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続・武術と対戦格闘ゲーム 

前回記事の続きです。

この動画が興味深かったのでご紹介したいと思います。



司会のウメハラ氏は対戦格闘ゲーム界の永世名人的存在で、日本のプロゲーマーの草分けです。そして私が提唱している「目先の勝ち負けよりゲームの構造。コンテンツよりコンテナに興味のある人の方が最終的には強い」ということを示す将棋の羽生さんと並ぶ好例でもあります。

大体のゲーマーはゲームを強くなることだけを考えますが、ウメハラ氏はガードの本質は何かとか、このフィールドの広さを設定した開発者はどういう意図をもってその寸法を定めたのかとか、ダメージを負わせることより有利なポジショニングをキープする方がリターンが大きいのではないかとか、独自の視点を持っています。そしてそれはかなり武術的視点と合致していると私は思っています。
向かって左のクラハシ氏はその先輩の世代である古豪で、とにかく真剣勝負としてのゲームを貫いてきた人です。
ゲームの意義は勝つことにあり、勝つための最善の選択をお互いが全部尽くすから面白いのだ、というイズムがあります。

対して右のオゴウ氏はウメハラ氏に武術的視点、ゲームの枠組み自体を捉える視点を教えた師匠的存在です。
オゴウ氏はジャンプ、飛び道具(弾)、攻撃などの選択肢の中で「このゲームの核になる部分は弾である。弾を撃ち続け、相手がジャンプしてきた瞬間だけ弾を打たずに打ち落とせれば理論上負けはない」という説をうち立て、実際にそれで結果を出してきました。当時弱いとされトッププレイヤーは誰も使っていなかったキャラクターで異常な強さを誇り、また、あえてジャンケン、五行の相生相剋的なゲーム構造の中で行動を絞り「キャラによってはジャンプをしない方が強い」という異端の戦法を確立しています。

オゴウ氏にとってゲームは娯楽であり、娯楽である以上は勝敗に価値があるのではなく、どうすれば勝てるのか、自分の方法論を追及する過程自体が面白くなければ意味がないという考えです。クラハシ氏とは対照的で強いことより上手いことのほうに価値を置いています。

強さか上手さか、利か理か。
ゲームは勝つから面白いのか、勝つことにしか面白みがないならゲームをする意味があるのか。

これはあらゆる分野でも似た命題を抱えているものでしょうし武術も同様です。
動画終盤でウメハラ氏が「俺は本当にお二人を見て今までやってきて、ちょうど中間の立ち位置です。お二人を見てきたからそういうポジションでゲームと関わろうと決めた」と話しています。

上手いから強い、理があるから利がある。
勝つ面白さもあれば、魅せるプレイ、新戦法、他の人の出来ない立ち回りをする面白さもある。
それがウメハラ氏のゲーム観です。これは武術、あるいは競技格闘技にとってもひとつの示唆になると思います。
競技であれば上手さより強さ、結果が全てだろう、と思うかもしれませんが、現在、K-1が過去のものになり総合格闘技が下火なのは明らかにスター選手がいないからで、結局、誰もが同じような地味な戦法で同じようなことするだけになってしまったジャンルは魅力がない。観たくないものはやりたくもない。するとやがてジャンル自体が消えてしまう可能性があります。

動画の終盤、ゲームのことはゲームで決着しようということで十本先取の勝負をすることになります。
その模様は別の動画で見られますが、結果としてクラハシ氏が勝ちます。しかし広い意味で言うなら私はオゴウ氏は勝敗以上のものを得たと思います。
なぜならクラハシ氏の拒絶の態度に対し、オゴウ氏は番組開始直後の「クラハシ斜めすぎるってよ」という発言から一貫して、最終的な着地点を「古い友人との仲直り」に置いているからです。そしてそれは、また二人でゲームが出来るようになり、互いを認め合うという形で成就しています。

