維持するということ 

前回の記事で、武術はイレギュラーに対応できるかという、平時には問題とされないことを問題視する、と書きました。

これは言い換えるなら、武術は新しい能力を獲得したり、トロフィーを得るものではなく、命という既得権益を手放さないための努力といえます。勝ちたい、強くなりたい、ではなく死にたくない、という見ようによっては後ろ向きなモチベーションです。しかしその思いは副次的な欲求をはるかに上回ります。死んだらすべて終わりだからです。

いまある基盤を維持するということは個人、法人、国家、あらゆる存在にとって最重要事項です。夢を追う、事業拡大、そうしたアッパー志向のことをやろうとしても、土台がもろければ砂上の楼閣となります。
しかし、それは非常に価値をアピールしにくいもので、誰しも健康を失ってみるまで健康のありがたみが分からないように、命はあって当たり前という考えになっています。

中学生のときなら誰でも3kmくらいは体育で走らされていた。しかし、40歳近くなって今、走ろうとしても100mで息が上がります。しかし、ジョギングを趣味としている人は走り続けてきた結果として60歳、70歳でもフルマラソンを完走できます。それは、維持のための努力ありきの上でのことです。

企業で言うなら、今いる優秀な人材が流出、引き抜きに合わないように福利厚生や適切な評価、賞与などを出す、ということは、一見、黒字と直接関係なさそうですが、長い目で見れば会社自体の為になることです。
武術団体でも、まだ基盤がしっかりしていないのに支部を乱立した結果、質が下がり、また古参会員がおろそかに扱われているように感じて去っていく、というようなことが続くと潰れてしまいます。
新規入会者が一人はいることと、古参会員が一人抜けるのは数字の上では同じですが損失ははるかに大きいでしょう。まずしっかりとした維持ができて、後を任せられる人が育っていなければ組織の拡大はできません。

武術は合目的性、利方を追うものです。つまり黒字、メリットを得るだけでなく、赤字、デメリットを減らすことが大事です。太極拳は特に、積極的に勝つというよりは利を失わずにニュートラルであることを重んじます。自分がプラマイゼロで相手にマイナスがあるなら、時間がたつにつれ差は開いていきます。こちらが勝とうとしなくても相手が負けることになるからです。

こうした維持費に費用対効果を認める思考は、女性なら美容という概念で親しみがあると思います。保湿、スキンケア、基礎化粧品。こうしたものは、維持するための努力という点で武術に似ています。

新しいものを次々と手に入れ消費していく生活と、昔から持っているものを維持する生活。どちらを良しとするかは人それぞれです。
しかし、金継ぎした器や磨かれた古い木の廊下の光沢、そうした補修や維持のための努力を重ねてきたものは、後からお金を払っても手に入れることができません。それは一つの思想の結晶であり、その思想のない持ち主の手に渡り、手入れを怠られたなら、途端にただの古ぼけたものに変わるでしょう。

そしてそれがものであるなら、一生、新品だけを買い替えていけばいいでしょうが、自分自身であったなら、そうはいきません。命は一つしかありません。

常に自己を点検し、補い、修繕する。
してみると修業とは自分を痛めつけることではなく、大事に最後まで使い続けるという慈しみではないでしょうか。自分の至らぬ点を直視したり、それを直すことを苦にする人もいますが、お気に入りの器を金継ぎして綺麗に直していくとき、人はむしろ楽しさを感じるはずです。









武術の必要性 

価値とは相対的なもの、一種の幻想です。
比較的、安定して普遍的なレートを保つ価値あるものとして命などがあげられますが、それさえも自殺したり、過労死したりする人もいるので絶対的価値ではありません。

そんな中でも武術は無用の用みたいなものだし、そもそも価値判断をするな、そこから自由になることが逆説的な価値なのだ、というようなことまで言い出すので、武術を要、不要で語ること自体ナンセンスです。武術は現世利益があるからやるというようなものではありません。
・・・とはいっても、武術は無用の用でありながらも実用品でもあります。実用面での利方も説いて説けないことはありませんのでやってみましょう。

武術不要論を説く人の意見を集約すると「今までそんなものなくても問題なかったんだからいらないだろう」です。

私はそういう考えの先にある姿を、近年話題の「孫を車庫入れで轢き殺す高齢者ドライバー」に見ています。
今まで数十年間、決まった道を決まった通りに走っていたら無事故だった。だから俺は運転に問題がないんだ。本人はそう思っている。
しかし問題がないのはイレギュラーなことがない場合だけで、孫が遊びに来ているときは視界に入らない場所で遊んでいる可能性を考えたうえで運転しなければならない。
孫がいるときの運転といないときの運転が変わらない、ということは味噌と糞を一緒にしている訳です。

