2008

10.03

« 真剣30代愁嘆場 »

今回は、カテゴリが「ゆかいな稽古風景」ですが、特に愉快な話ではないですよ。


昨日のドラネコ商会の方の稽古のこと。散発的に過去二度ほど来たB氏と、たまにビジター的に参加する総合格闘技の人、Rうdyさんというメンツ。

いつも通り、鍛錬法、型、約束稽古、組手ときた後、B氏がゴムナイフを使って対刃訓練的なスパーをしたいと申し出た。B氏がナイフで我々が素手である。
で、私とRうdyさんが相手をしたが、その当て方が強すぎるというので、フルコンタクトでなく、手心を加えてほしいと言われた。が私はそれを断った。

ドラネコ商会で武器術をやる際は、寸止めか、型稽古のどちらかだが、片方が無手で片方が武器の場合は、普段の組手のルールにせざるを得ない。
というのも、無手側が武器側に手加減をするというのは、事実上不可能だからだ。

棒や剣と違い、短刀は目に見えている部分はほとんど刃しかない。柄をつかんで取り上げるという事は出来ない。
と、言うことは、武器を叩き落とすか、腕を極めて離させるか、一撃で行動不能にさせるかしなければいけない事になる。これは、どれも寸止めやライトコンタクトでは不可能な事だ。
そもそも根本的に、刃物を持った相手と対等に戦うには、こちらの攻撃も当たればただでは済まない、というプレッシャーを与えて、気迫的にはむしろ押していないといけない。
当たってもどうと言うことはないと思われたなら、ヤクザ映画のように短刀を腰だめにして、相打ち覚悟で体ごと突っ込んできたらそれまでだ。

例えば、最初の一本目。
開始とほぼ同時に私は相手の武器を持つ手を蹴り飛ばして武器を落とさせたが、これを軽く蹴ったら、武器は落ちない。無手側はそのまま斬られるだけである。
次の一本は、数カ所斬られたが、手首を抑えて、首相撲から膝。投げて馬乗りになり、相手の刃で逆に首を斬りつけた。これも、膝蹴りが弱かったら相手の動きは止まらず、投げも決まらないから刺されていただろう。

逆に、刃物を持っている側も、こちらに捕獲され、武器を持った側の手を掴まれた際、当身を使わなければ脱出できない。これを寸止めでやっていたら、今のは先に俺が触った、いや、本来だったらその前のローキックでお前は動けなくなっていたはずだ、というような水掛け論になってしまう。そうなるともはや実際の戦闘の模擬ではない。

なので、無手と武器でやって無手側が手加減をするのは無理です、とB氏に伝えた。
しかし、彼は、実際にはゴムナイフは当たっても死ぬ訳ではないのだから、そちらも軽くで良いのではないか、実際、そういう稽古をしている団体もあるし、そんな稽古でもしないよりはマシなのではないか、と言った。

まあ、よそはよそ、うちはうちなのだが、これは一理ある。
が、それが本当にしないよりマシなのか、むしろ変な勘違いや油断癖がついて悪影響があるのかは分からない。
例えば、私はシャドートレーニングをほとんどしない。なんとなれば、大体の場合、実際に襲ってくる相手は初見の敵で、どう動くかは全く予想できないからだ。シャドーで華麗なフットワークやコンビネーションをいくら出来ても、実際には使わないのなら意味がない。現実の戦いと乖離した稽古はオナニーでしかない。

そして、正直、「ゴムなんだから当たっても死ぬ訳ではないと思いながら、手加減しながら当てっこをする」という稽古を何百回積み重ねても、実際に刃物を出されたら通用しないだろうと思う。それは技術以前に覚悟の問題だ。
ゴムだろうが竹刀だろうが、「真剣勝負」だと思って、当たったら死ぬという「必死さ」でやるから意味があるのだし、稽古になる。

まあ、そんな話をつらつらとしていたのだが、ほぼ平行線でらちがあかなかった。
じゃあ試しにこちら側がナイフを使うから、そちらはライトコンタクトで防げるかやってみようと言うと、それは出来ないという。

