3/19 特別稽古を終えて 

3月19日は14時から17時まで特別稽古、その後、私とWAIさんの結婚を祝しての飲み会が行われた。

その日の朝、池袋駅にはトランプのカードが一枚だけ落ちていた。ダイヤの10。
何の兆しだろうか? 

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生徒であるカリスマ占い師、瀬尾志郎氏にメールして聞いてみると

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「ざっくりですと、家族、血統、伝統、古い体制とかです」



とのことだった。これはまさにこの日を象徴していたように思う。

稽古には、洗足池からピエール斎藤さん、ニートのTくん。
小金井から弟子見習いのSさん。
旧ドラネコ商会OBの青猫さん。
神道夢想流状術のRうdyさん。

そして、沖縄空手の研究者、実践者として斯界の第一人者であろう剛柔流尚誠館館長の寺島清恭師範とそのお弟子さんがお見えになった。ありがとうございました。

飲み会には女子ボクシング界の名もなき修羅、ロイヤル金子選手も駆けつけてくれた。築地魚河岸で働く金子選手からは魚のウロコ取りと砥石、そして帽子が贈呈された。

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カープファン転向待ったなしである。

飲み会では、寺島師範による三戦、チンクチ、ガマク、ムチミなどの実演が行われた。また、結婚を祝して小金井の方々からSさんを通してお花を頂いた。びっくりした。ありがとうございました。

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物心ついた時から、まっとうな職には適性がないなあ、と思い生きてきて、縁あって武術を教えるという役割に行きついた私ですが、その武術によってこのようにお中元、お歳暮、結婚祝いと言った人の輪の営みに加えていただけたのは誠にありがたいことです。この感謝はせめて武術を通して社会に還元していこう、そして武術のすばらしさを伝えていこうと改めて思った次第です。

来てくださった方々、本当にありがとうございました。

伝統とは何か 

先日、スペインなど欧州方面で発展しているという「風の流・小川派」という流儀の動画を見ました。





言葉は英語なので分からない部分もありますが、非常にしっかりしていると思いました。通底する理があり、それに従って動いており、日常動作の延長では為しえないパフォーマンスを発揮しています。

過去に何度か古武道大会の演武を見たことがあります。また、そうした流派の稽古をみたことがあります。
その多くは伝統芸能としての博物学的価値はあるのでしょうが、正直、実用品としての武術としては完全に役に立たないものでした。

それに対して、この小川流は、技の手順と形を教えているのではなく、なぜそうするのか、そうするとどうなるのか、というコツ、理合を教えています。使い方を重視するということは実用品として見ているということです。日本の古武道の教室でこの点を明確に教えられる流派は少ないでしょう。

「型ではこうやって動いてますが、これだとこっちから斬られてしまうのではないですか?」

そういう質問を生徒から受けたとき、「昔からこの形はこうするものと決まっているんだ」としか答えられない指導者が多くいます。そもそも習う方も教える方も実用品と思ってやっていないから、そういう質問をするという発想すらなく、単に振り付けとして教え、習っている人しかいない教室が大半でしょう。
そうした質問を許さない空気のことを道場の静謐、厳粛さであるとはき違えているようにすら見えます。(もちろん自分で考え、型と向き合って自得するのが第一なので、おんぶにだっこで先生に質問を乱発するのは駄目ですが)

そうした人たちは何をやっているかと言えば、勝った負けたではなく、精神性を重視しているのだ、というかもしれません。
しかし、この人たちのいう精神性とは、恐い目つきをして虚空を睨んで奇声を上げながら刀を振ることであり、残心は、その「かっこいい俺」の余韻に浸ってナルシシズムに溺れること、です。

礼や精神性は型の厳しさから生まれるし、型の厳しさとは実用面での要求、対手がほんのわずかなミスも咎めてくるという中で最適解を出せるかという厳しさです。そして、自分が型が要求する身体かどうかという武術にジャッジされる厳しさです。

それは怖い顔をするとか大声を上げるという「厳しそうに見える」こととは関係がありません。そんなものは自分ひとりの中でしか通用しない観念の中に逃げ込むことで、退行です。真剣勝負の概念のない所で「真剣にやる」というのは空々しいものでしかありません。

古い流儀がなぜ尊ばれるか。それは、各時代でそれを選択する人がいたからです。普遍的なことをやっている、ということの証明として老舗の信用というものがあります。
しかし、古さに値打ちがあるんだ、とか、博物学的、歴史的価値があるんだ、ということにシフトしてしまった流派は形骸化していきます。

老舗という言葉を使いましたが、料理で考えるとわかりやすいでしょう。
最初、料理がおいしくてその土地の名物になったはずなのに、人が来るから努力をしなくなった結果、この土地でしか食べれないから、とか、そうした味以外の部分で売るようになる。
食べる側も、まああんまり美味くはないな、名物に美味いものなしだな、と思いつつも、歴史のある老舗で名物料理を食った、というステータスを得たのに満足して帰っていく。そういう構造があります。
それは、初代が「お客さんに美味しいものを食べてもらいたい、この土地に来てよかったと思ってもらいたい」と考えていた活動とは別物で、ある意味、伝統性によりかかることで伝統自体を冒涜しています。