武術で問題とされるのは、一生、まったく同じ環境で何も変わらない生活をルーティンでしている限り、顕在化しない問題です。
しかし、その生活を阻害するもの、敵や事件が起きたときにも対応できるか、が問われます。

地震や津波はイレギュラーなこと、「想定外」のことです。
では、三陸にもう一度、同じ構造で同じ原発を立てるのは良い事でしょうか? それまではうまく回っていたのだから、直すべき問題点はないのだ。そう言えるでしょうか?
あるいは、これまで健康だったのだからがん検診や入院保険はいらない、と言えるか? 海外に行っても今まで通りに左車線で走ろうとするのか。

科学知識がある人なら、雷が近くで鳴っているときに鉄の棒をもって立っていてはいけないことを知っている。
しかし鉄の棒をもって立っている人が今まで何事もなかったから大丈夫、と言ったらどうでしょうか?
それは何事かあった人は全員雷に打たれて死んでいるから、事例が問題化してないだけでしょう。

イレギュラーに対応できる人とそうでない人、どっちが生き延びる確率が高いのか。
どっちがより新しい世界や自由を得られ、どっちが一生、同じルーティンワークだけしていればよい、ルーティンワークしかできないという牢獄のような生活なのか。

武術は不測の事態に対応するものですから、不測の事態に対応できないことは問題ではないと考える人には価値のないものです。ただ、一生すべてが想定内のことで終わることは誰しもありえないし、かならず最終的には「死」というイレギュラーが起きます。

不測の事態など考えたくもない、ずっとこの生活が何事もなく続くと信じていたい人にとってのゴールは長寿と大往生ですが、大往生する為には死を想定内におき、また、不測の頓死を防ぐことが必要に思われます。それは、これまで餅をのどに詰まらせたことはないから大丈夫だろう、というような「だろう運転」の先にはないはずです。

謹賀新年 2017 

あけましておめでとうございます。

前回の年末年始はタイに一緒に行った五月九太郎氏が酒乱でナマハゲモードが発動し、包丁をもって追いかけられたり、元旦はサトーさんと肉を食べたりお湯に浸かったりしていた記憶があります。

2016の年末は新進気鋭の占い師、瀬尾さんがカニを持って遊びに来てくれたので、カニパーティが催され、EEJUMPの活動(工事現場の銅線を盗む等)の話に花を咲かせました。
Tくんのお母さんからいただいた焼酎とウイスキーもあるので2017は快調な滑り出しです。いつのまにかこのブログの(ハイドライド3・闇からの)訪問者も50000アクセスを突破しておりました。

また、私事で恐縮ですが、昨年の11月29日にwaiさんと入籍しました。末永く見守ってください。


新年ということで、あらためて教室の紹介、営業です。

こちら

簡単に各曜日の稽古の様子をご紹介します。

月曜夜・洗足池の教室

以前、指導していたフィットネススタジオが閉館したため、そこで教えていた生徒さんが中心になっています。
静かな旅館を思わせる和室で、隣から三味線の音が聞こえてくるという不思議な空間での稽古が楽しめます。
合気道、空手、護身術などの経験者の方が多いのですが、平均年齢が高いので、そこまでハードな稽古はありません。今、一番人数が多い教室です。

稽古内容は、最初の一時間は太極拳。そのあと、白桃会の稽古が一時間。最後に身体調整が希望者のみという流れになっています。通常料金は1200円ですが、太極拳のみ、身体調整のみの場合は1000円です。

水曜昼・巣鴨の教室

大塚と巣鴨の中間くらいにあります。14時半から16時までが白桃会の稽古、そのあと17時まで子供向けの護身空手木村塾の指導をしています。子供向けと言っても私は年齢によってあまり内容を変えずに教えているので、大人の方でも問題なく稽古できます。両方出ても料金は1200円なのでお得です。

木曜夜・池袋/中野の教室

以前は中野のCMBスタジオだけでやっていたのですが中央線だと便が微妙に悪い方(私含む)のため、月のうち半分は池袋、半分は中野で試験的にやっています。中野は全身鏡、各種武器、手裏剣などがあるので稽古の幅が広いです。
要望があれば組手などハードな稽古をすることも出来る教室です。

金曜午後・東小金井の教室

小金井市の総合体育館のプログラムとしての指導です。
護身術は白桃会の武術のエッセンスを護身という部分に特化、簡略化して応用したものです。太極拳は37式で、もっぱら感覚の養成と内観を主としています。二人一組でやる稽古や推手が多いのも特色です。
16時から18時は護身空手木村塾の少年部の指導になります。高校生まで参加できます。また、中野本部道場まで来ていただければ段位の認定も行っています。

