最近の動画 

こんなことをやってますよ、という紹介です。











そもそも何故そうなったのか 

白桃会の武術は難しい理屈はありません。義務教育レベルの理科、算数程度の知識しか必要としません。しかし、長年、他の武術をやってきた人から驚かれることがあります。
それは、とるに足らないこと、当たり前の事と思って見過ごしてきたものを掘り下げるということに、その人たちが価値を見出していなかったからです。

当たり前になってしまっていることを「なんで?」「どうして?」と問い直すこと、それらの意味を考えること、は、複雑化した社会の中でブラックボックスをブラックボックスのまま運用している我々にとって重要なことです。危急の際に役立つのは、完全に掌握しているもの、用途に応じて分解して再構成できる技術だけだからです。

剣術の記事で少し触れたような、眼と腕の問題などもその一種です。

眼は正面についている。だから正面を向いて戦うほうがよい、という考え方と、腕は横に生えている。だから横半身で戦う方が良い、という考え方。これらはどちらにも理があります。
しかし、最初から何も考えずに剣道をやっている人は、正面を向いて戦うものだと刷り込まれ、フェンシングをやっている人は横を向いて戦うものだ、と疑わない。これはある意味、なぜ我々はそうせざるをえなかったのか? の理をブラックボックスのまま運用しているということです。それは本質的な理を見失っています。
これらは他の分野と比較してはじめて分かることです。だから武術は単一流派だけでは存続できず、全体で一つなのです。

他の例を挙げます。
柔道は打撃を用いずに掴む。空手は掴まずに打ちます。それらは既に様々な試行を経た結果の部分です。
しかし、そこに至るまでの途中の式を知らなければ、異種の相手とぶつかったときに全く通用しないでしょう。殴らない約束の中での掴み合い、掴まない約束の中での打ち合いが上手になるだけです。
どうして我々は殴らずに掴むに至ったのか? あるいはその逆か? を問い直すこと、問い続けることをやめない人間は、解答から逆算して途中の式を求める人です。そこにこそ、殴らせずに掴む法、掴まれずに打つ法があります。

内家三拳の共通性についての話もそうです。比較することで同じ仮想敵を共有していることがわかり、それに対してどういうアプローチをとることを選んだのか、を理解すれば進むべき方向性が見える。

武術が衰退している現状は、この途中の式を省いて解答だけを残した結果、そこから先の発展ができなくなっているから、とも見れます。どういう経緯で発展してきたのかが見えていれば、順当にいけば次はこのように進化するだろう、というネクストドアが見えますが、それがなければキメラ的に元々の術理の方向性にそぐわない技術を付け足してちぐはぐなものになり、全体の機能を損ねるか、時代の変化に取り残されるかのどちらかになります。

当たり前になってしまっている事を問題として捉えることとしては、人間の足が二本しかない、ということも考える意義があるでしょう。テーブルは四脚、カメラは三脚で立たせます。安定を求めるなら最低でも三脚が必要なことを我々は経験上知っています。なのに我々は二本足で歩いていることに危機意識や問題意識をもっていない。しかし武術はそれを問題にする。文字通り、三本目の脚である「転ばぬ先の杖」を得ることを考える。

人間の脚が二本しかない、ということ。
これをどう運用していくかと考えた結果が、あえて不安定に倒れ込んでいく方向を作り、それをコントロールすることで動き続けるという太極拳の歩法や酔拳のようなものになったり、地面に手をつくというカポエイラ的発展をしたり、むしろもう座ってしまう、寝てしまうという日本武術的展開になっていく。
また、どうすればさらに不安定に出来るか、さらに減らして一本にするにはどうすればよいか、という投げ技や足払いへの発展も考えられるでしょう。そして、杖、剣、鞘などを帯びることも、恐竜が二足歩行した際に長い尾でバランスをとっていたようなバランサーとしての役割があることも見えてきます。

根源的な部分を見ることで多様化した意味が分かり、また、まったく関係ないように見えるものがつながりを持ってくる。そうした目を養うことはブラックボックスを大量に集めることよりはるかに重要です。
武術とはむしろ技が本体ではなく、こうした思考法そのものです。こうした思考法さえあれば技術が断絶してもまた1から作り直せるからです。


武術は滅ぶ 武道はどうか? 

