柔の拳の考え方 

白桃会の武術のバックボーンは柔術と太極拳です。
この二つは共通するものがあります。前回の記事とも関連することですが、そもそも非攻撃的手段で構成されているということです。

太極拳はアン・リー・ジー・ポン・カオといった要素で出来ていますが、この中で明確に攻撃的なのはカオ(体当たり)だけです。
柔術も、挟む・捻じる・擦る・押す・伸ばす・曲げるといった非攻撃的要素で出来ています。当身も、ぶん殴る、痛めつける、骨を砕くといったダメージを求めたものではありません。

非攻撃的な動作だからこそ抵抗できない、反応できない、という盲点をつく。
どこも痛めつけずに降参させたり気絶させたりして勝つ。
健康法や整体に転用する。

これらは殺傷力のない動作「だからこそ」出来たことです。
こうした考え方は白桃会の武術の核である「当たり前、あって普通だと思って軽んじていることを徹底的に突き詰める」「認識外の領域を認識する」「万物に礼を払う」といった考え方を育んできました。

非攻撃的要素を使って戦え、というのは一種の公案・とんちのようなものです。それは居合いの発展にも似ています。

居合は鞘に収まった状態の剣で、すでに振り下ろされつつある剣に対応できるか? という問いに対する答えです。
鞘は攻撃に必要ありません。短絡的に考えれば邪魔なものです。
しかし、稽古していくうちに、鞘がハンディキャップであるという認識から、その制限があるからこそ最短最速の動きになるというガイドラインであり、不自然な動きをしたときに教えてくれるチェッカー、師に変わります。不自由の象徴だったものが自由のよるべとなる逆転が起きる。鞘がある「からこそ」間に合うようになる。

効率、意味、我執、価値といったことがある限りは、ぶん殴った方が速いとか、より強い力でぶん殴った方が良いから筋トレをしようとか、そうした火力至上主義以外のものは出てきません。そのやり方で強いのは体が大きい人間やフィジカルエリートだけです。

わらしべ長者におけるわら、花咲爺の灰のような意味のないものを大事にする。それが白桃会の武術であり、また、最近教えている俳句の精神でもあります。強さとは人が気にかけない路傍の花、壁のシミひとつに心を動かす詩人の心を持つことです。

思考停止した努力は怠惰に似る 

たまに珍念がこんなことを聞いてきます。

「これをやったら強くなりますか?」
「ローキックは足を上げればいいってことですね?」

などなど。

これらはつまり決まった正解があってそれをやればよいという考え方ですが、それはすでに武術的ではありません。

優れた訓練法であってもやる人の意識によっては無意味ですし、三年間崩拳を打つとかそういう万人向けでない訓練法でも本人の意識次第では強くなります。

ローキックに対しても、受けるにせよ、避けるにせよ、蹴らせないにせよ、どのやり方が正しいという訳ではありません。将棋の戦法と同じで優劣は存在せず、どこまでそれを掘り下げて考えたか、しかありません。レベル10の中飛車とレベル1の棒銀では中飛車が勝ちますがレベルが逆なら反対の結果になります。我々が出そうとしているのは最適解です。それは唯一無二ではなく永遠に終わらないモアベターの追求です。

武術は刃物などの武器を安全に取り扱う事を学びます。
一方でタオル一本、椅子ひとつを武器にすることも学びます。

つまり、そこには「危険なもの」はないし「安全なもの」もありません。人を生かすのも殺すのも賢さと愚かさです。
ドラえもんの道具であってものび太が運用すればろくでもないことになります。
同様に「強くなる方法」もなければ「正しい受け方」もありません。

となると結論は、頭をよくする、というのが根本解決です。どんな優れた道具をもらっても、のび太がのび太であることを脱しなければ全部同じ結果です。出来杉くんであれば道具なしでも映画版大長編の冒険を智慧だけで乗り越えるでしょう。

九九を全部暗唱できるようになったら、その後、毎日九九を暗唱し続ける必要はありません。もしそれを毎日喉を涸らして血反吐を吐いて千回やっている、といったら、その人は賢いでしょうか? どちらかというと馬鹿だと思います。
しかし、武術の世界ではそれを努力だと思い込んでいる人がいます。

甚だしいのは、九九は暗唱してもそれが何を意味するものか知らず、単に文字列として暗記しており、掛け算という概念は理解していない人もいます。それは術ではなくおまじないです。お経を唱えれば妖怪が退治できると考えるようなものです。お経にはそんな力はありません。書いてある内容が大事なだけです。

努力とは吐いた血の量ではなく向上したパフォーマンスで測るものです。むしろカリキュラムに依存している人は人任せで強くなれると思い楽をしているのですから努力家ではなく怠惰でしょう。

