武術・チャーハン・怪物 

武術は考え方のシステムです。
白桃会は技ではなく技に対する考え方を教えている、と繰り返してきました。
それは言い換えるなら、How(どうやるか)ではなくWhy(なぜそうするのか)という必然の理を導き出すことをやっているともいえます。

「魔術」が「おまじない」になってしまうのは前者がwhyというシステムの原理を理解して運用しているのに対し、後者はその形式だけを真似しているからです。
それは初めて時計を見た人が、針をもぎとってこれで時間が計れると思ったり、蛇口をもぎとってこれで好きなだけ水が飲めると思うのに似ています。時計を動かす構造や蛇口から水が出る仕組みは表面から見えない部分にあります。それを理解せずに針や蛇口という目に見えている部分を持ち帰っても理がないので運用できません。これは技も同じです。

稀に、自分は研究者ではなく実践者なのだから、技の原理などわからなくてもよい。使えさえすればよいのだ、というエクスキューズを唱える人がいますが、武術を実際に運用するということは型通りにはいかず、場合によっては一手省いたり、増やしたり、剣でやる技を傘で、手でやる技を足で、など、そのシチュエーションに応じて変化して使う必要があります。
しかし、それは原理がわかっているから出来ることで、技が「おまじない化」してしまった人はどの動作が何の意味があるのかわからないので省く手も足す必要のある手もわからず、習った通りのレシピから外れることが出来ません。
完全に同門同士で決められたルールのもとで試合をするだけなら、習ったことをそのままやるだけでもなんとかなるかもしれませんが(それでもその流派のトップにはなれないでしょう)研究者の資質がない実践者というのはありえないのです。

少し話はずれますが珍念がブログで「問いを立て直すな」「問いを自分の言葉で構成し直すな」と強く言われたとブログに書いています。しかしこれだけだと抽象的すぎて何の話かわからないと思います。

これは要するにという言葉を使わない、という話と同一です。

時計の仕組み、水道の仕組みが分からない人が、それを「要する」とどうなるかというと、針や蛇口をもぎとるということになります。問いの答えが分からない人間が問いを別の言葉に置き換えるということは出来ないのです。それができる人はすでに問いの答えが分かっている人です。

この問題の根はやはり我執です。

たとえば「特大チャーハン2kg30分以内に食べられたら1万円進呈。食べられなかったら5000円払う」というイベントのところにいったとします。チャレンジした人が半分食べたところで時間切れになったとしましょう。

普通の人ならチャレンジに失敗したのだから5000円払うでしょう。が、ごくごく稀に「ああ半分しか食べられなかった。仕方ない。半分食べたから賞金も5000円でいいですよ」となぜかお金がもらえる気になっている人が存在します。
これは、「全部食べたら1万円」という情報、問いを立て直した結果、「つまり半分食べれば5000円もらえる」と勝手に解釈している結果です。

そんな訳ないだろ、と思うのは常識があるからです。ではその常識というのは何かというと、経営者の視点に立つことが出来るということです。店側の視点に立つなら、半分食べたら5000円、四分の一食べたら2500円客に払うというようなことをやっていたら、損をする一方で商売になりません。だからそんな馬鹿な話はない、というのは考えるまでもない話です。
しかし、我執しかない人は相手の側に立って考える、なぜそういうチャレンジ企画をやっているのかというWhy?に思いを巡らせる、といったことが出来ないので、単に全部食べたら1万円もらえるなら半分食べたら5000円もらえるだろう、という認知をしてしまうのです。

こうした相手の考え、狙い、思考のシステムが分からないという事は命のやり取りで致命的なミスになります。
映画「くまのプーさん」では落とし穴に落ちたプーたちは上にいるピグレットにロープを持ってくるように頼みますが、ピグレットは六人穴に落ちているからと、ロープを六等分にちょんぎって持ってきます。大事なのは長さであり個数ではないのですが、whyが分からないのでそういうことをしてしまうのです。
この映画は最高に面白いですが、もし自分が落とし穴に落ちて上にいるのがピグレットだったらと思うと心胆寒からしめるものがあります。

いくらなんでもそんな奴はいないだろう、と思うかもしれませんが、世の中は思ったよりそういう人が多く、フルカラーのイラストをプロにただで描けという会社や、自分の親を嫁に介護させるのは当たり前と思う旦那など、形を変えてこうした認知の歪みはあふれています。
武術は自己と世界、彼我を一体化することで術を使います。それは自分勝手、自分しかいない世界と対極にあるものです。
人に伝わらない、人にわからないことを言ったりしたりするのは狂気のはじまりで、礼から外れた存在、怪物になる可能性があるということです。
自他問わず、そうした怪物性こそが武術の最大の仮想敵かもしれません。