ゲームをコミュニケーションツールとして捉えるなら、遊ぶことは人と仲良くなることにつながっているはずですが、その意味ではクラハシ氏は勝てば勝つほど孤立していきました。
それをまったく後悔はしていないでしょうが、ゲームだけは負けたくない、という心の働きはプライドの拠り所であると同時に俺はここにいるぞ、という証明で、自分を見つけて欲しいというSOSでもあるかもしれません。対戦格闘ゲームは一人では出来ず、何らかの心の交流を求めていないなら対戦である必要がないからです。

オゴウ氏はゲーム、遊戯全般の持つ大きな可能性を示しています。人と人をつなげること、居場所を作ること。もっと大きく言うなら救済というものを含んでいる。それは無為で非生産的な利害のない文化だからこそ出来ることです。
そしてその反対の有意で生産的で利益のあるとされていること、たとえば労働なども、全て最終的には遊戯のために費やされていく訳で、人は遊びをせんとや生まれけむ、ということに到るのではないかと思います。

武術と対戦格闘ゲーム 

ながらく更新が途絶えていてすみません。
動画はけっこう上げているのでyoutubeの方もよろしくおねがいします。

また、武術の話もいいけど昔の佐山史織はもっと面白おじさんだったよなあ、最近堅い話ばかりでつまらないよ、という方には、友人とひたすら西武線のローカル駅をめぐり酒を飲んで徘徊するという画期的企画のブログもあるので、そちらも併せてお楽しみ下さい。

さて、今日は唐突ですが対戦格闘ゲームのお話をします。

私の世代の男子でストリートファイターⅡ、いわゆるストⅡに端を発するこの手のゲームを触ったことのない人は珍しく、私も人並みにはプレイしてきたものです。これは武術的にも非常に得がたい体験だったと思います。

もちろん、ゲームと実際の戦いは違うので、しゃがんだままパンチ連打したり、やたらと高くジャンプしたりすることはないし、実際の戦いは一定量の体力を削りきったら倒せるというよりは、決定打を喰らうか否かのサドンデス的なものです。
ただ、ゲームによって得た技能の幾つかは明白に武術の役に立っていると思います。

まず第一は自分の動きと第三者視点を紐付けてリンクすることが出来るようになったということ。
対戦格闘ゲームではプレイヤーの操作はキャラクターに反映されますが、それは当事者視点ではなく自分(キャラクター)を横から見た視点です。

武術を教えていると、お手本の技を見てそれを自分視点に置き換えて再現する、または自分が今動いているのをサイドビューで見たらどうなっているかを脳内でリアルタイムで想像する、というのが出来ない人が相当数いるのが分りました。
これはお手本を再現しようとすると左右が逆になる、見た直後にもう技の手順や形が覚えていない、というような問題の根本に感じます。

二つ目は戦略、タクティクスの部分です。
対戦格闘ゲームの基本はガード、打撃、投げ、飛び道具で、さらに細分化するとしゃがんでいるとガードできないジャンプ攻撃と立っているとガードできない足払いがあります。
これらは五行思想の相生・相剋やジャンケンのような関係になっており、ある行動はある行動に強いがある行動には弱い、といったバランスがあります。これを見極めて心理の裏を読み、その瞬間の最適解を出す。失敗したら何が悪かったのか分析し、修正点をフィードバックして改善するというのが一般的な上達のプロセスです。

これは武術でもそのまま適用されます。沖縄の武器、二丁鎌、根、サイ、トンファ、ヌンチャクはかなりジャンケン的な要素があるように感じるし剣術の構えもそうです。たとえば上段に構えれば小手を打たれない代わりに青眼からの突きに弱くなる。青眼は代わりに小手が取られやすくなります。

スポーツや勝負事から疎く、周りの人に気を使われて生きてきた人はなんとなく周りがその人の生きやすいように合わせてくれるのが普通になっているので、相手が自分のやりたいことを妨害してくる状況が理解できません。大前提である「自分が一回行動できる時間は相手も一回行動できるチャンスがあり戦況は常に変動している。相手は自分の都合の良い行動をしてくれない」というのが分っていません。