B氏に対して稽古開始時から、なぜか半ギレ気味だったRうdyさんは、「そもそも、何で習いに来ている側が武器側をやるのか? それは結局、自分の上達じゃなくて単に人の実力を試したいだけでないのか」という事を言った。
確かに、毎回思っていたが、B氏にはちょっと勘違いした自信というか、挑戦的な態度があった。
実はB氏は過去にも、功朗法とか、クラブマガとか、その辺りの団体に行ってきたらしく、そこのインストラクターにも自分のナイフ術を試したが、全然避けられなかった、という話をかつて、私に言っていたのだ。
思うに、そこのインストラクターも、実際に当てればB氏を倒せたのかもしれない。が、それこそ、手加減をしてくれたから勝てたのを、B氏は所詮そんなものか、と勘違いしたのではないだろうか。

別に、教える側としては実力を納得した上で来ていただきたいので、試されるのは構わないが、人を試すというのには相応のリスクが必要だと思うし、今回はそれが痛みという形で戻ってきたのはしょうがないんじゃないかと思う。
当たった、当たらない、勝った負けたではなく、うちでやっているのは武術で、生きるか死ぬかなのだから、試せばそうなるしかない。
また、うちで、よその団体についてそういう事を言ったということは、もし、私も寸止めやライトコンタクトで相手をしていたなら、B氏は今度、よそに行った時に、「ドラネコ商会の人は自分のナイフをよけられなかった」という話をするだろう。だから、明確な形で決着したというのもある。

だから、そもそもの彼の口振りでは、そうした形式化した稽古をやっていても意味がない、というような事を主張していたはずに思ったのだが、今回は形式的な稽古にしてくれ、かつ自由攻防で自分がナイフ側オンリーで、という方に宗旨が変わっていて、ちょっとうちでは対応しきれなかった。
そういう稽古がしたいなら、そういう会へ行って下さい、としか言えない。まあしょうがない。

これは個人と個人の問題、というより、武術を教える形式、という事についてけっこう重要な問題で、どこに行ってもある程度ついて回る問題だと思う。
空手などの歴史も、こうした葛藤の繰り返しだろう。寸止めでは、威力が分からないかもしれない。フルコンでは顔面攻防が無いだろう、じゃあグローブとヘッドギアをつければどうか、今度は素手の間合いや技術から乖離してしまったし投げが使えない、という風に、より実際の戦いに近い形式を模索していっても、どこかで制約を受けてしまう。

それは、どれが正しい、ということもなく、色んな考え方と方法論がある、という事だろう。だからB氏と私、どちらが正しい、間違っているという事もなく、結局は自分の命を守るのは自分なのだから、自分が信じた道を行くしかない。
しかし、今回がベストの対応だったか、というのは分からない。どうなんだろうな。まあ、元から言っているけれど、万人に勧められるタイプの会ではないので、こういう事もある。

ゆかいな稽古風景トラックバック(0)  コメント(3) 

    2008

09.26

« 不透明な力 »

Tさんとの三日間強化合宿稽古と、昨日のハルカさんとの稽古が終了。
燃え尽きたよ…。何もかもが真っ白に…。

今回は、お二方、どちらにも、主に「相手の力をゼロにする」という感じの稽古をやってもらった。これは、色んな人が提唱している理論だけど、それだけに結構、間違った解釈もされやすい概念だ。

一番よくある間違いとしては、たとえば相手が10の力で押してきた、あるいは引いてきた時に、それを10の力で反対側からぶつけ返す。
これは、見た目は相殺されているから、ぶつかっている点は確かにプラマイゼロに見えるけれど、実際には、グリグリと力比べが拮抗しているだけで、ちょっとでも気をぬくと一気に力関係が崩れてしまう、危うい均衡である。
そうでなく、相手が押す、引く、という力をかけて来た時に、こちらは元の位置でニュートラルを保つのに専念する。すると、相手は最初に自分が出した力の反作用でおのずと跳ね返ってプラマイゼロの状態になってくれる。これを利用する事が、真っ向勝負で激突しても、力がガチっとぶつからずに返せる一歩なんですな。

で、もう一つ、間違えやすいのは、相手が10押してきて、力のある人だと、13とかで押し返せてしまう。
押し返せるんだからそれで結構じゃないか、と思いがちだけれど、これは13ー10=3で、結局、3しか押せてない訳です。
「相手の力をゼロにする」のゼロは文字どおり0な訳で、こっちが押し過ぎると、相手はゼロを通り越してマイナス3とかになってしまう。でも、それは見ようによっては、「3押し込んでいる」んじゃなくて、「3ひっぱられている」と言える訳です。
そうなると、相手は、じゃあ押し込まれたから今度は引っ張るのに変えますか、となり、今度は逆にこっちも引っ張り返し、そうなると相手は押してきて…と、正に延々押し問答になってしまう。
そうでなくて、押すも引くも抜き差しならないようにしておいて、そこから初めてこちらが10押すと、それは丸々10、相手に伝わってくれるという計算になります。