武術は攻撃という問いに答えることですが、それは知っている、知らないの知識で答える「クイズ」ではありません。
まったく未知の攻撃方法に対しても即座にそれに対応できるプログラムになるということです。





剣と拳/気について 

剣と拳

白桃会の剣の原則は、移動、振りなどすべてを剣の重さの均衡を用いることでやっている。
站椿も、上体を固めずゆらゆらさせ、前に倒れそうになったら合気挙げ的な動き、後ろに倒れそうになったら合気下げ的な動きでバランスをとる。これは前腕を剣のように使っているという事だ。

通常、腕はブラブラしている。腕がブラブラするのは上体がそれを吊るす支柱として固定されているからだ。
しかし、電車の吊革やポールダンスのポールなどにつかまってぶら下がると、胴体と腕の関係性(支柱と吊るされるものの関係性)が逆転し、腕が主、胴体が従になる。その結果、背骨は波打ち、酔拳のようなムーブが生まれる。

站椿はこの背中が完全に緩んでいる感じを作りたいのだが、そのためにはかなり前腕を張ってポンを保持する必要がある。それにより、エアー吊革、エアーポールを作る訳だ。

ところで太極拳では上虚下実といい、二天一流では「しもはゆるぐともかみはゆるぐまじ」と、一見逆のことを言っている。
だが、これが多分同じことだと分かった。何故なら鍔ぜりで受けて押し込まれない状態は脊椎がサスペンションになってはじめて出来るからだ。円相に張った二刀の構えは抱球、抱柱と言われる太極拳の形と相似する。

逆流の中で不動であるためには絶えず外圧と逆のベクトルの動きをし続ける必要があるように、体感的には動くことが客観的に動かないことと同義であったりする。武術は逆説に満ちているので言葉を追っても迷うばかりの事が多い。

気について

上記のような円相の張り、ポンと呼ばれるものは東洋的には「気」の働きによって作られていると説明される。
「気」と聞くと何やら神秘的なもののように考えやすいが単純なことだ。

少林拳や南の拳法は突き蹴りで体を完全に伸ばしきる。こうした直線打突は、いかに地面と体を一体化するかという「骨格構造で支える」原理によって構成されている。
しかし、それは強力であると同時に打突の反作用が自分にも返ってくるということだ。それは時として肩や手首を痛める結果になる。また、そのように剛体化した突き蹴りは一発打ち切りになり、打ちながら変化したり力の方向をいなされたりという推手的展開になったときに難点がある。

そこで太極拳がとった方法は、緩いカーブをもったアーチ状に腕を固定するという考えで、これだと腕関節はサスペンションの機能を残しているので弾性と剛性を適度に両立している。この状態をキープする感覚が「気」と言ってもよい。
これは心身統一合氣道でも最初に習う「折れない腕」とも共通する。中国的な「気」と大東流の「合気」、合気道の「気」は定義がどれも違うが、これに関しては偶然符号している。

単純に日常の用語としての「気を抜いてしまう」とこの固定状態は解除されてしまう。常にその状態であるように体に信号を送り続ける必要がある。
腕立て伏せでいうと腕を伸ばしきった状態と曲げ切った状態は骨格で固定されているが途中の半端なところで止めると腕がプルプルして苦しくなるだろう。あの状態をキープするということだ。

そういう意味では鉄牛耕地や玉帯功も内功だし、あらゆる筋トレは内功と言えなくもない。タイヤをハンマーで殴ったりマキ割りをするとトレーニングとしてよいと言われているが、あれも一種の気功、内功だろう。
振り降ろした瞬間に力みがあれば反作用でムチウチや脳震盪を起こす。衝撃の戻りを逃がしながら手の内を締めるということを呼吸でコントロールしている。呼吸・脱力・ミートの感覚を完全一致させる訓練であってパワーを増大させている訳ではない。

このように剛柔をブレンドして使う、というような複数の性質の違う運動を制御する機能、感覚は部位ごとの筋力より重要で、運動オンチ、動きが硬いと言われる人は、おおむねこの機能が訓練されていない人のように見える。剛だけ、柔だけになってしまう。

たとえば、片方の手で10kgの米を落とさぬようにしっかり持ち、反対の手はそっと幼児とつないでいる。
足は歩きつつ、目は障害物を察知し、耳は幼児の話を聞いているが意識は夜の献立のことを考えている。かつ幼児が飛び出さないか警戒もしている。