まあ、別にそこで需要と供給が一致してるんだから、それを良しとするのは人それぞれなんだからいいのかもしれません。
しかし、問題なのは、そうした「老舗」の人々は、冒頭の「風の流・小川派」のようなものを見ると、きいたことがない、伝承がいい加減だ、捏造だ、つぎはぎだ、というような「老舗じゃない」ということを猛攻撃するのです。「風の流・小川派」で検索するとそのありさまが分かります。

老舗をステータスとして実用性を捨てた武術が「本流」で、実用性をステータスとして歴史がないのが「亜流」なのか? それは空手バカ一代時代からのテーマであり、ぶっちゃけ今、本流にある流派も、かつては新興勢力として実力でのしてきた時代があったはずで、その際には経歴詐称をやっているのです。
有名な大東流も、源氏の新羅三郎義光を開祖としてますが、当然、噓です。ほかにも夢の中で霊告を受けた、旅の僧に習った、天狗に授けられたなど、真偽を判定しかねるグレーな伝承がある流儀が多々あります。
それはそれだけこの社会が、新興というだけで内容を見ずに悪いと判断し、古いものを無条件に良いとするブランド信仰に冒されていたかということです。
近代でも少林寺拳法が達磨大師を祖として少林拳、義和門拳の流れであるとしたり、骨法が東条英機のボディガードだった父が秘密裏に一子相伝してきたものだ、といっています。

嘘をつくのは悪い事、という通念があります。しかし余命の宣告など、時として許される嘘もあります。目的が手段を正当化する、というのは危険な思想ですが、正しい手段から間違った結果がおきることもあるし、逆もある。
武術が求めるのは極論すれば、正しい手段ではなく実効的な手段です。プラシーボでも効くなら有効だし認可薬でも効かなければ無意味でしょう。嘘も方便という言葉があります。

方便は仏教用語ですが、チベット仏教では大事な教えがあるけど、それをその人の考えだとして話しても聞かないだろうから「お告げに従って庭を掘ったら埋蔵されていた教典が出てきた」としてそれをテキストに教えたりします。
しかしそこで語られるのはやはりちゃんとチベット仏教の流れを汲むものだし意義のある教えです。その教え通りに修行して一つの知見に達したとき、振り返ってみて、別に教典の真偽なんてどうでもよいことだったんだな、と分かるし、そんなことを論争している人は滑稽にしか見えないでしょう。
かわいい女子マネージャーにつられて入部したら、それは客寄せで実は男しかいなくて、地獄の特訓が待っていたが卒業のころには入部してよかったな、と思っているようなものです。

白桃会は先の記事でもあげたように由緒も来歴もないです。しかし、そのベースになった技術や人の縁、見聞きしたもの、今までの経験などから、先人の歴史あってはじめてここにいる、ということは常に感じています。
それはブランドとしての歴史ではなく、人類が身体の感覚を通して一段階、別のものになろうとしてきた試みの集積です。

遊びや音楽、舞踊といった文化、芸術は非生産的活動ですが、それが社会の中で存在を許されてきたのは、その「一段階先へ続く道」への可能性の種子だからでしょう。武術がその部分を失ったら社会は武術の存在を許さないことは明白です。それを持たざるものが、持つものをやっかみ、貶めようとするのは、憂慮すべきことです。

白桃会の武術の歴史 

白桃会の武術の由来は非常に古く、歴史あるものです。

開祖は原生生物、アメーバのようなものだったと言われております。
開祖は生存競争に生き残るために全局面的な闘争の技術を磨き、のちに両生類、鳥類、哺乳類などの分派を生みます。当会は、この中の哺乳類の流れを汲んでおります。

やがて数万年前に、流派中興の祖である類人猿師が、四本の手足を使って戦う技を編み出し、棒や骨で殴る、石を投げるといった武器術を制定しました。

その後、いろいろあって現在に至ります。おわり。

特別稽古 & 飲み会 





よろしくどうぞ。

動画解説・遊びと自由 

動画の解説です。
流星錘と手裏剣は、おまけのようなものなので短棒と抜刀術について少し書きます。

・白桃会・いろいろな武器術


多くの人が武術をやるとき、強さを求めると思います。
しかし柔術では最初に習うのは「手ほどき」です。掴まれた手首を外す。まさしく手ほどきを受ける。
これは象徴的です。つまり拘束から自由になる、ということが強さである、というか、強さは自由の副産物だということです。

つかまれて外せないのが不自由で、外せるのが自由。誰にもつかめない、というところまで行ければもっと自由。
誰かに殺されてしまうというのが最大の不自由で、誰にも殺されようがなくなるのが自由です。

では武器術はどのような自由を得るものでしょうか?