まあ、実際にはこんなに単純な事ではないのですが、分かりやすく言うと、私が特別な鍛錬をしてなくても力負けしないのは、こういった理屈で威力が貫通しているという事が一点。もう一つは、力点と作用点の置きどころが違う、という事につきます。
この稽古はわりと評判が良かったので、お二方とも、今後の方向性を考えるヒントになってくれれば良いと思います。

しかし、Tさんは福島、ハルカさんは八王子、そして昨日来ていたYさんも茨城と、私より年長者の方々に、わざわざ遠いところから来ていただいて、本当に頭が下がる。
昔つきあっていた女性から、「君から武術を取ったら、ただのクズだからね」と言われた事もあったが、武術をやっていたおかげでこうした方々と縁が持てたのは幸いだ。

ハルカさんの稽古体験レポートは、Mixiから読めます。興味のある方は、ちょっとほめ過ぎに書かれているので、眉に唾をつけて四割引きくらいに読んでみて下さい。

ゆかいな稽古風景トラックバック(0)  コメント(9) 

    2008

09.19

« チラシの裏的な雑感 »

昨日の稽古で、一個、どうしても上手くいかない技があった。
どうして上手くいかなかったのかは、今は何となく分かったが、やはり相手の状態に左右されてかかったり、かからない技というのは良くない。といっても、誰にでも絶対かかる万能な技というのも幻想なのだけれど、今回のは、程度問題として自分に納得のいかないラインだった。改善せねば。
前に、「時々開いたり開かなかったりするパラシュートに命は預けられない」とか、ビッグマウスをビートしてしまったしネ!

もともと、同種である人間同士の殺傷方法に血道をあげている時点で、武術家というのはどこかしら頭のネジがゆるんでいます。しかもそんな事が上手だからといって社会では全く役にも立たないし、評価されない訳です。しかし、だからこそ、狂ってるなら狂ってるなりに筋を通さないといけないと思うのです。
「全く役に立たないし、狂ってるけど、確かに技は凄い人だ」なら、まだ矜持として納得できますが、その技すら駄目となると、狂人界、狂壇でも二流、三流狂人になってしまいます。どうせ狂うなら一流でなくては。
……とか、書いてしまいましたが、しかし、長く稽古が続いている人はむしろ、皆さん、常識人で礼儀正しいですね。稽古後に感想やお礼のメールを欠かさない人や、お中元、お歳暮まで送って下さる人とか。あ、催促じゃないですよ。決して催促はしてませんとも、ええ。僕、お肉が食べたいな。

逆に、この狂人の目から見てすら、お前本当に社会人か!? と思うほど、非常識なメールや応対をする人もいて、そういう人は大体、問い合わせに答えても無返信とか、当日キャンセル後、バックレとか、そして、その後、よその会宛の間違いメールを送りつけて来たから「宛先間違ってますよ」と返信したらこれも無視とか。いきなりタメ口とか、いろいろあり得ない感じで驚かされます。
これだけ、うちはお客さん気分で来られても困りますよ、遊びじゃないですよ、礼儀を知らない人には教えませんよ、と書いていてもそういう問い合わせがあるって、本当に日本の識字率は先進国の水準を満たしているのか謎です。

とはいえ、組手は勿論の事ながら、型でさえ、折れる寸前までは極めるし、変な角度で落ちれば一生、植物人間になるかもしれないような投げ技とかもある訳で、それをやるのも、やられるのも、信頼関係があってこそなので、変な人には来ないでもらうのが何よりではあるのですが。あからさまにナメ切った態度の人には、相応の目にあって帰ってもらってますしね。

明日から三日間、良識人代表の、福島のTさんが泊まりにきて、集中稽古します。そして25日には、合気、柔道、空手、拳法と様々な武道に長け、博識で知られるハルカさんがくる予定。今月は楽しみが目白押しだぜ!