日曜午前・与野の教室

こちらも護身空手木村塾の稽古です。年齢制限はありません。
与野体育館か、その近隣のさいたま産業文化センターを借りて稽古しています。与野体育館が取れた場合のみ、希望者がいれば12時から13時まで、白桃会の稽古か、身体調整も可能です。

月・火・土の稽古

明記はしていませんが、どうしてもその日しか稽古できないけど白桃会の稽古をしたいんだ、という方の予約は受けています。100%ではありません。近所の池袋の公園や、新宿スポーツセンターを利用します。

複数のクラスに出たい、全部出たい、というような奇特な方は8000円で全クラスに参加できます。
入会金、年会費、物販、指定道着などは一切ありません。どなたでもお気軽にお問い合わせください。

080−4737−3618

今年もよろしくお願いします。




小金井の忘年会に行ってきたゾ! の巻 

昨日は小金井の太極拳教室の忘年会だった。
この教室はずっと来てくださっている方が多く、忘年会もなんと11人全員が参加してくれた。ありがたいことである。

よくある《生徒の声》というアレで、自分の教室をほめる言葉を自分のHPに載せたりするのは自画自賛の観があり、奥ゆかしくないのだが、いっぱいほめられて嬉しかったので折角だしその一部を紹介しよう。

・何年もやっているけど毎回、行くたびに何か発見がある。(Iさん)
・一つの流派の創始者から直接習えるということは大変な価値があること。(Yさん)
・太極拳の逆腹式呼吸で痔が改善した。(SSKさん)
・医者には治らないと言われていた慢性の下痢が収まり、毎日ビールが飲めるようになった。7kg体重が増えた。(Oさん)

など、後半、主に肛門関係の功徳が集中したが、白桃会の三本柱は快食・快眠・快便なので、これはとても喜ばしい。

この教室の生徒さんはいろいろな活動をしている方がいるので、この場で紹介させていただく。

絵本作家・大友康夫さんの著作です。

塚本豊子さんの企画運営されている小金井のギャラリー双のサイトです。

ちくま書房の編集を勤められていた柏原成光さんの著書です。

作曲家・ミュージシャンの飯島玄麒さんのブログです。



みなさん、一年間ありがとうございました。来年もよろしくおねがいします。

改めて認識してほしいこと 

今年も差し迫ってまいりました。
白桃会も8年目、いろいろなことがありました。

うちは固定道場を持たず、活動広告も出していないので、ほとんどの人がネット経由で入会されてきたことと思います。
なので、このブログも読まれている方が大半ですし、ある程度、この会における武術に対する考え方に関しては賛同を頂いた上での参加が多いと思います。
今から書くような話は、そうした多くの方にとっては言われるまでもないし当たり前のことをくどくど言い立てることになってしまいますすが、最低限これは守ってください、ということを改めて幾つか書きます。ご容赦ください。

算数の授業で一番大きい権威は算数そのものです。
先生は算数を解説しているにすぎず、強弁しても1+1を10にしたりはできません。
音楽の先生は「ド」を「ラ」には出来ないし、歴史の授業で虚偽の事件を教えたりも出来ません。

武術も同様です。太極拳の時間に音楽を掛けるとか、空手にアクロバティックを取り入れるとか、そうした権限は私にはありません。武術を武術として伝えるだけです。
では何をもって、これは武術、これは違う、と判定するかと言えば「死に近づく事をしているものは武術ではない」というのが主な判断基準になります。
白桃会の武術は、戦時に命を捨ててでも相手を斃す、という思想の技術ではなく、あらゆる局面で生き延び、そのための最適解を出すことを主としているからです。

たとえば何度も引き合いに出しますが、木村政彦は襖をあけるときに敵がいるか確認しなかったことを不覚悟ととがめられています。また、杖道に進んだ当会の卒業生、Rうdyさんも、杖道の門を叩いたとき、お辞儀で下を向いたら、礼の時に目をそらすと危ないよ、と言われて杖で頭をこつんと叩かれました。
私がかつて学んだ少林寺拳法でも、脚下照顧ということがうるさく言われました。
これはざっくり言えば履き物をそろえるという事ですが、自分が何かした後、振り返ってどういうことをしてきたのか、もう一度、客観的に観ろということです。履き物に限らず、あらゆる日常動作の後に、自分が何を言ったりしたりしてきたか、を無自覚でいないか? と確認する。それは単に履き物を脱ぎ散らかしていた、というだけの問題ではなく、それだけの隙、無自覚な領域があったということで、すなわち死に直結することです。

ただ難しいことに、無自覚な人間はそれを叱られても無自覚であるゆえにそれを認めません。
そんなことはしていない、言っていない、やったかもしれないけれど、そんなつもりはなかった。あるいは、そんなこと武術と関係ないから言われる筋合いではない、俺の勝手だろう、という反応もあります。