站椿(たんとう)の展開 

站椿功とは中国武術の基本の一種です。
たまに中腰で立っているだけで強くなる訳ないだろうと揶揄されたり、空気椅子的なシゴキの一種のように思われることもしばしばです。そうした誤解に対しての回答はこのブログでも何度か書いています。

私の書いてることは私の認知できた範囲内での効能ですので、それ以外の意味もたぶんあるでしょう。
が、2017年時点で白桃会の站椿に求めるものは、

1・骨格を曲刀・アーチ状に再編し、外圧に対して押し返すのではなく、その構造自体の強度で受けること。
2・小指(尺骨神経)の張りで疑似的な支柱を作り、それにつかまることで脊柱を緊張から解放すること。
3・体内でカウンターバランスをとることで反作用をなくすこと。

です。

まあ同じことの言い換えのような気もします。

さて、骨格を曲刀型に組んで固定し、体幹をしならせて使うとどうなるかというと、どうしても二刀剣術的運動になっていきます。一見類似点がない酔拳、蟷螂拳のような流派も、ロックしているフレームと自由にしているフレームの区分けは剣とかなり共通していることがわかります。









これは站椿とは関係ありませんがヌンチャクも二刀の運動に近いことが分かります。
応用発展の基としては一刀より二刀の方が汎用性が高いように思えます。






いぬはりこの絵馬ができたよ! の巻 

今日は豊島区有数のいぬはりこグッズ蒐集家としての私が満を持しておとどけするグッズの紹介です。

ジャジャーン!

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いぬはりこ絵馬!


いぬはりこ(犬張子)は東京名物の縁起物で、安産祈願や子供の守りとして親しまれている、犬だか猫だかよくわからない外見の置物です。それを私ならもっとかわいく出来る! という衝動の元、発作的に絵馬にしたのがこちらになります。

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・足の裏の肉球と躍動感がチャームポイント。

ドラネコ商会の社運をかけて100枚も量産してしまったので、是非買っていただきたいと思います。
来年の干支は戌(いぬ)なので、玄関などに飾るもよし。裏に願い事や目標を書いて神社に奉納するもよし。穴に紐を通してカバンなどに取り付けるのも可愛いのではないかと思います。

お値段は600円+送料です。
メールか電話かコメントでご注文ください。

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よろしくね!

礼と殺・脚下照顧 

・礼と殺

武術は礼に始まり礼に終わるという。
礼の基本は挨拶だが、「もしもし」という話しかけ方は、元は暗がりで人に呼び掛ける際に「もし…」だけだと妖怪かと思われたからで、それが顔の見えない電話にも適用された、と荒又宏は解説している。礼が無い存在は怪物なのだ。

礼は儒教の概念だが孔子の教えでは「怪力乱神を語らず」と「君子危うきに近寄らず」はセットで考えるべきだろう。
妖異や怪物に対しては「礼」の力が及ばない。そういうものに対しては「関わらない」というのが一番正しい。

武術は人間の共感されるクオリアの公約数を利用した術なので礼と表裏一体だ。
剣の術などは特に、こう斬ればこう受けるだろう、という定跡を理の根底に置いている。逆に言えば受けない、死を恐れないで最初から相打ちで良いと思っている相手には理合いが通じない場合がある。
将棋でいうと、王を取られても指し続ける相手に詰将棋の名手が挑むようなことになる。

そういう相手には関わらないのが一番だが、どうしても戦わなくてはならない場合はどうすればよいか?

武術には人間の生理や反射、思考を理解し、共感、同一化して彼我を一体とする戦術を活とすると、そうした「攻防」をせずに一方的に必勝パターンにはめて身もふたもなく勝つという殺の技法がある。

それはあえて稽古するようなものではない。
そういう怪物的存在があるということとを念頭におき、活の技法の稽古をしていればおのずとその対偶として見えてくるものだ。ただ、その考えがなく馬鹿正直に対人の稽古だけをしていると、もし怪物的存在に出会った場合は非常に危険だろう。

・脚下照顧

脚下照顧という言葉がある。
足下を照らし顧みるという意味で、色々深く洞察できるのだが、単純にはきものを揃えるという解釈について掘り下げてみる。
靴を揃えるとき、爪先を出口に向け直すのはなぜだろう?

