動画&告知 

差し迫ってからですみませんが告知です。




初めての人は5000円、リピーターは3000円になります。ご興味のある方は是非どうぞ。



それと動画です。未編集の動画が溜まっているので少しづつ消化していきたいと思います。



※音声が聞き取りにくいのでイヤホン・ヘッドフォン推奨です。






技のコレクションは悪か? 

中国武術には千招を知る者を恐れず一招に熟するものを恐れよという言葉があります。
また、どんな武術も基本こそ奥義であり、究極的には技はどんどん単純化してシンプルなものになるといいます。

まあこれは真理ではあります。
では、「ゆえに多くの技を知ったり練習するのは害悪である、そんなことをしていても実践者ではなく単なるコレクターになるだけだ」という論理の帰結は成り立つでしょうか?

結論から言うと、そうではありません。千と言わず、万でも億でも、あらゆる武術の技を知悉して、そして武術だけでなく舞踊、音楽、書、花など、あらゆる文化に精通していなければ一招に熟するということは難しいでしょう。

以前にも書きましたが、正面を向いて戦う武術の本義を完全に理解するには横向きで戦う武術と比較検討する必要があります。槍と小太刀、柔と剛、立ち技と寝技など、対偶になる考え方を知る。
それらに対して徹底的なシミュレーションをしたとき、 何が生まれるか?

それは例えば剛柔の例で言うなら、剛の対偶としての柔ではなく、剛に対する対策を全て含んだ柔になるということです。そうなるとすでに剛は柔の中に含まれているともいえ、もはや対偶がありません。相対性を超えたものになる訳です。これが「一招」です。

相対性がないということは一であると同時に全でもあるので、必然、千招に熟することでもあります。それは技単体が熟したのではなく技を構築するシステムの構造に熟したということだからです。ならば同じシステムで作れる技は軒並み熟しているはずです。
技で言うなら腕十字固めを「腕十字固めの形をやっている」と認識している人は単に腕十字が出来るだけですが、「腕十字という技を教材に関節の構造を学んでいる」と捉えている人は裏十字でも膝十字でもアームロックでも、関節技全般のレベルが同時に上がります。

つまり一招はあらゆるものを煮込んで、漉して、蒸留して、その一番搾りの上澄みの部分を取り出すことで抽出できます。
そしてそれをするのには、技の根本を理解する「眼」がなくては成り立たず、その眼は優れた技を多く見て、その中にある共通性、普遍性を見出すことで育ちます。なので一度は必ずコレクターの道を通る必要があるのです。

よほどの天性と出会いの運に恵まれていれば、最初についた師に最高の技を見せられ、その一個を徹底的につきつめるだけで一を聞いて十を知るように全ての構造が分かるかもしれませんが、それは誰にでもできることではありません。
焼き物で言うなら、古典の名作を見て、あらゆる種類の土の配合、釉薬の掛け方を試し、何千、何万の作陶を試行しながら理想に近づいていくのが、手間はかかるけれど誰でも出来る「一招」への道です。

武術の世界では技のコレクターというのは侮蔑、非実践者のニュアンスをこめて使われる表現に近いですが、コレクターになるのは悪い事ではありません。単に手当たり次第に食い散らかしていくのが悪いのであって、ちゃんとかみ砕いて自分の栄養にしている人の蒐集は一本、その人の志向、風格、審美眼が通っており、コレクションがセレクションになる。それはすでクリエイティブなものです。

やきものの話をしたのでついでに書きますが、かつて民藝運動というものがありました。美術品として作られたものではなく無名の職人たちが作った普段の生活の中で使う器などに美を見出す、という運動です。
これは非常に構造として武術に似ています。日用品、実用品だからこそ到達しうる用の美を、ガラスケースに飾るのではなく手に取って使うことで感じる。美を対象として愛でるのはなく美そのものを生きる、そうした文化への接し方は武術の志向と一致します。

しかし民藝運動自体は、それらの価値を喧伝するために器に作家性を持たせたり、高い値をつけることで実用品から遠ざかるという矛盾を抱えていました。
俗な例えで言うなら都会の喧騒から離れた雅な保養地を、もっと人を呼ぼうとしてゴルフ場とショッピングモールを作ってぶち壊すような話です。武術の滅びを食い止めるための方策は、この民藝運動の失敗から学ぶことが多くあるように思います。

この民藝運動に一時期、賛同して、のちに矛盾を感じて離れていった人に青山二郎がいます。
彼は骨董の鑑定の目利きであり装丁を手掛けたりもしていましたが、それを職業としては考えておらず、ただひたすら美を生きた人、コレクターでありセレクターでした。
彼はコレクションは抱いて寝て、いじり倒し、愛し尽くしましたが、その美の真髄を理解したときには、あっさり手放します。
その器の何が自分を引き付けたのかという解析を終え、そういう種類の美しさがある、という認識を得た瞬間に、器の美はそのまま青山氏そのものになっている。そうなった後で現物の器自体はもうあってもなくてもよい訳です。