組手中に弟子に「習ったとおりにやっているのに技がかからない」と言われた時、私は新鮮なカルチャーショックを受けたとことを覚えています。技を出せばかかるはずだという思考があまりに牧歌的だったからです。
こちらがゲームで波動拳なり昇竜拳なり、何か技を出せるようになったとして、当然それはその技が必ず当たる事を保障したものではなく、単に選択肢が増えたというだけです。
相手の行動に関係なく自分のやりたい行動をして、それが宝くじのようにランダムで当たったり当たらなかったリするという漠然とした世界観だと分析もフィードバックも発生しないので、上達や改善も望めません。そうした人は相手がチョキを出しているということを無視して「どうしてこんなに一生懸命パーを出しているのにダメなのだろう」と思いながら延々パーを出すようなことをしています。

「ゲームばっかりやっているとゲームと現実の区別がつかなくなる」という意見がありますが、勝負事、オセロでもはさみ将棋でもサッカーでも、何らかのゲームをやっていない人は「スポイルされた温室が現実だと区別がつかなくなる」危険があり、それは言い換えるなら他者のいない世界、自分だけがプレイヤーでなんでも自分のやりたいことが押し通る世界です。先にあげた当事者視点しか持てない、という問題もこれに関係してくると思います。

こうした自己・我執という牢獄は不自由です。
親が子を「反抗期」と感じるのも、親が子というキャラクターをプレイ、あるいは育成しているつもりだったのが、子供もまた一人のプレイヤーであり対等であると分っていないからそう感じるのではないかとも思います。逆にひきこもりが「ババア、ジャンプ買ってこいよ!」などと母親を奴隷化したりするのも相手をプレイヤーではなくキャラクターだと思っているからでしょう。むしろ案外、対戦型のゲームをしていれば負けることで、自分は万能ではないしこの世界には他者が存在しているということを明確に教えてくれるかもしれません。社会に「競争」は不要ですが「勝負」は必要なことです。

次回も、もう少し対戦格闘ゲームの話をします。二人のゲーマーの対談動画を元にした流派性の話です。

試合と演武 

哺乳類で同種の雄を死ぬまで攻撃する種はほとんどありません。
そんなことをするのは人間くらいという説もあります。
当たり前ですが、同種を死に至るまで攻撃していたらその種は存続できないからです。

以前、高尾山の猿山の飼育員が話していましたが、そこの猿山のボスは禿げてて年老いておりケンカが強いわけではない。しかし、自分と血のつながりのない小猿が電流の流れる柵の向こうの木に登ってしまい降りれなくなった時、危険を顧みずに助けに行ったといいます。そうした資質があってボスと認められたということです。

人間でも己と比べて恥じ入るばかりの滅多に出来ない利他行動ですが、こうした仁義礼智信の五つの徳は自然界、ことに哺乳類にとっては本能的に無視できないプロトコルです。それを形に表したものを礼とするなら、猿がマウンティングでお尻を差し出すのも人間にとっての土下座のようなものでしょう。

それをしたら手打ちにする、という協定は誰かに教わるものではありません。
自然にブレーキがかからず、なぜやめないといけないかを習わないと理解できない、教わっていないから分らない、というのはサイコパス的な本能の欠落で、そうなると「人でなし」「外道」として人の社会の中では生きていけなくなります。性善説はメルヘンではなく自然観察から導き出されたものです。

今から演武と試合という二つの武術の表現形式について書きますが、大方の人はほとんど直感的に「これは演武です」「これは試合です」と言われればやっていいこと、わるいこと、などは、上の例の様に本能レベルで知っていることなので、あえて読む必要もないことです。太極拳はタオイズムですが、道教でも五つの徳について語らなければならないのは道が失われたからで、そんな当たり前にあることがテキスト化しないと分らなくなってしまうことが本来おかしいのだ、と言われています。