飲み屋の便所に貼ってある親爺の小言の類いトラックバック(0)  コメント(5) 

    2008

09.17

« ドラネコ・ブートキャンプ »

このところの記事二つくらいで、鍛錬法について書きましたが、これに関してもうちょっとだけ掘り下げてみたいと思います。

初めてうちに稽古に来た人とかに、時々、「どうやったらそういう力が出るんですか」とか、「普段、何か特別な鍛錬をしているんですか」とか聞かれる事がありますが、フフフ、ぶっちゃけ何一つしていないんだな、これが。
食って寝るのも稽古でゴワスとうそぶいて、のんべんだらりと怠惰な生活をしているだけです。あ、大麻はやってないですよ。

正確に言うと、太極拳を集中的にやっていた二年間以外は、ほとんど一人稽古はしていません。柔軟運動すらしません。たまに素振りをする程度ですが、これも鍛えるというより、左右の体の力を一つにまとめる感覚を確かめる程度なので、日課とかではないです。だから、近況で書いた二人一組での相対型鍛錬法が全部です。

私は骨格や、見た目ではまるっきり一般人だし、体脂肪率は30パーセント、階段を登ると息切れ、動悸に見舞われ、ダッシュは50メートルも出来ず、ジョギングも300メートルも出来ません。懸垂なんか無理だし、腹筋も十回くらいで限界です。
体力測定的には柔軟性と跳躍力は平均以上でしょうが、あとは平均以下だと思います。それで、結構鍛えている人にも驚かれるのは何故でしょう?
これを気の力ですとか、合気ですとか言うと金儲けが出来るし、実際、この手の力を気だとか合気だとか言ってしまっている団体もあるのですが、そんなに大した物ではありません。正直、戦う事だけに特化した場合、人を倒すのに必要な力はコンビニでレジを打つより低い体力しか使いません。

なんでそんなに一人稽古をしないかというと、やっていて寂しくなるから。
じゃなかった。ああ、まあそれもあるんですが、一体、何が効果があるのか分からないからですね。
昔はうさぎ跳びとかを学校で指導していたり、腹筋の時は足を伸ばしていたりが普通だった訳です。しかし、今ではこれは体によくないとされています。
トレーニングの世界では、有酸素運動だ、いや、高地トレーニングだ、加圧式だ、ヨガだ、チューブだ、深層筋だ、ケトルベルだ、水を飲め、いや、飲むな、食事は何回に分けろ、肩は冷やすな、いや、アイシングしろ、ゆるだ、ゆるむな、と、新しいものが出てくるたびに今までのやり方は間違っていたと言われる訳です。
これが何を意味しているかというと、つまり、今、最新のトレーニングもどうせ十年後には、間違っていると言われていて、誰も見向きもしていないものである、という事です。なんとか健康法、ダイエットの類いと一緒です。

もともと、一人でやる練習というのは、意外と上達を阻む罠のようなものがあります。
例えば、以前より、重いものが持てるようになったとか、回数がこなせるようになったとか、そういう数値化できる鍛錬は、いつのまにか、それが実際の動作の何を補強する鍛錬だったのかを離れ、記録を更新することに意識が移ってしまい、手段が目的になってしまいがちです。
大体、いっぱい鍛えているのに実際に組み合うと弱い、というタイプの人はこうなってしまっている人です。また、体の一部にのみ意識がいった鍛錬をしていると、全身の動きを協調させる妨げになる場合もあります。

次に、記録でなく、感覚的な意識でしか上達を計れない種類の鍛錬ですが、これは、何となく強くなってきた気がする勘違いの元になりやすいです。ある程のレベルになるまでは、常に上の人にチェックをしてもらわないと、変な癖がついたりして、マイナスになってしまう事もあります。
そして、結局のところ、鍛錬の結果が厳密には分からないのが、最大の問題です。
強くなったのが、鍛錬のおかげなのか、他の要素によるものなのかも分からないし、それがたまたま自分の体質にあっていたのか、万人に勧められるものなのか、長年続けた場合、どんな影響が出てくるのか、というのがグレーだからです。
そういう意味では、最新の運動理論ほど、むしろ統計的、臨床例的に効果が確認されていないので怪しいとさえ言えます。

じゃあ、全部駄目なのか、無駄なのかというと、それもまたそうではないとも思います。やり方や、やる側の意識によっては、効果はあるとも思います。特に組技の場合は、技の威力と直結した鍛錬も多いです。
たとえば、レスラーがブリッジとスクワットをする。これはもう、明確に動作が技と直結しているから、理解しやすいです。
反面、打撃系の闘技の基礎鍛錬は、抽象的なので、効果を明言できません。
ボクサーのロードワーク、縄跳び、パンチングボールなどは、みんなやっているからには、効果があるんだろうけれど、具体的にはどう役に立っているのかちょっと謎だし、縄跳び下手でロードワーク嫌いで世界チャンピオンになっちゃった人もいます。
空手に至っては、基本稽古や型などを無駄と言い切ってしまう競技者も多いです。