当たり前の光景だが、このようなタスクの平行処理は意識、自我でこれを制御しようとしたら発狂するだろう。
全部、ほとんど無意識でやっていて、だからこそ上手くいっている。それは当たり前にありすぎて見えていないものだ。
しかし、この統御機能を訓練しなければ、打撃を警戒しながらバランスの崩れを感知し、他の敵や逃走経路を探しつつ地形に気を配りつつ戦いながら、武器になるものを探して・・・というようなことをパニックにならずにやっていくのは難しい。

芸事で水の扱いにうるさく、水をこぼすと叱責されるのも、水をこぼさないように動く、というような運動がこの能力に直結しているからだろう。

5ffab440d42dc33129c.jpg

武術が我を離れないといけないのは、我がある限り、相手を見ていて逃げ道や地形は見えていない、というような、その人の我がフォーカスするものしか処理できなくなるからだ。そのやり方は、旧式のパソコンに複雑なプログラムを処理させるようなもので熱暴走してフリーズする(相手にそうさせる技術もある)。

ああきたらこうする、こうきたらああするというシステムは、必ず「想定外のこと」がゼロにはならない。
汎用的に生存能力を上げるには、そうしたシチュエーションごとの方法論ではなく、我を捨て、あらゆる状況で最適解そのものである、問われる前から答えであるという状態を作ることだろう。

しかし、近代人は西洋化が激しいので自我(エゴ)が強いことが正しいと思っているのでそれが難しい。
多くの人は意識、自我を自己の本体で、それが行動を決定していると思っているが、本当にそうだとしたら、そもそも朝、目が覚めるというのは怪現象になる。寝ている人間は起きようと意識していない。

動画三本 

最近の動画から






圧縮と解凍 

大体の人は殺されたくないと思います。
死にたい、自殺したいと思っている人でさえ、他人に殺されるのは嫌だと考えるのが大多数でしょう。しかしこの世にはこちらを殺そうとしてくる存在がいます。すると、殺されたくないというこちらの要求と、殺したいという相手の要求の間に齟齬が生まれます。

なぜ我執を捨てる、ニュートラルであるということが必要かというと、武術はこの構造の中のどこに位置するかというと、自分と相手の間にあるものだからです。

人間は自分本位に考える癖があるので、我があると「私が殺されたくないのだから相手は私を殺さないに違いない」という超希望的観測をもってしまい、自分を殺そうとする相手に「やめてください」「暴力は良くない」などのズレたことを言うようになってしまいます。生き延びるには、相手から見て「じゃあ殺すのはやめましょう」と思わせるような、もう少し気の利いた交渉が必要です。

お金が目当てなのか、快楽殺人者なのか、こちらの振る舞いに怒っているのか、面子の問題なのか、問題の核を捉え、相手が引き下がるような受け答えをしなければなりません。その中に戦って倒すという選択肢も含まれる、というだけです。

そういう意味では武術家はアンバサダー(大使)でありネゴシエーター(交渉人)です。対岸をつなぎ一つとする架け橋であり、相手の要求の核を探り当てるカウンセラーでもあります。
夫婦の問題がこじれているときに介入したカウンセラーが男尊女卑の考え方であったり、あるいはその逆であったなら、問題はこじれる一方でしょう。だから武術家はニュートラルな存在であることが必要になります。
そもそも襲われる側は戦う相手を選べない、という問題があります。そうなるとその場の状況に応じ、手元にあるもので戦うしかないので、必然、ニュートラルにならざるを得ません。

しかし稽古時間は有限で、全ての項目への対応を個別に学ぶことは不可能です。どうすればいいでしょう?
そこで生まれたのが、似たケースを同類項に分類して、出来るだけ同じ方法論で解決するようにあてはめていく、という考え方です。たとえば、パンチというカテゴリで分類すれば直突きとフックを一つにまとめることが出来ますし、運動の性質に焦点を当てた場合は直突きはフックより槍の攻撃に近く、フックは下手投げに近くなります。
このように性質を一本化できる行動はまとめていく、という考え方が武術に一般的にあります。捨象と抽象化という概念です。これが武術と魔術を兄弟たらしめている部分です。二つの世界、あるいは願望と実相を抽象を以ってつなぐことが術の本質です。


C-0wizNVoAAyHru.jpgC-0wkBYUAAAU91F.jpg

・野球拳の発生

DA6Y8xLUwAAc_ph.jpgmig.jpg

・堺正章と達磨一家

最初から抽象化されたものを学んでも意味が分からないので丸暗記することになります。
しかし洗練し圧縮されたものは解凍しないと実用化できません。
白桃会が技でなく技に対する考え方を教えている、と繰り返し言っているのは、この圧縮の仕方、解凍の例を見て、術者としての観方を身につけるということです。