武術をやっていますと言うと、武道をやってらっしゃるんですね、と言われることがある。
いえ、道というようなものではないです。武術ですと答えると、なるほど、古武術ですか、と言われる。
言え、特に古くはありません。普遍的な武術ですと言うと、わかりました護身術ですね? と言われる。

ここに至って私は苦笑いするしかないのだが、この手の人たちはまるで放送禁止用語か差別語のように「武術」という単語を避けるのだ。このやりとりは一度や二度ではない。

なぜ、そうした言い換えをされてしまうのかというと、その人の中で実用の術として純粋に人間を殺傷する稽古をしている人=暴力団のような悪、というような分かりやすい恐怖があるからだろう。
なので、精神修養のための武道としてやっているんでしょ? 違う? じゃあ伝統文化の保護ですか? それも違う? じゃあ身を守るためにやっているんでしょ? といった、自分の理解の及ぶ範疇で捉えようとしているのであろう。
なので、そうですね、我々のやっていることは暴力の研究ですし、それに携わることは自覚的に悪であることでもあります、と言ったりしたなら、完全に拒絶されることは目に見えている。

こうした人の心の働きは「自衛隊は人殺しの訓練をしている」と言ってしまう人と似ている。それは一種の思考放棄であり、暴力については考えてはいけないもの、不可触なケガレであるというような反応だ。
対談で豪先生が、そうした人々の考え方は「現代における部落差別だ」という発言をしておられたが、本当にそれに近い。しかもそれは本人が考え抜いてそれに至った確固としたイズムではなく、そう教えられて育ったからそう思い込んでいる、という洗脳に近いものだ。

戦前、軍国教育がなされ、反戦思想をもつものは投獄された。戦いを是としない人間は非国民と呼ばれた。これはファシズムであり間違いだろう。
しかし、戦後、教科書に墨を引かされ、これが民主教育です、といって施されたものはどうだろうか? 今度は正反対に、戦いは絶対悪で暴力に携わる人間は反社会的な存在だ、と言われているが、図式としては全く同じではないだろうか? 単純に戦前は日本政府の都合の良い人間として育てられ、戦後はアメリカ占領軍に都合の良い人間として育てられただけだろう。

誰も自分の頭で考えてそうした思想になったのではない。それを無条件で受け入れている人は、戦前なら鬼畜米英の鉢巻きを巻き、戦後なら学生運動をして、現代なら国会前でデモをするだろう。
そうした人々は暴力とは何か、悪とは何かを真剣に考え抜いてはいない。何かしらのスローガンにのっかっているだけだ。
リベラル、という言葉の意味は自由主義的、だが、現在のリベラルといわれている人々は判で押したように同じ思想であり、そこには軍国主義と変わらぬ「自分たちと違う他者を廃絶する思想」しかない。
本来の自由主義というものは、ヴォルテールの有名な言葉、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」が言い尽くしている。これは非常に武術的な思想、つまり敵対的他者とのコミュニケーションの在り方なのだが、これほど日本人に根付かない思想もない。

さて、ちょっとズレてしまったが、冒頭のやりとりに戻ると、大衆は武術に拒否反応を示し、武道ならまあ容認する、という不思議な感覚をもっている。では、常々、武術は滅びると言ってきたが、武道なら生き残るか、というと、結論を先に言うと武道のほうが先に滅びるだろう。それは、それこそ実用、暴力を切り離そうとした結果、である。

ちょっと考えるとわかるのだが、やきもの、陶芸という文化を残そうとしたとき、片や、花器や食器を作る人がいて、片や、前衛的な、純粋芸術としてのやきもの、器ではないオブジェを作る人がいたとする。どちらが普遍的だろうか?
後者は初めてメディアにのっかった時はセンセーションだろう。すごい、今や陶芸は実用品ではない、それそのものを手段ではなく目的とした思想にする時代が来たのだ! と言われるかもしれない。でもまあ、そうした記事を書いたりした記者に、じゃあこのオブジェ100万円で買いなよ、と言ったら、いや、いらないですと言われるのではないだろうか。