しかし文明が発達して暴力が隠蔽され観念的になった結果、そのプロトコルが分らない人もいるので書くまでもないことを書きます。そういう対象を意識して書くので、くどくなると思いますがご容赦ください。




試合と演武を武術の「表現形式」と書きました。では何を表現するかというと、当然、武術です。
なので、武術でないものを表現するのは意味がありません。

たとえば、素手で剣に対処する技は武術ですが無手の人間を剣で切り殺す技は武術ではありません。自分が優勢、有利な条件で相手を倒すのであれば術にもならないし訓練の必要がないからです。
それこそドローンで毒ガスをまくとか、寝ている間に家に火をつけるとか、食べ物に毒を入れるとか、ベランダから植木鉢を落とすとか、自分を有利な前提で行動してよいのであれば武は不要です。武は自由と自在を得るものと書いてきましたが、武はそうした奸智に対して生を拾う側です。

たとえば試合で非力な者と屈強な者が打ち合ったとして、屈強な者が防御をしなかったとします。自分は打たれ強いのだから効かない攻撃など無視してよい、と。
これは多くの流派では減点、あるいは打った側への得点としてカウントするでしょう。ことに格闘技ではなく武術であるなら、打たれ強さはなんら美徳ではありません。なぜなら、それは武術の表現ではないからです。
もしそこに打たれても効かないような衝撃の殺し方や、急所を非急所化するような「術」があるのなら、それは武術的な実力の一部ですが、単に相手が攻撃・コールしてきた時に何もレスポンスしないというのはコミュニケーションの放棄ですから認められません。なぜなら武術はコミュニケーション、肉体言語の問答の技術で、試合はその技術がどこまで身に付いているかを試し合っているからです。

そして冒頭の自分を有利な前提の側に置かないという原則からもこれは外れてしまいます。
もし、相手が自分より屈強で剛力であるなら通用しないことをやって、これが武です、というのは成立しません。
将棋の戦法、棒銀なり中飛車なり石田流なりは、決定的な弱点がないから戦法と呼ばれています。もしそんな弱点があったら、あとは相手がその弱点を知っているのか知らないのかの運任せでしかないので、術と呼べるメカニズム、方法論には至っていないということです。相手が強かろうと弱かろうと成立しないのであれば自由でも自在でもないので武でもありません。

相手が非力ならガードしなくて良い、という考え方は試合を相手を倒すものという修羅道に落ちている人の思考です。
「試し合う」ということはその人がどれだけ普遍的な方法論を持っているか、ですから、方法論でない部分で倒しても意味がないのです。空手の試合ならどちらが空手の技術をより高い完成度で構築しているか、を比武しています。
そうなると、やっていいこと、悪いことはおのずと明確化されるので、暴れる、感情をむき出しにする、運任せの行動をする、力づくでホールドから逃れようとするというようなこともしなくなるでしょう。それらは方法論のない人の行動だからです。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし、というのはこうした方法論の強度を減点法で採点しているからと考えると分りやすいでしょう。厳密に言うなら武術における試合はどちらが強いか、ではなくどちらが過失、見落としがあるかのコンペティションです。とにかく殴り倒してでも勝ちは勝ちだ、それが実践的なんだ、というのはむしろ平和ボケした発想で、次の曲がり角にわずかに誰かの影が落ちている、というだけで待ち伏せの危険を察知できることを求められる。わずかの見落としが死に直結する、という世界では力が強い、ラフファイターだ、タフであるというようなことは意味を持ちません。

比武の比較検討結果をクリアにしたいのだから計測結果に対してノイズになる行動、純粋性を損なう行動もやってはいけないことが分ります。たとえばケガをさせてもいけないのです。
なぜならケガをした相手と自分を比較したら真に武術が身に付いているのはどちらかは分らなくなってしまうからです。
試合は実際の戦いの模擬ではありません。相手を倒すのを目的化して相手にケガをさせようとするのであれば、それはもう試合の前に下剤を飲ませても、武器で襲っても同じで、もはや試合である必要ですらないので何も表現されていません。
稽古で相手に礼をするのはお互いに武術の共同研究者として自分のレベル判定に協力して下さい、お願いします、ありがとうございます、という礼ですから、そういう相手をケガさせるというのはさせた側がコントロールできてない未熟となります。