なので、とりあえず、二人一組でやる鍛錬は、相手の生の反応から効果が見てとれるのと、客観的なアドバイスがもらえるので、それを中心にやっています。そう考えると、相撲のぶつかり稽古みたいなものは、やはり良い鍛錬ではないかと思います。あと、大麻を吸ったりとか。

考察トラックバック(0)  コメント(9) 

    2008

09.09

« 徒然草 »

健康。健康。
うん、健康は大事だよね。ホント。もう、健康命! 健康の為なら死んでもいいね。

まあ、それは冗談ですが、最近、本当に食事とか生活習慣とか、色々気を配らないと体調が維持できなくなってきています。
ここ半年くらいでかかった病気といえば、尺骨神経痛、食道裂孔ヘルニア、帯状疱疹と、若さのかけらもないものばかり。どれも地味につらかったので、健康の大事さを噛み締めております。暴飲暴食、無頼の月日、今はただ悔ゆるのみ。

で、武術と健康についてですが、基本的には無関係なスタンスでやってきました。
39度の熱が出ていても稽古に行って、「熱があるからって敵がいれば戦うしかないんだぜ。真の武術は体調にパフォーマンスが左右されないんだぜ。ヒャッハー!」とか言って、翌日、三途の川のほとりに佇んでいたりした訳です。
確かに、どんな状態でも戦える技術は必要です。しかし、長いスタンスでみれば、常に万全の備えをしておくのも武人のたしなみとしては必要なんじゃねえの? と考えが日和ってきました。

なので、武術的に見て健康というのは、快眠、快食、快便といった一般的な健康から一歩踏み込んで、快戦、戦えるコンディションであると定義したいと思います。
野生生物にとって、爪や牙、羽など、戦闘に必要な機能を失うことは死を意味するのです。

すると、どうでしょう。この「戦える」という要件を足すと、結構、世間の人の多くが「不健康」に分類されるようになってしまいます。じゃあ俺と世間とどっちが間違っているかと言えば、客観的に見て世間が間違っている。
だって、健康の為にジョギングとかしてて、通り魔に刺されたら死んじゃうじゃない。同じ時間、稽古してれば生き延びるかもしれないじゃない。

教訓》 白桃会に入ろう。入れ。


……あ、終わっちゃった。いや、今回はそういう勧誘とかじゃないんですよ。
まあ、そういう点、太極拳とかよく出来ているな、というのは、護身として考えた時に、外敵だけでなく、内敵、体の中の敵にも意味があることですね。

太極拳を毎晩やっていた頃は、真冬に半袖でも体が熱かったという話を以前、クロニクルに書きましたが、本当に、汗をかくにしても、疲れるにしても、その質が違う。心地よい汗と疲れなんですね。温泉に入ったみたいな。多分、脳内麻薬とかも出てるんでしょう。

一般的な鍛錬は、同じ箇所に同じ間隔で負荷をかけます。
筋肉がつく仕組みの超回復というのも、一回壊して再構築させている訳ですが、やはり一回壊しているということは、あまり体に良くない訳で、鍛え過ぎた人は短命な傾向にあります。
しかし、感覚的な感想で言うと、太極拳は常に力のかかっている部位が移動していく為に、筋肉の量は変わらないけど、質が変換されていく。
しかも、その時、普段なら慣性や惰性で流してしまうような動作をあえて意識的にゆっくり行うことで、神経のシナプスが新規にどんどん生成されている感じがする。多分、これを指して、勁道と呼んだりしているのではないでしょうか。
そのせいか、すごく時間の感覚が引き延ばされた感じになったりします。
これによって、相手の攻撃がコマ落としに見えたり、動きと動きの間の隙が見えるようになったりもします。ずっとやっていれば、感覚的には不老不死になるかもしれません。

不老不死は冗談にせよ、こうしたトレーニングは、単純な筋肉疲労や、免疫、抵抗力の低下などがありません。むしろ、意識を向けていなかった部位を動かすことで、全身の活性化、基本性能の底上げがされます。むしろやればやるほど力がみなぎるぜ! という感じです。
そして、それだけに武技としても、鍛錬が苦痛にならず長時間行えるので、結果的には強くなるにも近道だと思います。一日2時間、三か月くらい稽古すれば、けっこう劇的に見た目から変化しますよ。お試しあれ。

ありがたいお話トラックバック(0)  コメント(0) 

 |TOPBack