それは当たり前だが、次に履く時は進行方向が行きと逆になるからだ。
このことは言い換えるとこうも言える。動作の目的性から導かれた自然は主観的には不自然な場合がある、と。

小手返しは相手の手首を逆にとる。ということは、最初にこちらが順手で掴んでしまうと、180度回転した場合、自分が逆手になってしまう。なので自分は逆手でつかまないといけない。
しかし初心者の教導ではまずこの掴み方が覚えられない、とっさに出ないということがままある。日常動作の癖がしみ込んでいて順手がつい出てしまう。
同じような問題として、座盤式や蟹ばさみの入り方、あるいはウォールスピンでの壁への手のつき方などが挙げられる。回転したり裏返ったりする動作の場合は第一手は体感的には不自然、逆と感じる入り方が必要となる。

完全な客観、理そのものになっていたならこうした技にとまどうことはない。それが自然な動きになるからだ。しかし、我執がある場合は毎回間違えるだろう。
もちろん、体育会的に小手返しのシャドーや打ち込みを千本とかやれば、「順手で掴む癖」を矯正することは出来る。
しかし、そういうやり方だと、今度は蟹ばさみも千本やらなくてはいけないし、全ての回転、リバース系の技を千回づつやるような愚になる。そうではなく一括管理して、脚下照顧というプログラムに認知を書き換えること、それが書き込めるように記憶媒体を初期化して空白にしておくこと、が結局は近道になる。

自己を奴隷化しないということ 

太極拳の動作は大体、動く前に「動きやすい状態を作る」という普段省略して省いている動作を一つ入れる。
そのためにモーションがヌルヌル滑らかに見える。アニメのコマ数が多いからだ。
たとえば方向転換の際にはまず行く方向を見て、重心をどちらかに寄せ、軽くなった方の爪先を進行方向の妨げにならない方角に開放する。このひと手間が日常でも習慣化した場合、転倒や怪我のリスクが非常に減る。
怪我の多いスポーツ、たとえばバスケットボールやサッカーはこの逆で、ジャンプ中や疾走中に、爪先と膝の方向が合致しないことでヒールホールドのような状態が発生して膝靭帯を痛めたりする。

このひと手間を習慣化すると戦闘能力の上昇も起きる。
なぜなら、動きやすい状態でないときに体を動かすというのは、動きたくない身体を奴隷化して命令してやらせているからだ。それは最高のパフォーマンスになるはずもない。
自分が自分を雑に扱っている、やりたくないことをやらせている、という状態は当然、健康にも悪い。本来の自己のポテンシャルを完全に引き出すには、表層的な自我のプログラムを外す必要がある。

太極とは対立概念のない絶対自由の世界を指す。絶対自由とは自分勝手ではない。
一日中タバコを吸いながらパチンコを打っている人は自由意志でそれをやっているが、まったく自由ではないだろう。自分の習慣、表層的自我に奴隷化されている。
絶対的自由とはタバコを吸うことも出来る、やめることも出来る。パチンコを打つことも出来る、やめることもできる、という制御、つまり「自在」が伴っている。自在なき自由はそれしかできないので鎖につながれているのと同じだろう。

やろうと思ってやること、は、自分では決心のつもりでも、実質的には自分を奴隷化してにやれと命令してやらせていることだ。決心しないと出来ないことというのは嫌々やることだからだ。
上昇志向、根性でやっている人が一流のプロになりづらいのもこれが原因と言える。呼吸するのに決心がいらないように、本当に「自発的」に行うことは、気がついたらやっていることで、決心を必要としない。武術的に言うなら決心は心の予備動作なので、そういうものがないほうがノーモーションで行動できるから良い。

自分を奴隷化しないということは自分を丁寧に扱うということだろう。
何かをするにあたってまず、それをやるのが呼吸するように自然で苦にならないようにする。
それは赤子が最初に歩くのを手助けするように、障害物をどけ、自分自身を補助するということともいえる。
太極拳には実際に片手でもう片方の手を支えて動かしてあげる、足を手の操作で引き付ける、といった自助の思想があふれている。もっと言えば起勢から収勢は赤子から始まり赤子に還る人の一生ともいえる。

見たものを全てありのまま吸収する「無垢の赤子の智」が東洋的には最上の智だろう。
爪先は自分を支えるストッパーとしては有益だが進む際には邪魔になる。同様に母語を得てその言語のもつ思考システムを得てしまった大人は表層的自我を支えることはできるが、他国の言葉を浴びせられても赤子のような吸収は出来ない。母国語の思考を介して翻訳してしまうからだ。太極拳はまず赤子に戻る、という非言語思考の領域に自分をリセットする運動思想でもある。

絶対自由であることを妨げるもの、それは暴力や病気、老いだけではなく自分自身も含まれる。
太極の中では一切が対立せず敵が存在しない状態と、自分を含む万物が敵でもあるという矛盾が両立している。