コレクションは何かを集めることではなく、眼を作るということです。眼が高い人は自分の動きをその眼でジャッジします。師は、その眼が育つまでの監修でしかなく、見方がまだ分からない人に、こういうのが良くてこういうのは悪いという入口のナビゲートをしているだけです。









非言語的記憶・思考法 

画像をプリントし、その画像をスキャンしてまたプリントする、というようなことをしているとどんどん劣化していく。

型や技をノートにとって覚えようとする人もその傾向にあり、すでに技を練習するのではなく「技を言語化したものを復元する」という、ややこしいことをしている。そうなるとディティールが全部すっとんだり左右が逆になるなど、言語化しそこなった部分がごっそり失われたまがい物にしかならない。釈迦の教えを受けるのと、釈迦の教えを文章にしたものを読むのとでは全く違う。

そもそも対象と自己を同一化しなくてはならないのに、言語化するという翻訳をひとつ入れるというのは、より技を自分から異物化してしまっている。我々が学んでいるのは、「そのものである」ことであって「私(主体)がそれ(客体)をやる」ことではない。
西洋哲学が言語という粗い網で理を掬おうとする試みを失敗してきたのは、理を考察する言語自体が「I think」という一人称から始まる構文だからだ。有限である我を出発点にしていること自体が無理がある。

技をノートに取るということが有効なのはニュアンスや感覚に対する口伝やイラストで書き写すことで、それでさえ三次元の現象を二次元に落とし込むのだから劣化は免れない。
名演奏を再現できるのは耳コピからであって譜面だけでは不可能なのと同じだろう。

棋士やF1レーサー、そしてもちろん武術家は言語を介した思考とは別の判断で動いている。
プロ棋士が将棋板なしで脳内将棋がさせるように、また、骨格や筋肉の構造を知り尽くした画家がモデルなしでも複雑な構図を描けるように、自分の体を遊び倒していけば、実際に動かずとも稽古はできる。その段階になっていれば、電車の中でもねっころがっててもイメージだけで稽古はできる。

剣術でいう夢想、というのもそうかもしれないが、文字通り夢の中では自分視点、サイドビュー、相手視点が切り替わる。
これは訓練しだいで起きていても出来るし、死ぬ前の走馬燈やアル中などで幻覚を見たりするのもこれに近い。
ドッペルゲンガーを見ると死ぬ、というような話も、そこまで現実と区別のつかない幻覚が出てしまうと末期ということなのかもしれないが、中国武術では黙然師容とか眼前無人当有人という言葉がある。ある程度、こういった領域を解放してやるのが前提になっている。座禅もこうした言語による思考のデプログラミングだ。

言語で思考、記憶する習性の付いた人間は一回、完全に遮断しない限りそれを改めるのは難しい。
かつて交流会に来たフランソワ・デュボワ氏が武当山で携帯電話を取り上げられ、一切記録を取るなと言われたことや『日本の弓術』のオイゲン・へリゲル氏が苦心したのも、この辺の問題だろう。

嘘か真かテレビが白黒の時代、色付きの夢を見ると気がふれる、という話があったという。
つまりこの時代、夢はモノクロームが当たり前だったというのだ。
逆に言えば経験によって夢(映像・3D再生機能)は「鍛える」ことが出来るということだ。アイドルやモデルが常にカメラ映りのよいポーズをとれるのも「相手側からみた自分」のビューが想像できているからだが、これはテレビの例同様に自分を鏡で見る時間が長いから鍛えられた能力だろう。

飛躍かもしれないが動作を覚えられない人は鏡を見るのを嫌っている場合が多々ある。鏡を見ることは、自分の感覚と映像を一致させるディープラーニングとして有効だろう。
また、知恵の輪やパズル、ルービックキューブなども言語を介さない思考として訓練になる。

関連 パイドロスより (外部リンク)

自閉症の画家が記憶だけで描いた絵 (外部リンク) 

過去記事

過去記事・2

過去記事・3



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映画・『こころに剣士を』 感想 

映画をみてきた。実話を基にした映画である。
それなら書評ブログのほうに感想を書けばよろしかろうが、ちょっと武術の話でもあるのでこちらに書きます。

第二次大戦後、ソビエト統治下のエストニア。
ドイツ軍の脱走兵だった主人公は秘密警察から逃れ偽名を使い各地を転々としていた。そして田舎町に体育教師として赴任する。彼はフェンシングの名手であった。

最初はなし崩し的に始めた指導であるが、子供たちの熱意に打たれ主人公はフェンシングを教えることに情熱を燃やすようになる。そして、見つかれば強制収容所送りになる危険を冒し、レニングラードでの公式大会に子供たちを連れて行く。子供たちとの約束のために。