器の美、思想の厳しさは実用をつきつめたところに生まれる。
厳然として、料理を盛ったときに下品に見えてしまったり花を活けたときに悪目立ちしたり、あるいは花に負けてしまったりする器は駄目だろう。それは器と料理、花の勝負であり調和である。そこから逃げてしまったものは、価値の判定基準を見失ってしまうので、結果として、良いも悪いもないものになる。

現在、伝統派空手や表演の中国武術の多くが、型の本来の意味ではなく見た目の美しさだけを競い、演じている本人もその動作がどういう用法なのか知らないという状況があるが、これはやきもののオブジェ化のようなものだろう。
実用から離れるのであれば、この一言が殺し文句になってしまう。

「だったらバレエとか新体操のほうが高度なことやってるし、見てて面白いんじゃない?」と。

実用性の思想をスポイルされた型に、他のバレエや体操にない要素、それより魅力的なものはあるか、といえば、しょうがないからエキゾシズムをかきたてるしかない。これぞ和の心、とか大和魂とか、そうした雰囲気で良さげに見せるしかなく、それは外国人がハラキリ、ニンジャ、スシ、ゲイシャを喜ぶのと同じで「なんか日本っぽくていいよね」という軽薄なものだ。しだいに飽きられるだろうし、一生をかけてやるほどのものではない。

「武道」は発生当時からねじれ、ゆがみを抱えている。
日本で武道と言えば何を指すかというと、まず第一に柔道であり剣道だ。後に合気道や空手、弓、居合い、杖なども付随したが、武道という概念の草分けとしては柔道、剣道であろう。武道場といえばこの二つのためのスペースを指すし、ほぼすべての中学、高校などの教育機関で正課として、あるいは部活動として普及している。

これらは以前も書いたが、当初はこの国のやわらを、そして剣を守ろうとして生まれた。
いわば武術の子であると同時に庇護者でもあった。

当初の柔道は柔術と対立するものではなく、柔術の道場に行って稽古して講道館で段位を取る、というような並立して行うもの、互換性のあるものだったし、柔術家でありつつ柔道家でもあることが主流だった。
木村政彦が師、牛島辰熊に、ふすまを無造作に開けたことを「不意の敵に対する心構えがない」と叱責したように、実用品、武術としての「やわら」という思想が途絶えていなかった。
また、現在の国家資格、柔道整復師の制度の設立は、当時、柔術家たちが「ほねつぎ」を副業としていたのを正式に国に認めさせたものだったが、柔道側がこれに尽力したのは柔術家が生計を立てて食べていけるように既得権益を保護した結果だ。

剣道もまた、初期の師範の多くは剣術の師範であり、範士〇段の肩書の前に、神道無念流とか直心影流とか、流派に所属しているのが当たり前だった。また、剣道で間合いや攻防の理を学びつつ、居合いで真剣刀法を学び、試斬も行うというのが普通で、防具を着用して竹刀で打ち合うというのは、日本刀を使って戦う技術の稽古の一環でしかなかった。

この時代剣道、柔道、つまり武道は武術を否定しておらず、むしろリスペクトしていた。
武術と武道の幸せな蜜月の最後の期間だろう。

だが、手塚治虫の『ブッダ』で、ダイバダッタがブッダの教えを素晴らしいとしながらも、教団を運営して組織化していくに従い、しだいにブッダを邪魔にして殺そうとするに至るように、武道は武術を迫害する側に回る。

そんなつもりはない、と言うかもしれない。しかし、やきものオブジェの例でいうなら、「我々のやっていることは新しいんです。実用品として捉われることなく、精神的な、純粋な美を追求しているんです」と喧伝することは、本人はやきものの文化的地位の向上、存続を願った行動にせよ結果として実用品としてやきものを作っている人間はレベルが低い、とディスっている事になる。
隣の奥さんは美人だしやさしいなあ、と自分の妻に言い続けたなら、誰と比べてだコラ、と喧嘩になるのは当然だろう。