徹夜明けで不機嫌な人がいる車両でガンガン音漏れをさせてウォークマンを聴いている人はキレられる可能性が高い。武術的に見れば死にだいぶ近づいています。
しかし、本人は「俺は音楽を大きな音で聴きたい」ということしか頭にない。それを注意されたなら「音楽を聴くのをとがめられた」と感じてムッとするだけで「殺されるところだったのを救けてもらった」とは感じません。
これはほとんど、ボールを追いかけて車道に飛び出した幼児のようなもので、「それは死に直結してますよ」と言われても「ボールで遊んではいけないと言われた」という認識しか持たないのです。

驚くことに大人になっても人間は自分の意識の領域外で死にかけていた場合、そのリスクの軽重を理解していません。
それどころか、あなたは何もわかっていない、とため息をついて、むしろこちらに「音楽がいかに素晴らしいか」「ボールで遊ぶことの楽しさについて」を滔々とレクチャーしてくれようとする人さえいます。

一般的にはそういう類の人はいっぺん死ぬしかないし、そういう不注意で愚かな人間は淘汰されていくのが自然の摂理ですが、武術は弱者の教導であり、転ばぬ先の杖です。
また、人は意識の変革とたゆまぬ自己訓練によって変わっていける、ということを否定するのは即ち武術の否定になります。私が武術家ですから、武術の持つ力は人を変えうるし、私自身もその証左であると考えています。

なので、聴く態度がある限りは、そうした人々に、こういうことしてると死にますよ、と噛んで含めるがごとく、あらゆる表現で理解するまで注意を促すのが主な業務です。
根気よく、ボールを取りに行くときは左右を見て車に気を付けてからいきましょう、というようなことを伝えていきます。しかし、それが無理な場合があります。それは、完全に指導、注意を拒絶された場合です。当然のことながら、それらを「うるさい」「いいです」「けっこうです」と遮られるならば、こちらとしては何もお伝えできません。

道場は、生きるための術を生徒が学びに来る場所であって、音楽のすばらしさやボール遊びの楽しさを生徒が主張しにくる場所ではありません。
それらの問題の改善を拒否するのであれば、それはもう武術ではなく、単なる暴力か、パフォーマンス的な演劇・アクションです。それらが学びたい人はわざわざ星の数ほどある道場の中でうちに来る必然はないでしょう。

私は稽古の場においての責任者ですし、怪我や事故があればその責任は私にあります。しかし、それには私に監督権を委ねてもらわなければ責任の負い様がありません。今、この時間はこの稽古をしてください、という指示を無視していて起きた事故は防げないし、稽古の場でそうした勝手なことをするのをやめない人には退去してもらう必要があります。
それは好悪や付き合いの長さに関係なく公人性、責任者としてそうせざるをえないからです。

今までにも、

コールを無視せずにレスポンスをすること
人の話を遮らず最後まで聞く事
教えの内容を価値判断して勝手に軽重をつけたり、優先順位をつけたりしないこと
目的意識を定めないこと
直であること
礼を守ること

などをブログで書いてきました。それらは死に直結する要素であり、生き死にに関わる術を教え、教わるという信頼関係の土台です。先ごろ、唯一の正式な弟子である珍念ことSさんがこれらの一切をフルに無視する数え役満を達成したので、師弟関係を解消しました。
本人はその後、自身の問題点を理解し、再発防止の具体策を書き連ねてきたので、今後一年間、稽古態度を見て問題がなく、本人がそれを希望するのであれば改めて弟子としての参加を認めることになりました。

Sさんがこうした態度を続けてきたのは今回だけでなく何度も繰り返してきたことですが、その度に謝罪を受け入れ許してきました。しかしそれ自体がありうべき甘さとなり、「一度言ったことは取り消せる」「時間がたてばなかったことになるし、自分の記憶も都合よく改ざんしてしまえばよい」という認識を作ってしまったのではないか、と今は思っています。
武術は一度しかない命の中で、さらに一生に一回あるかないかの危機に対しての対応を学ぶものです。
その本質はそうした一回性の中にあるのに、無限にコンティニューを許してしまった結果、スポイルしきってしまったのだと思います。武術をなめさせてしまった。私の指導方針の過ちでした。

あらゆる技や型は人を自由・自在にするものです。
死なないようにするのも、死ぬと不自由だし、死から自由であるためです。

ここでいう自由は自分の好き勝手な判断をしてよいということではありません。
どんな困難な環境下や強敵をも自由に自在にするということです。それは「私がしたいようにする」という判断から離れ、その場における最適解、相手にとって最もされたくないことを選ぶという一人称の放棄。三人称の視点を得ることです。

技や型はそうした認識とそれを体現する体を作るための方便でしかありません。
自分自身、我執からの自由・自在を得ること。強さも健康も美しさもその副産物でしかありません。