この映画の原題は『THE FENCER』である。こころに剣士を、ではなく、剣士そのもの、だ。
劇中、剣士という言葉が印象的に使われるのは、党員に連れていかれるインテリの老人が孫に言い残す「立派な剣士になりなさい」という言葉だ。ここではあきらかにフェンサーとはフェンシングをする人ではなく、より思想的な何かを示している。

それは主人公の指導にも表れる。
彼が最初に伝えたのは剣は元来武器であり、たとえ練習用であっても真剣と思って扱うように、ということだった。そして左手の高さや肘の伸ばし方、手の内の作り方、足音のない踏み込み、姿勢などを重点的に教える。
これらは競技としてのフェンシングの強さには直接は結びつかない。試合に勝つためのテクニックを教えるシーンは一切ないのである。それは「剣士」を作ることを幹としていて「選手」の指導ではない。

では再び問うが剣士とは何だろう?
主人公がフェンシングクラブを作った時、校長はそれを妨害し潰そうとした。
それはある意味では正しい嗅覚であろう。それが共産主義的、官僚的な彼の世界を脅かすものだったからだ。剣士の思想というのは極個人的な思想であり、それは反全体主義的なものだ。

主人公率いる中学は最初、木の枝で作った自家製の剣で練習していた。
のちにあるきっかけから素朴な中古の練習用具が行きわたるが、強豪校のような当たるとブザーの鳴る電気仕掛けの装備は到底望めない環境だった。防具が一組しかないときは二人づつ着けさせて実戦練習をさせ、どっちが勝ったかは自己申告させていた。

うがちすぎかもしれないが、私はこれがある意味で彼のフェンシングをスポーツではなく武術的なものにしていたのではないかと考える。電気の判定がないということは、相打ちに近いとき、どちらの剣が先に当たったか、当たってないか、というようなことは自己申告によるしかない。つまり、剣士であるということは紳士であるということでもある。ゴルフと同じで幾らでも嘘をつけばつけてしまう環境で自己をジャッジするからだ。

そしてその剣士たる特性が、行けば死ぬかもしれない大会に子供らを引率して連れていくという選択を取らせたのではないか。
約束を守るということは命より重い、というのは必ずしも普遍的な思想ではない。なにもそこまで、という人もいるだろう。
主人公の恋人も、それで死んでしまったら子供たちはどうなるのか物事を大局的に考えろと引き留める。もっともなことである。
しかし、剣士が一度した約束を破るということは剣士であることをやめるということだ。

これに似たような話はとみ新蔵の漫画、『柳生連也武芸帳』にも出てくる。
柳生の宗家であり江戸柳生との試合を控えた替えのきかない身でありながら、ちょくちょく連也は人助けやなんやらに巻き込まれ死線をくぐることになる。周りの人間はそれを自重しろというが、連也はこういう。
剣士はほんの一瞬の迷いも命取りになる判断の世界に生きる者であり、心に曇りがあればどのみち死ぬ。一度でも我が身可愛さに保身に走ったなら、その後ろめたさは心に曇りをよぶだろう、と。手元にないので大意だが、それが剣士の思想だという。
吉田松陰が男の約束だから、ということで死罪覚悟で脱藩してまで友人と旅行に行った、というエピソードもこれに近いかもしれない。
事の大小を問わず個人間の信義を絶対無二のものとする。それは確かに国家を最上とする共産主義思想や全体主義にとっては危険思想である。
ちなみに私も武術家の端くれであるので、できるだけ約束はしないようにしている。しなければ破らないですむからだ。

最後、主人公を密告して党に引き渡した校長は「自分は自分の正しいと思う事をしたまでだ」という。しかし目を合わせることは出来ず、その言葉は弁解じみている。一方、主人公はそのあとの自分の運命を受けれて生徒を真正面で応援する。主人公は剣士であることをまっとうし、目を逸らせてしまった校長は罪悪感に苛まれ続けるだろう。
そこに勝敗をつけるのはナンセンスだが明暗はある。

美しく静謐な作品だが、ではこの映画、無条件で誰にでもおすすめかと聞かれればそうとも言えない。
予告編だと感動巨編のような売り方をしているが、淡々、あっさりとした作品で、むしろアンチクライマックス的なものである。それが寒い国の風景とそこにいる人々、そして実話であるということの重みを等身大に描き出している。それを退屈、冗長と感じる人もいるだろう。

また、真剣と思って扱えと言っていたサーベルをキスシーンでガシャーンと落としたのはどうなのか、とか、最後戻ってこれたからいいものの、これで死んでいたら大会に行きたいと言い張った子供は「自分が言い出したことのせいで先生が死んだ」という十字架を背負う羽目になったのではないか、とか、別れのシーンから戻ってくるまでの間隔が短すぎてさすがにあっさりしすぎでは? とか、思う所もないわけではない。