フルコンタクトの空手で鎖骨打ちという技術が導入されたことを賞賛している人を見ましたが、強くなるために習いに来た人から金銭をとって、その人達同士を戦わせて骨折という不可逆性のダメージを負わせ合うことを推奨する、怪我した人はその流派を離れていくというのでは何をやっているのか分らなくなります。怪我をさせあうのが良いのであれば、それにお金を払うくらいなら家で自分の鎖骨をトンカチで叩いて折ったほうが同じ結果を安上がりに得られます。

次に演武の話ですがその前に、一部の人は試合と演武と実際の戦いと組手と護身術がごっちゃになっており、それをほどくために最小限、護身術についても簡単に触れます。

先に結論を言うと護身術には試合も演武もありえません。
なぜなら武術における試合は研究者同士のディベート的なものですが、護身術はむしろ不可逆な怪我を負わせ、ラリーや返し技が発生しないようにするのが目的で、むしろ試合として攻防が成立してしまうような体系は護身術として欠陥があります。一問一答で完結することが求められます。
それは必然、技術の秘匿性を呼びます。技を知られてしまったらその返し技を考えられてしまうからです。なので演武してはならないものになります。強いてやるなら非常に抽象的な形でやって短絡的な凶漢には分らないが武に目の聡い人は価値が分る、というようなものにするしかないでしょう。

で、演武の話ですが、試合が個人と個人の比武で武術に対する理解度、方法論の構築度を比較していたのに対し、演武は個人を見るのではなく武術そのものを表現しています。
なので、見ている側に「我々は戦いという現象をこう解釈しています」ということを伝えなければならないので、見えやすい角度や、どこで攻防の区切りがついたのかを知らせる発声や間などの様式が生まれます。もしパートナーが技が出ずに困っていたら助けてあげる必要もあります。

白桃会では段取りを決めた型を暗記してやる、ということはせずインプロビゼーション(即興)で攻防し、技を技で返し、一方が返せなくなった時点で自然に終わる、という形式を取っています。自由攻防ではありますが、当身は当てる寸前で止める、技はかけるけど極めない、武術を表現したいのだから相手の技を耐えて掛けさせないのではなく、その技の裏をとって技を技で応酬する。
このとき、相手はひとつの作品の共同制作者であり、主も従もなければ対立もありません。敵対もなく、お互いにもっとも危険な最善手を出し合いながらも同時に永遠の神々の遊びでもある、という表現になっていきます。

白桃会において修行は遊行です。つまり良い演武はずっと終わらないで欲しいと願うようなものなので、勝ちたい、倒したいということが起こりえないものです。カポエイラのジョーゴや雄手はその理念をよく表しています。
これをもし実践の模擬として捉えて、演武の相手をダンスパートナーでなく凶漢のロールプレイとでも思っているならその人は武術という豊かな恵みの中にいて人を傷つけ、傷つけられるだけの哀しい、不毛な世界しか目に映っていないということになります。そんな殺伐としたものを見せられて「武術って良いな、自分もあんな自由と自在の中に入っていきたい」と思う人はいません。演武に勝ち負けがあるとしたら見ている人にそうした心を起こさせることが出来るかどうかです。

試合と演武はしだいにひとつのものになっていきます。昔から言われている「試合は演武のように演武は試合のように」というものです。より純度の高い武術の理そのものになる、ということが共通の目的としてある以上、両者は差がなくなっていきます。同一のものの違う表現形式だからです。
そして、術そのものである状態よりも無訓練な本能的な行動を拠り所とし、術の有効性を疑うのであれば、その人は術者ではありません。

 