本来の武道は武術を庇護しようとしていたし、ぶっちゃけ武道は精神性がうんぬん、というのも一種のお題目であって、そういう名目でやるから柔術、剣術を稽古していても見逃してくださいよ、というものだっただろう。
特に戦後、GHQが武道禁止令を出した時、「武道はスポーツですよ、スポーツ。だから危なくないし危険思想なんて滅相もございません」といったときも、内心ではそんなことは思っていないし、いまは雌伏の時だからスポーツと言われても甘んじて耐えよう、断絶させないことが最優先だから涙を呑もう、という苦渋の決断だったろう。

しかし、そこから二世代ほど進むと、そうした経緯を知らずに、お題目部分のところだけ、武道はスポーツです、精神修養です、ということだけを教えられ、古流からも断絶された純・剣道、純・柔道しか知らない世代になる。
彼らが武術について知っていること、思う事は「精神修養のない実用だけを求めた野蛮なもの」という認識であり、つまり創設者の意図とは真逆の蔑視だけが残っている。
元は死者を送ったり神事にまつわるヒジリ、キヨメといった職能集団が、それをタブーとする理由が忘れられ、ただタブーであるということだけが残った結果、不当な差別になるように、武術は貶められてきた。

いや、それは被害妄想ではないか、武道は武術を排斥などしていない、と思うかもしれないが、日本で数少ない、あるいは唯一かもしれない武道をアカデミックに扱っている最高学府である国際武道大学のHPには大学概要の項にこうある。

武道学科は、日本の伝統文化としての武道を伝承し、知識の修得及び技術の修錬を通して、「術」を超えた「道」の精神を追求することにより、心身ともに健全で社会に貢献できる人材を育成する。


これは術を超えたものが道、つまり術は道の手前にある未発達なものであり、心身が不健全なもの、ということだ。

武術は母体であり武道を生むことが出来るし、武道にあって武術にないものはない。濃淡の問題でしかない。しかし武道から武術は作れない。つまり武術の方が上位概念である。道は術を超えたものではなく術のもたらす一効果をクローズアップしたものだろう。それが見えていないし、無条件で術は即物的なものと断じているから、「武道」にはいびつさ、ゆがみがあると感じるのだ。

そしてそれは、皮肉にも国際武道大学で発表されたある論文自体に端的な形で記されている。これは調べ物の最中にみつけたものだが非常に興味深かった。

3P 注2より

『武道』は、厳密に言えば近代日本で西欧的なスポーツに対して伝統を再構成して成立した運動文化を指す名称であるが、近代以降の武道はすでにスポーツ化しており、伝統的な独自性を失ってるので、近代以降の武道の母体となった近世の武術・武芸を問題にする。(中略)当時、『武道』とは呼ばれていなかったが、近世に展開した武術・武芸が、今日の武道の土台であるので、これを「原義としての武道」として問題にするのである。


つまり、武術を否定しているはずの、その国際武道大学の先生が、もう現代では武道は伝統的独自性を失ってスポーツになっているから、武道の話をしたいけど、武術の中にしか武道を見出せないのだ、と言っているのである。
だとしたら後段の指す「今日の武道」というものは何を指すのかもはやよくわからない。これが「やきものオブジェ」的なものの行きつくところ、自分が作っているものが何なのか分からなくなるというゲシュタルト崩壊なのではないか。つまり、この先生の結論としては、すでに武道は滅んでいる、というのだ。

この論文は、神学者が無理くりに聖書の解釈を今日的な科学的事実と牽強付会して整合性をもたすように苦心するのに似ている。すでにない「武道」をあることにするため、武術こそ武道であるというアクロバット的着地を試み、「宮本武蔵の五輪の書こそ武術から武道に至る道である」みたいなことも言ってしまっているが、前田英樹氏の『宮本武蔵・剣と思想』 などを読む限り、むしろ武蔵は禅や精神論に走るのではなく、とにもかくにも人を斬ると思って剣をふるうべし、利方(最大効率)をフラットに先入観なく追及すべし、という功利主義、実用主義の徹底を説いているのである。だとしたら武道とはなんなのか、というのが一層分からなくなる。
あと、まあこの論文の「中国武術には老荘の神秘主義はあっても思想はない」というような記述にも色々言いたいことはあるが、それは多分、スパゲティ=パスタだと思っている人がベンネやマカロニを見ても食卓にパスタがないと認識するように、「日本的認識による思想」がないだけで厳然としてあるのだけれど、それは置く。