動画の短棒術を見てみましょう。棒を振るという本能的な動きではなく、棒を空中に静止させ、自分の方が動くということをしています。
これは棒を人間から自由にしています。そして「人間が棒を使う」という意識から「棒が行きやすい方向に自分が支える」という主客の転倒があるので「私が~をする」という構文の思考からの自由、自分自身からの自由を得ています。

棒が空中に浮いているように留まる不思議。
これは動画の抜刀術でも同じようなことをしています。一般的かどうかは不明ですが、こうした一点を空中に固定して動くことを、海外のロボットの動画ではエンドポイントコントロールと呼んでいました。パントマイムの「見えない壁」とか「綱引き」のようなものです。人はこの不思議な感じを古来より大事にしてきました。



以前引いた、白川静氏の言葉をもう一度見てみましょう。

 遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。【游】は絶対の自由とゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。

遊ぶということが自由であり神の技である。
では遊ぶとはどのような状態を指しているか。

それは「ハンドルの遊び」というような慣用で分かるように、ブラブラして何もしていない状態、一種の浮遊です。
お手玉、まりつき、シャボン玉、たこあげ、けん玉、竹とんぼ、すべり台、ブランコ、サーフィンなど、遊びとは何かを浮遊させ、重力から自由にするものが多く見られます。イメージで天使や神といった存在が浮いているのもそうした連想でしょう。

何もしないでブラブラするのが神の技である、というのは、それが人には難しいということです。ガンダムでいうところの「重力に魂を引かれ」た存在だからです。
私などは勤め人の方から見ればかなりブラブラしているように見えるでしょうが、もっと厳しく見ていくと、おなかが痛くなってトイレに行かざるを得ないとか、お腹がすいてご飯を買いに行かざるを得ないとか、そうした外的要因によって行動を支配されており、本当の本当に何もしないということは出来ていないし、つい漫画を読んだりネットをしたりゲームをしたりと、外的な刺激、コンテンツを求めてしまいます。
しかし、上に上げたような遊びに入神しているときは、時も我も忘れて無心に遊ぶことが出来ます。太極拳もそうしたものの仲間です。

動画の技を見ると、他にもいろいろなところで自由を得ているのが分かります。

棒が浮くことで、それを左右に持ち替えることが出来る。これは利き腕という概念からの自由です。棒は右手に持って使うもの、という思考が消えます。これは実質、二本の棒を持っているようなものです。
また、どっちの端を持ってもよく、順手、逆手のバリエーションがあります。これは単に右手で端を固定して持って使うのに対し、上にも下にも伸ばせるので西遊記の如意棒のように倍の長さのものとして使えることです。
つまり一本の棒が潜在的には左右二本で長さで倍だから4倍使えるということです。この棒のポテンシャルは棒を自由にしなければ発見できません。

・トンファの解説でも同じようなことを書きましたね。

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これらの技は先に打ったものが後から動いた方に打たれています。
後先が逆になる。これは時間から自由になるという事です。
また、打った相手が前にいるはずなのに後ろや真下にいる、ということをしています。そして棒という小に自分という大を隠すことが出来る。
これは空間から自由になるということです。

時間と空間から自由になるという事は大げさに言えば因果からの自由を得るということです。だんだん壮大な話になってきましたが、そうなれば誰にも打たれない、死なない、ということになり、結果として強いと言えるのではないかと思います。

こうした浮遊を自分自身に用いることを振武館の黒田鉄山氏は「浮身」「無足」と表現しています。無足とは足がない、つまり一瞬、完全に両足が接地していない浮遊状態です。かといってジャンプもしていない。そういう状態が出来るとこうした運動が生まれます。

・浮くもの、神の技、すなわち神技。


この受身はなかなか出来ませんでしたが、最近少し形になってきました。
以前は顔や頭をを打つ恐怖でどうしても居ついてしまい、両足を浮かすのではなく軸足を作ってしまっていたのです。

しかし、まず座取りで人に投げてもらうと、その場で一回転することが出来ます。
面白いことに自分で廻るより人に投げられたほうが怖くないのです。このとき、型は人を投げるための技から離れて、受け身の補助になります。そう思って投げた方が楽に技がかかるし、投げられるほうも稽古になります。
そのあとで、投げられたときの感触、経験を再現するつもりで一人でやってみるともう怖くはありません。これはつまり、この受身は「出来なかった」のではなく、元々できるものだったのを恐怖や固定観念で自ら難しくしていたということです。
合気挙げなども、相手(接触点)を勝手に敵視して、そこを力で突破しなければ挙がらない、という思い込みを自分が作っているだけで、本来、相手が手首を抑えているという状況と腕が上がらないということは関連がない、挙げれば挙がると分かれば容易に出来ます。

この、本来もともと自由なはずなのに自分で自分を縛っていた、ということに気づいた瞬間と言うのが修行の醍醐味でもあります。こうした思い込みは「親の望んだ進路と人生を歩まねばならない」とか、いろいろな形で人を支配しているので、武術を通してそういうものからも自由になれるとお得です。