コンテナとコンテンツ 

白桃会で教えているのは技術ではなく技術に対する考え方です、と、しつこく書いてきました。
デザイナーの人がコンテンツとコンテナ、という言い方をしていて腑に落ちたのですが、中身とそれを包括するものがあるとしたら包括するものを見ることを教えています。コンテナがあればコンテンツはそれに沿っておのずと生まれていくからです。

youtubeで公開している動画などはその一例ですが、多くの人はその動画の中の技、コンテンツにとらわれ、その技自体を学ぼうとします。これは優れた教義の教えがあっても人が現世利益や分かりやすい奇跡の方にしか関心が向かないのに似ています。
仕組みは分らなくてもいいから便利さだけ甘受したい、というのは科学製品なら可能ですが、武術を学ぶというのは単独行動でサバイバルできるようになるのが前提ですから、多かれ少なかれ研究者的姿勢が求められます。

技の手順を覚え道場稽古で限定的な「神技」ができる様になったとしてもそれは意味はありません。そうしたコンテンツを必要に応じてあらゆる状況で生み出せる性能の自己を作ることが目的で、技自体は例、デモンストレーションにすぎないからです。型は手順を覚える振り付けではなく考え方を知るためのものです。

たとえば槍を学んで槍の使い方というコンテンツが主だと思った人は、竹やぶに連れて行かれ武器を作れと言われたら、竹槍を作ってしまうでしょう。しかし、槍を学ぶことで「一本の槍でさえ多種多様な使い方があるのだから万物にそのものの特性を生かすやり方があるのだろう」と知った人なら、投石器、弓、落とし穴、ブービートラップ、垣など、「竹」というコンテナから逆算して武器を作るでしょう。前者は後者に永久に勝てません。

初期の総合格闘技も、離れればキックボクシング、組めばレスリング、柔道という既存の格闘技コンテンツのキメラ的なものでした。しかし、組技がない場合の打撃格闘技の最適フォームや戦術はそのまま移植しても使えません。
たとえば綺麗なジャブは立ち技では有効ですが、攻撃範囲が点なので、左右に身体を振ったり、しゃがんでタックルを合わせ易いので「様子を見るのにとりあえずジャブで距離を測る」というのは出来ません。

今は大分、総合格闘技における最適解の戦術、というものが生まれつつありますが、まだ「フック」「アッパー」「回し蹴り」「タックル」といった他分野から借りてきたコンテンツを今のルールの中で有効につないだものの延長にあります。
もしそうした既成概念をとっぱらって最初から「総合格闘技」というコンテナから逆算して先頭理論を作るとしたら「手でパンチする」「足でキックする」というようなものではない全く新しい概念の技術、見覚えのないものが出て来るはずでしょう。パウンドとニー・オン・ザ・ベリーはその萌芽を感じさせます。

似たような話としては、ガンダムなどのアニメで、ロボット同士で戦闘するとしたら一番強い形は何か、と考えたら人型である必要はないんじゃないか、そもそも有人でなくて無線で良いのでは、とか、魔法のある世界観のファンタジーで重装歩兵が隊列を組んでのろのろ行進するだろうか、というのもあります。
結局、自分の見知っているものの延長で考えているか、合目的性から逆算してフルスクラッチで組むかですが、前者のやり方は通信の歴史で言うと飛脚→伝書鳩→バイク便くらいまではいけてもファックス、メールには到達できないでしょう。

最近のつぶやきから 

《勝負に捉われずに勝負を追求するということ》

推手は攻防の理合を学ぶものでもあり、体をほぐすものでもあり、感覚の訓練でもあり、純粋な永久運動のモデルでもあり、対話でもある。そしてそのどれでもない。
しかし、なまじ「武術」であるから、二人で一つの運動を作る、同化するという理想から外れて、勝ち負けを競う競技的なものになりやすい。
そこで推手から攻防要素を取り除き「純粋運動」に昇華しようとした運動があった。
それはディアローゴ、エラスタルトといった名前で呼ばれたが、今それをやる人はいない。攻防に拘るのは過ちだが攻防がなくても成立するものではなかったのだ。