武道は武術を守ろうとして生まれた。そして武術を迫害する側に回り、今は、自分の存在理由を武術に求めようとしている。これは迷走だろう。
「やきものオブジェ」が実用の器に対するアンチテーゼだったように、それ自体が一個の確たる強さをもつ文化ではなく、何かを否定する上に成り立つものだった場合、皮肉にも、その否定する何かがなくなった瞬間には自分も存在意義を見失う。カウンターカルチャーは独り立ちができないものなのだ。
仏教国でアンチキリストを謳っても何のことやらわからないし、カルチャーのないところにはサブカルチャーもない。無政府状態の地域で反体制を叫んでも意味がない。術が失われた世界で、「我々のやっていることは術を超えたものなんです」と言われても、だからなんなんだ、ということになる。

そういう意味では皮肉なことに、柔道、剣道がかろうじてスポーツではなく武道として存在できる余地も、警察官や刑務官が実用のための必須項目としてそれを置いているという極めて「武術的」な側面が支えているのではないか、とも言えるだろう。

白桃会の剣術 

以前も紹介しましたが、太極拳の中に楼膝拗歩という技があります。
37式では、このときに足を引きずるような「禹歩」という進み方をします。この歩き方は半身マヒだった古代中国の禹王の歩き方に由来するといいます。自分の体に重りを紐でつなぎ、それを投げた勢いでひっぱられて自分も進むような、自力であって自力でない、ワンクッションおいた移動法です。これに限らず、太極拳の多くの技は陰陽、つまり、片側の手足は自律的には動かせないものと仮定して、それを反対側の手足の連動で動かすような使い方をします。繰り返しお伝えしてきた自己の他者化です。

こうしたものはハンディキャップの中から生まれたのかもしれません。普通に歩けて走れる人はわざわざこうした代用品的な運動を思いつかないかもしれない。
そして、そもそも人間がここまで発達してきたのも、毛皮も羽根もひれもなく、爪も牙も不完全な生物で、それを道具で補ってきたからです。つまり不完全性というものは可能性のるつぼであり創造の母です。武術自体がそうした代用品的なものでもあります。

これは、白桃会の剣術の歩法です。



これも自発的に歩くのではなく、足裏を曲面にして、剣の重さでよろめくように歩いていきます。 ※解説

こちらは剣の使い方の一例です。



日常化しすぎていてあまり意識に上がっていないかもしれませんが、ここでも人間が持つ構造的なハンディキャップと、それをどう克服するかということが術のテーマとなっています。それは人間の腕が肩から横方向に生えているということの持つ問題です。

人間が闘争で最も使用する部位は腕、手です。これらは横方向に生えている。
なので、単純に考えると横向きで戦うのが強い。槍術や弓、フェンシングなどは横向きで行うし、無手でもジークンドーや八極拳などはほぼ横向きで攻撃します。
一方、顔と胴体にとっては正面を向いたまま戦うのが自然なので、南の拳法や空手などは正面を向いて戦うことを基本としました。これはどちらが正解なのでしょうか?

剣の場合、片手操作は横向き、両手操作は正面が基本になります。
そして二刀はその両方を行き来します。正面で受けて横に開いて斬る、といった形が多くなります。

ネットなどで二刀流は使いにくい、という意見をたまにみますが、往々にしてそれらは、正面の技術、思想のまま無理やり二刀を使おうとしているし、そもそも横向きの技術がまったく想像の外にある人の場合が大半です。
現代剣道では面を正面からまっすぐ打たないと効果を認められないため、おのずと直線的な前後運動が主になりますが、片手操作や二刀では扇状に片方の足を軸にしたピボットや、入り身が重視されるので、基本戦術が違うのです。それらは太極拳と共通点が多いので、親和性が高いです。

いじめの構造 

いじめをやめよう、いじめを社会からなくそう、そういう人々がいる。立派なことだ。
そのキャンペーンに賛同する人が何万人もいたとする。すばらしい。
では、いじめはなくなっただろうか? 答えは否である。
そのキャンペーンの賛同者の中にいじめの加害者はいないからだ。つまりこれは無意味な活動である。すばらしいけど無意味なのだ。