しかし、武術指導者としての私は多くの場面で感情移入していたし、何よりまず、武術がこうした環境下でどこまで人の心の助けになるのかが知りたかった。

311の震災や、今後起きるであろう関東の地震、あるいは戦争など、非常時において、武術はどこまで求められ、また、私自身が荒れた生活や極限の環境下で武術を続けていけるのか? ある意味、遠藤周作の『沈黙』的なテーマで武術の普遍性を問いたくて見に行ったのである。はたして主人公は、脱走兵でも思想犯でもなく、剣士であるということが拠り所であったから生きることができた。

そして、かの国では剣術がこのように子供たちに熱心に迎えられているということに私は羨望を感じた。
私の仕事のうち、子供の指導の半分は、親に言われて習い事でやってます、という子、やりたくないとグズる子をなだめすかしてやらせることだ。そのうちに最初いやいややっていた子が武術の面白さに目覚めてくれるときの喜びは確かにひとしおであるが、そこにいたらず辞めていく子もいる。みんながみんな、このような熱意をもって習いに来てくれたなら…と思う。特にマルタちゃんが子供ながらに不敵な面魂でよかった。

都内では上映時間が遅く、あと二日しか公開していないが、興味がある人は見てみると良いかと思います。おわり。







維持するということ 

前回の記事で、武術はイレギュラーに対応できるかという、平時には問題とされないことを問題視する、と書きました。

これは言い換えるなら、武術は新しい能力を獲得したり、トロフィーを得るものではなく、命という既得権益を手放さないための努力といえます。勝ちたい、強くなりたい、ではなく死にたくない、という見ようによっては後ろ向きなモチベーションです。しかしその思いは副次的な欲求をはるかに上回ります。死んだらすべて終わりだからです。

いまある基盤を維持するということは個人、法人、国家、あらゆる存在にとって最重要事項です。夢を追う、事業拡大、そうしたアッパー志向のことをやろうとしても、土台がもろければ砂上の楼閣となります。
しかし、それは非常に価値をアピールしにくいもので、誰しも健康を失ってみるまで健康のありがたみが分からないように、命はあって当たり前という考えになっています。

中学生のときなら誰でも3kmくらいは体育で走らされていた。しかし、40歳近くなって今、走ろうとしても100mで息が上がります。しかし、ジョギングを趣味としている人は走り続けてきた結果として60歳、70歳でもフルマラソンを完走できます。それは、維持のための努力ありきの上でのことです。

企業で言うなら、今いる優秀な人材が流出、引き抜きに合わないように福利厚生や適切な評価、賞与などを出す、ということは、一見、黒字と直接関係なさそうですが、長い目で見れば会社自体の為になることです。
武術団体でも、まだ基盤がしっかりしていないのに支部を乱立した結果、質が下がり、また古参会員がおろそかに扱われているように感じて去っていく、というようなことが続くと潰れてしまいます。
新規入会者が一人はいることと、古参会員が一人抜けるのは数字の上では同じですが損失ははるかに大きいでしょう。まずしっかりとした維持ができて、後を任せられる人が育っていなければ組織の拡大はできません。

武術は合目的性、利方を追うものです。つまり黒字、メリットを得るだけでなく、赤字、デメリットを減らすことが大事です。太極拳は特に、積極的に勝つというよりは利を失わずにニュートラルであることを重んじます。自分がプラマイゼロで相手にマイナスがあるなら、時間がたつにつれ差は開いていきます。こちらが勝とうとしなくても相手が負けることになるからです。

こうした維持費に費用対効果を認める思考は、女性なら美容という概念で親しみがあると思います。保湿、スキンケア、基礎化粧品。こうしたものは、維持するための努力という点で武術に似ています。

新しいものを次々と手に入れ消費していく生活と、昔から持っているものを維持する生活。どちらを良しとするかは人それぞれです。
しかし、金継ぎした器や磨かれた古い木の廊下の光沢、そうした補修や維持のための努力を重ねてきたものは、後からお金を払っても手に入れることができません。それは一つの思想の結晶であり、その思想のない持ち主の手に渡り、手入れを怠られたなら、途端にただの古ぼけたものに変わるでしょう。

そしてそれがものであるなら、一生、新品だけを買い替えていけばいいでしょうが、自分自身であったなら、そうはいきません。命は一つしかありません。

常に自己を点検し、補い、修繕する。
してみると修業とは自分を痛めつけることではなく、大事に最後まで使い続けるという慈しみではないでしょうか。自分の至らぬ点を直視したり、それを直すことを苦にする人もいますが、お気に入りの器を金継ぎして綺麗に直していくとき、人はむしろ楽しさを感じるはずです。