これはあらゆる武術の抱える問題で、勝ち負け、強弱に拘れば本質に至らず、そこを切り捨てて抽象化すると土台を見失う。
生き死にの真剣勝負でありながら永遠の神々の遊びでもある、ということを両立する必要がある。囲碁将棋などもこれに似ている。
実用の素朴な器にこそ用の美が宿る、という民藝運動も、やがては民芸「風」の作られた素朴さで、非実用のオブジェを作り高値で売るというしょうもないものになって廃れていった。これは他山の石ではない。


《上達と熟練》

時代が進むほど動作が洗練される、というのは嘘で、あきらかに道が舗装されず靴が発明される以前の人々の方が歩くことへの注意深さはあっただろう。
野性動物を狩り、また野性動物に襲われていたならなおさら、雑、がさつな事をしていたら生きていけない。

安全で何度でもやり直せることは熟練も生むが麻痺と鈍感にもつながる。
無限に出来ることを常に初めてのように、そして最後の一回のように出来るなら、熟練ではなく上達になる。熟練は熟練で大事だが、熟練は技術を固定させる作業なので、低レベルで固定すると、むしろそこから出られなくなる。
新しい発見があったとき、それ以前の思考に逆戻りしないようにベンチマークを置くだけで、熟練自体を目的化すると単に可塑性がなくなるだけになる。


《捨己従人は我慢することではなく万物を自己とすること》

認知症老人でも楽器をもつとしゃっきりするとか、運動オンチなのび太が射撃だけは異常な天才性を発揮するとかの事例がある。
今まで道具(他者)を身体の延長化する、という認識があったが、上の事例は元の身体能力を超えているので、延長ではない。むしろ道具は外付けの拡張された脳なのではないか?
自我があって自分が道具を使っていると感じてしまうが、人間と言う存在自体が万物のコネクタ、翻訳機であって主体はないのかもしれない。あるいはそもそも「主体」という概念自体が文法の便宜上のもので、そもそも存在しないのかもしれない。

主体が自分の自分の外にあるという考え方だと「コップを持つ」のではなく「コップはどう取られたがっているかに沿う」になるが、その場合、食器をこぼしたり割ったりはしなくなるだろう。
服を着こなそう」とする人より「この服は自分に何を要求しているか」を読み取ろうとする人の方がお洒落であり「箸を使おう」とする人より「箸は自分の機能をどう使おうとしてるか」に沿うほうがエレガントになる。

万物が主体に出来るなら全てが自己であり尊重の対象になる。捨己従人は、消極的戦法ではなく、万物を自己とする戦法とも考えられる。


《過ぎたるは及ばざるがごとし・雑とはなにか》

自己を主体とする場合は身体を無機物化して操作する人とされる人を一人二役でやる訳だが、これが完全に同期したときは目を凝らしていても動きが見えないし抑えていても止まらない。
視覚的に速く感じるものは何か一部分が突出して速いからそう見えるのであって、逆に言えばそれ以外の部分が遅れているから「遅い」とも言える。地球が凄い速度で回っていると同時に体感的には不動であるように、全てが速いものは速さを感じさせない。コマやハンドスピナーが高速に達したとき、むしろ緩やかに見えることや、並走する電車は止まって見えることもこれに類するだろう。
その逆の「雑」「下手」はどういう現象かというと、ワインの栓を抜くときにコルク(操作される側)が抜けていく速度を上回る勢いで引っこ抜く事で周りを酒浸しにするようなことをしている。そうした人はそれで失敗したときに「パワーが足りなくて技がかからなかった」と思うのでさらに雑になる。相手が崩れる速度を追い越して力を籠めれば力を集中するべきポイントを通り越してしまって技はかからない。
合気道の手首を取ってきた相手を遠心力で振り回すような動きもそうで、強すぎる力は振り回しすぎて結合部がちぎれるので技として成立しなくなる。
正論であっても言い方がきつすぎると耳に入らない、とかもこれに似ている。