これは自明のことだしこのブログでも繰り返してきたことだが、一応解説する。

「泥棒はいけないことだ」
「そうだ、そうだ」
「いけないことだよねー」

という人が数万人集まる。じゃあよし、泥棒がいけないことだと国中で周知したとして、実際に泥棒が出たとする。
その時に

「こらー、泥棒はいけないんだぞーまてー!」

と言ったら泥棒は、あ、そうですね、泥棒はよくないですね。待ちます。盗ったものは返します。すみませんでした。めでたしめでたし、と、なるだろうか? ということだ。泥棒は悪いのは百も承知でやっている。

いじめはよくないからやめましょう、というのはいじめられる側にとってよくないのであって、いじめる側はいじめが楽しくてやっているのだからやめない。

まあ、そうしたキャンペーンがいじめを起こりにくくする空気を作る、という予防の意義はあるかもしれない。しかし、実際には古今東西、人間の社会は構造上、いじめが起こる必然をもっているし、その社会を作っている人々といじめ撲滅キャンペーンを張っている人々は層がかぶっている。

たとえば、我が子がいじめにあったら、当然、親はいじめはよくないというだろう。
では、我が子が悪い女にひっかかったり、偏差値の低い学校に進学したり、就職しないと言い出したらどうするか? これも止めるだろう。良い縁談、良い学校、良い就職を望むだろう。
しかし、その価値観を受け入れた子供は必然的に、良くない学校、良くない結婚、良くない就職をした人間に対して優越感をもつことになる。それをストレートに他者に出せばいじめや差別になる。

気持ちの優しい人間なら、それを憐憫として出すかもしれない。しかし、どちらかというと私はその方がタチが悪いと思う。

「あいつ、中卒で貧乏なんだぜ。ダッセー。ギャハハ」

と言われるより

「まあ、おうちが貧乏で学校に行けなかったのですか? おかわいそうに。この1000万円をお使いなさい。わたくしにとってはほんのポケットマネーですわ」

とやられたほうが血圧が上がる。憐れむと見下すは同根だが前者のほうが深く人を傷つける。憐憫は誇りや尊厳に対する攻撃だからだ。
いじめられた子供が親や教師に相談しない場合が多いのは、密告(チクっ)た、自分では何もできないから大人の力を頼るしかなかった、と思われるのが嫌だから、ということが多い。肉体的な暴力を受けるのは甘んじても誇りを守ろうとした結果とも見れる。誇り高い人間に優越者として手を差し伸べるというのは、それもまた暴力なのだ。

いじめはよくないという。
その一方で、向上心をもつ人間が称賛される社会がある。
そうした社会では、のび太のような人間は劣等で見下されるだろう。この社会の構造の中でいじめがなくなることはない。極論をいうと、いじめが悪なら向上心も悪だろう。

かといって向上心がなければ現代医学や現代農業はなく、みんな病気や飢えで死んでしまう。
「いじめは悪だからなくしましょう」をガチでやると、ポルポトのように知識階級を皆殺しにするしかない。それは結局暴力であり、最大の悪だろう。
現行の人類がヒトとしてのさばっていられるのも、温厚で争いを好まない類人猿を祖先の凶暴な原人がかたっぱしから叩き殺してきたからだ、という話も聞く。つまり我々は悪であることを生活から切り離せない。自覚的に悪として生きていくしかない。我々は暴力によって向上し、生かされてきたことを否定できない。仏教的にいうとこの世界の実相は修羅道なのである。

その中で武術は、勝負ではあっても競争ではない。あるいは生きるか死ぬかであっても勝つか負けるかではない。暴力と共存しながら、どう生きていくか、自己の尊厳を守り、サバイブしていくか、ということをやっている。武術自体が「無用の用」の結晶みたいなものなので向上心とも無縁である。
今そこにある自分がすべてだし、一切が自己責任なので他者と比較する必然がない。価値判断もないし感情も入る余地がないので優越・劣等という概念もない。だから修羅道を脱せる可能性がある。



関連

愛と憎しみのはてに

何が正しいとか誰が悪いとか