部から虚空に伸ばした末端を「上虚」とした巨大な弦を想定し、それが張られた弓があると考えてみる。

人間は弓の引くところに該当するので、後方に引かれれば前方に復元する弾性を帯び岩のような「不動」ではなく「最も自由で遊びがあると同時にどう動いても復元位置が定まっている」という状態になる。

弦としての自己を感じ取るには腰を落とした際に太ももの筋肉を固めてはいけない。
大腿部に力が入った瞬間、足裏は地面に対して反発してストンプ、キックになる。
それは「反作用を得る」ともいえるが「地球から拒絶されて天地から断絶する」ことでもある。

毘沙門天などの仏像が邪鬼を「踏みしめて」いるが、これは逃がさないようにしているのであってストンプ、キックしているのではない。そうした打撃的な力では邪鬼は自由に動けてしまう。
「踏みしめる」は地面に対して根を下ろし沈下する感覚だろう。相撲の四股もそのように思える。

足を上げて勢い良くおろす四股は自力だが、天地をつなぐイメージでは、上から他力で引き上げられて地面に埋まっていた長大な触手(足)が引き抜かれかけ、その重さでまた地中に埋まっていくという大蛸になったような、うねりの感覚がある。この状態で足を引き抜いて下ろす繰り返しで歩くとゴジラのような感じになり、なぜか手もゴジラの形にしたくなる。



【身体の多節根化】

ぼんやりしてる時に人とぶつかりそうになると体が蛇みたいにヌルヌルっと滑って避けることがたまにあるが、意識的に再現しようとすると出来なかった。が、意識的にぼんやりすることは出来るようになったので間接的に再現性が生まれた。

おそらく意識的な動きはわずかであっても緊張が生まれ、筋肉主導の動きになるから重たく感じる。ぼんやりしてると操り人形のように靭帯や腱でつながってるだけになる。この時、ぬるぬる動ける。棒とヌンチャクの違いだ。

身体が多節棍化してると一体成型ではないので、たとえば下半身が先に歩き出すと頭はディレイがかかって後からついてくる。すると頭が前に出た重さで今度は足が牽引される。
自分に岩を紐でくくりつけて岩を投げることで自分を移動するような感じだ。
すると鳩や、レゲエのラスタマンのような歩き方になる。